hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

朝日新聞にまたしてもびっくり--極端な二重姿勢は、社内外から言論の力を奪い、無気力を蔓延させる

「自由な報道による権力の監視は、民主社会を支える礎の一つである」

 

「権力と国民のコミュニケーションが多様化する時代だからこそ、事実を見極め、政治に透明性を求めるメディアの責任は、ますます重みを増している」

 

 冒頭に引用したのは、2017年1月29日朝日新聞社説「米政権と報道 事実軽視の危うい政治」の最初と最後の文です。

 私の理解では、ジャーナリズムの基本は、事実への固執であり、その事実への固執を軸とした権力からの自立です。ジャーナリズムにとっての言論の自由とは、それが核であり、あるいはそれがすべてに近い、と考えています。

 ですから、冒頭の引用の内容はまさに正論であり、今の情勢の下では、力づけられるものとして称賛を表明したいところです。

 ところが、実際問題として、安倍政権に対して朝日新聞がとっている態度、行動はどのようなものでしょうか。それは、これと正反対の方向への紙面づくり、言論活動であると感じます。山崎氏は、次のように指摘しています。

社説でいくら立派なことを書いても、日々の紙面では「事実軽視の政権追従記事」を平然と載せ続けるようでは、外と内の二重基準がさらに無意識化するだけだろう。米国の政治状況を心配する前に、日本国内の政治状況の危機を直視して、かつての朝日新聞がやっていたように、権力監視を再開してはどうか。

 

 このことは、山崎氏や私のように外にいる人間ばかりでなく、社内でもかなりの人(もっといえばほとんどの人)が感じているのではないでしょうか。

 

 前回、朝日新聞デジタルヘッドラインの記事を批判しました。

 そして、その後新聞報道などでは、冬季アジア札幌大会の組織委員会が25日、大韓体育会(韓国オリンピック委員会)に対し、書籍を撤去する方針を公式に伝えた、とされています。

 そこでもう少し、ジャーナリズムの重要性という観点から、この記事に関して付加的な議論を行ないたいと思います。

 いかに①朝日新聞が、ジャーナリズムにふさわしくない後ろ向きの姿勢を示しているか、②朝日新聞のこの記事が、事実から逃げようとしているか、その結果、この問題を現在形で考えるための材料を提供していないものとなっているか、を指摘します。

 まず、第1の論点です。

 私が前回取り上げた日のデジタルヘッドラインは、メールのタイトルが

 

南京事件に否定的な本 中国でホテル批判

 

というもので、このメールを開き、さらにこの記事にあたる部分をクリックすると、この記事が出て、内容を読むことができるようになっています。

 ところが、この記事のタイトルは、

 

アパホテル南京事件否定の本 「 右翼ホテル」 中国報道

 

となっていました。 

 

 最初のタイトルを、メール・タイトルと呼び、次のタイトルを記事タイトルと呼ぶことにします。

 私は、前回のブローグで、メール・タイトルの「南京事件に否定的な本」は、意味不明だと批判しました。記事タイトルの「南京事件否定の本」ならば、これが「南京虐殺(という歴史的事実)否定の本」のことであると推察がつきます。しかし、南京事件に否定的な本」では、全く逆の意味--南京虐殺という歴史的な残虐行為を批判的に描いた本--であることもあり得るので、私は意味不明だと述べました。

 何故、記事タイトルが南京事件否定の本」なのに、メール・タイトルは、「南京事件に否定的な本」に変わってしまっているのでしょうか。

 字数でいうと、後者の方が2文字増えているので、字数短縮のためという理由は成り立ちません。

 大変微妙なこと、つまらないことのように見えますが、そこには、朝日新聞の姿勢を理解し、さらにジャーナリズムのあり方を考える上で、重要なことが反映されているように思います。

 おそらく、この記事の署名者達ではなく、いわゆるデスクにあたるような仕事をしている人(達)が、元の記事タイトルを、このようなメール・タイトルに変えているのでしょう。

 私は、前回、新聞のヘッドライン、見出しというものに、その新聞のセンスが縮約される言いましたが、改めてこのことを確認したいと思います。

 では、配信のためのメール・タイトルを作成した人は、何を考えてこうしたタイトルの変更を行ったのでしょうか。

 事実として、メール・タイトル作成者は、新しく「南京事件に否定的な本」という微妙な意味不明の言い回しを「発明」しました。記事タイトルから、「アパホテル」という固有名詞を削りました。それから、「右翼ホテル」というどぎつい表現も削りました。

 記事タイトルは全体として長すぎたので、短くするためにそうしたのでしょうか?私はすでに、南京事件に否定的な本」という表現が、長くなってかつ意味不明になっていると指摘しました。

 仮にタイトル全体としての長さだけが問題あったとするならば、例えば、

 

南京事件否定の本 中国でアパホテル批判

 

とすれば、自然であったし、長さも丁度同じになります。

  私は、メール・タイトルは、全体として事実を「なるべくわかりにくく」したもの、アパホテルのオーナーを含む南京虐殺否定論者からの攻撃を避けるために、「マイルド」な表現に変えた結果だと推察します。

 実際問題として、メール・タイトルを「工夫」したところで、記事を開けば記事タイトルが出てきて、アパホテルの名前も出てくるわけです。ですから、この「工夫」ははっきりと意識されたものというよりも、半ば無意識になされている可能性もあります。

 しかし、デスクにあるような立場の人(あるいは、メールタイトルを作成する立場の人)が、記事やそのタイトルの形で現場から上がってくる、事実自体が持つ緊張や重みを「マイルド化」して、意味不明のものにするというのは、やはり近年の朝日新聞の姿勢をかなりよく示していると思います。

 第2の論点に入ります。

 まず面白いことに、

 

アパホテル南京事件否定の本 「 右翼ホテル」 中国報道

 

という記事タイトルは、この記事の内容がアパホテルの擁護の姿勢を持っているにも関わらず、問題の所在を鮮明に示すものとなっています。つまり、アパホテル南京虐殺を否定する本があるので、それが「右翼ホテル」という批判を呼びおこすことになった、という簡単明瞭な事実を直截に示しています。

 3名の署名記者達は、意識的か無意識的かわかりませんが、問題の所在がそこにあることをいやでも感じざるを得なく、認めざるを得なく、それ故に、この記事のタイトルが、どうしてもこのようなものとなったのでしょう。

 問題の所在がここにあるということは、BBCニュースの同じ問題を扱ったタイトルからもわかります。それは次の通りです。

 

Japan hotelier's Nanjing massacre denial angers China

(日本のホテルオーナーの南京虐殺否定が中国を怒らせる)

 

 このタイトルは、朝日の記事タイトルとほぼ同じですね。

 BBCニュースの記事は、このタイトルに沿って、「ごく普通に」何故、これが大問題となるのか、今回どのようにこの問題が現れてきたのかを簡単に解説しています。

 ところが、朝日新聞の記事は、この問題の所在の重さに耐えかねるかの如く、一生懸命、言論の自由表現の自由、経営の自由、営業の自由という言い訳を対置してくれています。

 私が、ここで「言い訳を対置してくれています」と書いたのは、日本人のかなりの人の間にある感情--つまり、観光学の先生や記者達のいうところの「『騒ぎ』や『騒動』はもう勘弁してくれ」という気持ち--を「理屈」の形をとりながら、代弁していれているということです。

 しかし、にも拘らず、いざ記事にタイトルをつけるとなると、このニュースが発生してきた文脈、つまり過去から現在までの事実やその評価をめぐる議論の重みを自ずと反映するものにする他なかったのです。

 ジャーナリズムにとっての事実の核心的な重要性は、デマ(社会に対し、事実を捏造し、あるいはないものとしようとする言動)に対する徹底した批判が必要であることを導きます。

 デマが流れるのは、すでに言論の自由があること、それが守られていることを意味します。言論の自由が存在し、守られているからこそ、デマが作られ、流れることができるのです。

 そうした中で、私達(ジャーナリズム)がなすべきことは、デマが事実に反するものであることを明らかにして、徹底的に批判することです。

 それこそが、言論の自由を守る道です。

 逆に、デマを「言論の自由」の名の下に擁護することは、デマへの批判者を「言論の自由」への敵対者に作り上げることです。これは、常にデマの作成者がやってきたやり方です。

 デマへの批判を「言論の自由」の名の下に封じることこそ、言論の死、事実を探ることを使命とするジャーナリズムの死を意味するのではないですか。

 南京虐殺という歴史的事実は、虐殺された人の人数の不確定、不一致によって、ないものにすることはできません。それをなかったものとするのは、デマではないですか。

 3人の記者がデマであるかどうか断言する確信がなかったとしても、ジャーナリストとしてのセンスを持っていたなら、事実を大切にする方向に調査と記事内容が向かっていたでしょう。

 冬季アジア札幌大会の組織委員会の決定は、様々な経緯はあるでしょうが、本質的には事実の重み、その評価の議論の重みという文脈から理解されるものでしょう。

 朝日新聞は、どんどん読者の理解に貢献するための情報提供から遠ざかっているように見えます。そして、冒頭の社説とここで批判したアパホテル記事に見られた極端な二重姿勢は、社内外から言論の力を奪い、無気力を蔓延させるものとなっています。

 

朝日新聞デジタルヘッドライン「南京事件に否定的な本 中国でホテル批判」にびっくり

 ネット上に、朝日新聞デジタルヘッドラインというのがあります。その1月19日のヘッドラインに、「南京事件に否定的な本 中国でホテル批判」というのがありました。同じこの本のことを東京新聞の見出しでは、「南京虐殺否定の本」となっています。これだと意味がわかりますが、朝日新聞の「南京事件に否定的な本」というのはどんな本か、意味が不明です。

 ヘッドライン、見出し、というようなところにその新聞のセンスが縮約されており、南京虐殺の事実の認定を避けようとする朝日新聞の姿勢が、よく現れています。

 しかし、さらに中身を読んでみて驚きました。延与光貞、川口敦子、岩崎生之助の3氏による署名記事で、見出しだけでなく、記事全体が南京虐殺の評価を避けるだけでなく、一件「中立」を装いながら、積極的にアパホテルを擁護する工夫に満ちたものになっています。

 その「論理」を追うと、南京虐殺については、中国政府のいう被害者数に対して、日本政府が「どれが正しいかの認定は困難」としていると紹介し、続いて、アパグループ言論の自由の主張が紹介されます。他のコメントする人々からも、営業の自由、表現の自由、経営の自由という言葉が、短い記事の中に次々と出てきて、アパグループの行為が擁護され、それを通じて事実上その主張内容まで擁護されています。

 中身と関係なくこうした自由を主張することによって、中身まで正当化できるかのやり方は、言論人として最も恥ずべきことだと思っていましたが、ジャーナリストと名乗る人達が堂々とそれをやっているのです。

 ホテルや刑務所等に、聖書を配る団体の話が出てきて、聖書をおいたことによって感謝されている例も紹介されています。これも、宗教の本があっても感謝されることもあるくらいなんだから、政治的主張の本があってもいいではないか、ということを言いたいのでしょう。中身を問わないまま、自由があるから批判はするな、というのはおかしな議論です。 

 この記事は、論理がありません。

 2020年東京五輪パラリンピックに向け、海外から多くの観光客の訪問が見込まれるなかでの今回の騒動。外国人観光客の旅行事情に詳しい広岡裕一・和歌山大教授(観光学)は「明らかに公序良俗に反するならともかく、ホテル側にも表現の自由、経営の自由がある。不快に思う人には泊まらないという選択肢もある。騒ぎすぎるのも良くないのではないか」と話す。

 「騒動」というのが、この3記者の認識であることがわかります。さらに、この「騒動」は、観光客の多寡という文脈の中におかれます。観光学の先生が「外国人観光客の旅行事情に詳しい」という理由で、コメンテーターとして採用されます。この先生の結論は「騒ぎすぎるのも良くないのではないか」ということですが、何が良くないのでしょうか。騒ぎすぎると観光客が減るのが良くないということか、つまらない話題をマスコミは取り上げるな、ということなのでしょうか。

 それも十分ありますが、それだけではなくて、このホテルに対する批判を営業の自由に対する妨害として認識していて、ホテルに対する批判自体を封じたいようです。

 ここで、「選択肢」として個人として泊まらない(黙ってそれだけして、その後も黙っている)という行動があげられています。一方的にこうした「選択肢」が限定されるわけですが、私たちには本来的にもっと広い「自由」があります。

 もし、自由という論点での議論をしたいなら、ホテルによる表現の自由を用いた表現内容に対して、今回の動画を使ったような批判する自由があり、営業の自由に対して、事実や倫理に基づいた買・不買の個人的判断、さらに不買運動の自由もあるのです。

 新聞のような現在形で社会性を持った言論機関は、形式的に自由を議論するのではなく、主張の内容の妥当性をジャーナリストらしく追求すべきでしょう。そうすれば、不買運動が「正しい」のか、それが「不当な営業妨害」なのか、読者の判断に寄与することができるでしょう。

 朝日新聞、あの3記者は、そうしたアプローチを避けることによって、アパホテルの味方となっている、そのように私は思います。

 

 

2017年の始めに思う(2)--反戦運動、労働運動、市民運動の国際的な連帯の表明を--その1

最初に少し脱線します。

 咳が少し出るのが続くので、近所の耳鼻科に行きました。待っている間に、漫画が目に入って、適当に手にとると、<佐伯かよ>の『緋の稜線』第5巻で、惹き込まれていきました。作家も作品も全く知らなかったのですが、奥付を見ると、この巻の発行年は1989年となっていました。

 自分の髪の毛を黒くしようとして墨を塗るこどもを、胡桃沢教授が「君はハーフではなくて、ダブルなんだ。これからの時代は君のような人を求めている。時代が求めているから君のような人が存在しているんだ」と諭す場面があります。

 ただ「ダブルだ」というのではなく、時代が積極的に要請している存在として表現しているところに、作者の姿勢の深さを感じます。

 この作品は、1994年に日本漫画家協会賞優秀賞をとっていますし、1993年に慰安婦問題に関する河野談話が、1995年に終戦50年の村山談話が出されています。また、このブローグでも触れましたが、2000年に河野外務大臣によって、第2次世界大戦時、ビザを発行して大勢のユダヤ人を救った杉原千畝の名誉回復がなされています。

 今振り返ってみて、日本において、リベラルな社会的、政治的な流れが結晶化して表現されたのはこの頃までです。

 脱線が長くなりそうなので、言いたいことをまとめます。

 現在アメリカの大統領選におけるトランプ当選に示されるように、極右の台頭は日本だけの現象ではなく、世界共通のものです。

 しかし、日本の現象は、その現れ方、表現の仕方がいかにも日本的で、節目や「角」というものが不明確で、いわばだらだらと前後が続いていきます。気をつけて社会科学的な見方をしようとしないと、歴史的な事件、事柄の意味がわからないまま、その時々の流れに流されていってしまいます。

 ですから、日本の社会的・政治的な事柄は、むしろ無理やりにでも論理的で普遍性を持った枠組みで捉える努力が必要だと、この漫画を読みながら、改めて感じました。

 さて、「2017年の始めに思う」と題して、その第2の論点を書きます--もう、1月の半ばを過ぎてしまいましたが。

 まず結論を言いますと、国際連帯を表明する必要性です。

 本当は、国際連帯の「表明」ではなく、国際連帯の「実現」「実行」であるべきです。しかし、それはたいへん難しく、すぐに実行はできないことも多いと考えます。それでも最低限、「表明」ならできます。

 たんなる口先の表明は無意味だ、という意見もあるかもしれません。が、現在のように世界各国で極右がさらに力を持とうとしている時に、これに反対する勢力が、積極的に国際連帯を表明することは、それだけでも必要で有意義なことと考えます。

 具体的に問題を考えましょう。トランプは、工場を米国内に作れ、と言っています。これに対して、私達はどう対応したら良いのでしょうか?メキシコ人やメキシコ政府は、このアメリカの政策に直撃されると見られていますが、彼らはどう対応しているのか、あるいはどう対応したら良いのでしょうか?

 ヒットラーナチス政権は、アウトバーン道路の公共投資策やフォルクスバーゲン計画等によって、深刻だった労働者の失業問題を解決し、その支持を揺るぎないものにしていったと言います。

 封馬達雄  2015.『ヒトラーに抵抗した人々:反ナチ市民の勇気とは何か』(中公新書)(8-9ページ)から引用します。

 

国民大衆には、失業不安と見通しのない生活の解決が最大の関心事であった。誰もが社会的な転落と窮乏の不安をかかえていた。若者たちは恋人がいても結婚できず、夫婦は安心して子どももつくれなかった。中間層の人びとには、物価が数千倍になり通貨が紙くずになった一九二〇年代前半のハイパーインフレの体験が、トラウマとなっていた。失業苦にあえぐ人びとは、ヒトラーが経済問題を解決してくれるように切望していた。彼らがナチ党に期待し支持したのもそのためであって、過激な反ユダヤの人種論を打ち出すナチ思想に共鳴したからではなかった。ヒトラーは終始平凡な一般女性たちの高い支持を集めていたが、彼女たちの回想からもヒットラー支持が失業問題の解決と直結していたことがわかる。

 

 ナチスに限らず、戦前日本の歴史研究書を見ても、現状が驚くほど当時と重なっています。そしてそれにも関わらず、警鐘を鳴らすメディア、人々が少数派であることも驚きです。

 ただ、安倍政権に批判的な人々が、失業問題をどのように捉えるのか、トランプの雇用政策をどう捉えるのか、そういうことを論じたものが私の目には入ってきていません。歴史を見れば、この問題の決定的重要性が明らかであるにも関わらず、です。

 私自身も、決論的にどのような政策がとられるべきなのか、具体的に述べられませんが、しかし、はっきりしているのは、各国の労働者がナチズム、ファシズムのような形を典型とするナショナリズムにとらわれていくのではなく、労働者の国際的な連帯の方向をまず宣言し、それを実践的に模索しながら、実現・拡大していくべきということだろうと思います。

 以前、このブローグでグローカルな連帯の必要性を述べましたが、基本的にはそれと同じことです。

 次回に、この問題をさらに、理論的な角度から深めて論じたいと思います。

 

 

 

 

2017年の始めに思う(1)--反安倍ファシズム政権の運動を、「野党共闘」と呼ぶのはやめよう

 また、少し忙しさでブローグをお休みしていました。忙しいといっても、個人的な事情で、ファシズム下の日常というのはこういうものと妙に納得します。

 目の前のファシズム政権に反対して、私達ができることは、①選挙で反ファシズム勢力に投票すること、②デモ等、反ファシズムの宣伝、活動に参加すること、③前記の①②に資すると同時に、反ファシズム勢力の連帯と拡大のためにも、反ファシズムの意思表示すること、です。

 ということで、十分な用意はできていないのですが、新年最初のブローグを書きます。

 世界中で、第2次世界大戦前の似た状況が出てきていますが、希望は、例えば日本の場合でいえば、特に、2015年末の戦争法案反対運動に続く、市民運動と野党共闘の運動が存在することです。そうした動きは、第2次世界大戦前にはなかったものといえると思います。

 しかし、そうした新しい希望の存在を認めた上で、私は2つのことを率直に述べたいと思います。

 今日はその第1です。

 それは、「野党共闘」という「旗」のまずさ、うさん臭さ、です。私は反ファシズム勢力の統一戦線の必要性を主張してきました。そして、理想的ではないとはいえ、現在の「野党共闘」が、統一戦線の具体化したものであることを認めます。その意味で、「野党共闘」(の候補者)を支持してきました。

 しかし、反ファシズム勢力の共闘組織であるならば、例えば、「立憲主義のためのフォーラム」「平和を求める樹々」「民主主義のための共同」等、なんのために共闘するかの目的を表した組織名を掲げたものにしなければならないのは、当然ではないでしょうか。

 一日も早く、「野党共闘」に代わる表現を運動の側が常用し、自然とマスコミもそれを使うような状況にする必要があると思います。

 何故、こうした当然のことがなく、「野党共闘」という手段が先行した表現が採用されたのでしょうか。

 私の想像では、まず市民運動の側で、①共産党が従来の「独自」路線をやめて、(当時の)民主党等との共闘を受け入れてほしい、②特定の政党名(民主党にせよ、共産党にせよ)をいうよりは、「野党共闘」という呼び方のほうが、日本の政治風土では、市民や選挙民への支持の呼びかけをしやすい、という事情があり、その結果、やり方(手段としての共闘)を単純明快に示した、「野党共闘」という「戦略」構想が共産党に対して提示されることがあったのではないかと思います。

 そして、共産党はそれを受け入れたのだろうと思います。

 私は、市民運動がそうした「戦略」に至った事情は、以上のように想像、(しかたがないと)納得できるのですが、共産党の対応は非常にまずかったし、政治のプロであるはずの政治組織としては、何でこうなったのか理解できません。

 「野党共闘」は、2015年末の戦争法が強行採決される直前あたりから、集会のコールでも叫ばれるようになっていました。

 そして、戦争法が強行採決された直後、共産党は、「国民連合政府」の提起という形で、市民運動が主張する民主党等との共闘を受け入れる方針を明確化しました。

 私は、この共産党「国民連合政府」の提案はすばらしいもの、私が主張する統一戦線の具体化への一歩と考えて、このブローグでも支持を表明しました。

 「国民連合政府」提案は、要するに、憲法違反の戦争法を廃止する、その目的のためにあらゆる勢力が手を結ぼう、ということです。

 重要なことですが、この「国民連合政府」提案と、「野党共闘」とは、イコールではありません。

 しかし、共産党はすぐに「野党共闘」しか言わなくなりました。

 そして、国民に対する共産党の重要な一つのセールスポイントとして、(仮に相手がまじめに戦争法廃止を闘わないような人物でも応援することを含め)「誠実に野党共闘を進める」ことを押し出すようになったように思います。

 これは、大きな政治的失敗だと思います--共産党にとっても、反ファシズム勢力全体にとっても。

 本来、共産党は、共闘をめぐってはイニシアチブを維持し続けることができる立場にありました。また、「戦争法廃止」という共闘の条件を明示的に掲げることは、自らのアイデンティティをはっきりさせる重要な意味があったはずです。

 そして、そうした共闘の条件が明示されることは、一般社会から見ても、反ファシズム運動としてのアイデンティティが認識されることでもあります。

 たとえ共産党にとって結果として大幅な譲歩を行うことがあったとしても、明確な目的、基準が社会に見える形で掲げられた上での共闘と、最初から「野党共闘」ありきの議論では、全く違います。

 おそらく共産党指導部は、「野党共闘」ありき、ということはない、きちんと一致点を明確にした上で、共闘を進めてきたし、これからも進めていく、と主張するのでしょう。

 しかし、その主張を端的に示すポスターを見ても、「野党共闘」の文字が踊っています。

 一度掲げた以上、「野党共闘」をセールスポイントとする他ない、という袋小路に陥っているように思います。

 しかし、「世間」からみると、「野党共闘」はただ議席が欲しい者達の野合であり、自民党公明党以上に、うさん臭いのです。そして事実、民主党民進党)の候補者の多くはそういう人々といわざるを得ないのです。

 運動の内部で、野党共闘の理由が、反ファシズム、反安倍だ、それは自明だ、といっても、それは勝手な思い込みで、世間はそうはとってくれません。

 有権者の間での民進党の支持率は驚くほど低いですが、私は大雑把に言って、それはそもそも政治的な主張を持った集団(アイデンティティを持った組織)と見做されていず、議席が欲しいだけの集団と見做されているからだと思います(私はその見方は少なからずあたっていると思います)。その延長が「野党共闘」になりかねないのです。

 反安倍政権、反ファシズム運動は、その性格・主張を明確した「旗」(名前)を掲げる必要があると思います。

 次回に、第2の論点を述べます。

 

トランプ当選の意味(2)--現在の動き--ファッショ化への挑戦

 イギリスのEU離脱では、離脱の旗をふった独立党党首のファラージが辞任(逃亡)するという茶番が起きました。ファシズム的な運動の中には、上から下まで、このような虚勢をはりたいだけの茶番的な人物達が混ざっていることは確かです。しかし、そのリーダー(達)の多くは、一度権力を握ればそれを最大限あるいは最大限を超えて利用し、ふるう者として人格形成、地位形成をしてきた人々であり、そのやり方を自ら変えることはまずないと考えた方が正解です。

 トランプ政権はファシズム政権になるのでしょうか?私はその可能性が高いと思います。

 ファシズム運動は、復古的なナショナリズムに志向するものです。その背景には自国の深刻な経済不況が有り、人々の不満と不安が有り、それらからくる社会不安が有ります。ファシズム勢力は、そのような自国の現在を、内外の敵によって不当な状況におかれていることが原因であると説明し、歴史的に偉大であった、強国であった過去--実際にはそんな過去は存在しないのですが--に戻ろうと訴えるのです。

 トランプの思想が政策的にはどのような形を持つものなのか、について不明な点が多いことも、マスコミの論評がすっきりしない理由の一つでしょう。

 しかし、今回のトランプの勝利が上で述べたファシズム的なものによっており、私は、トランプがファシズム運動のリーダーとしてアメリカ政治と社会を動かそうしていくと思います。

 社会レベルで、KKKを始めとしたファシズム的運動組織の活動等、暴力的・差別的な社会的雰囲気が顕在化しています。それは今後急速に、より活発化・顕在化、ネットワーク化、新政権との連携化を実現していくでしょう。

 当面トランプにとって重要な問題は、まだ議会や政党(共和党)の中に自派組織と呼ぶべきものを持っていないことです。しかし、それも急速に形成されていくと思います。その一つの可能性が、選挙中に見せた共和党内の亀裂が、トランプ支持派の台頭という形で進行していくことです。少なくとも、トランプはそうした方向を計算して人事を進めていくでしょう。

 アメリカの大統領選挙と直結した政治的・行政的に重要な意味を持つのは、行政ポストの政治任用制という制度です。英文のwikiによると、新規大統領は、4000人の新規任用を行ないます。その内、1000人は上院の承認が必要とされます。

 大統領行政府には、350人余の上院の承認不要の人員の多くが配置されます。その中でも、ホワイトハウスのスタッフが大統領と密接な位置にあります。

 現在トランプは、ホワイトハウススタッフの従来トップとされてきた大統領首席補佐官に、ラインス・プリーバス共和党全国委員長を、また同じくホワイトハウスの要職である首席戦略官・上級顧問(兼任)に、スティーブ・バノン(大統領選挙中の選対トップで、右翼メディア「ブライトバート」でナチズム的な言動を先導した)の二人を指名しています。トランプは、わざわざこの2人を、同等の力を持つ(「平等なパートナー」)という意味の発言をしています。

 また、トランプによる各省のトップ指名者について、報道がされてきています。各省の長官、副長官、次官などの上級官僚は、上院の承認を要します。しかし歴史的に不承認の例は5つしかありません。

 国防長官に指名されたジェームズ・マティス元中央軍司令官(66)は、彼がイラク戦争等において果たした役割等、過去の言動から「狂犬」と呼ばれています。

 先に述べたバノンやこのマティスの指名は、トランプ政権のファッショ的性格を典型的に示すものです。トランプと同様の指向性(政治思想や言動において権力的・暴力的性向)を持つ人物を据えることによって、彼の選挙時の民衆的なサポーター達にアピールすると同時に、同じく選挙時に彼に反対した民衆に対する脅しをかけようとしているのです。日本で安倍第2次内閣が、国家公安委員会委員長に、極右の山谷えりこを指名したことを想い起こさせます。

 またこうした人事は、共和党および民衆党の彼に対する反対派に対する挑戦という意味を持つでしょう。

 トランプが勝つとは限りませんが、彼は強力な権力を握りつつあるのです(彼の指先に核ミサイルのボタンがあります!)。

  その他の閣僚ポストは、「大富豪達」によって占められています。

 民主党内の予備選で惜しくも破れたバーニー・サンダースは、トランプの財務省、厚生省、商務省、教育省、 住宅・都市開発省、司法省、各省の長官指名者が、百万長者、億万長者たちであることを、痛烈に批判して、次のように述べています。

 

「トランプの行政府は、百万長者・億万長者の、彼らによる、彼らのためのものだ」 

(住宅・都市開発省長官に指名されたベン・カーソンは、辞退したという情報もあります。)

   

Donald Trump's administration: of, by and for the millionaires and billionaires.

 

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(数字は、純資産額です。)

 

 

 

 現在のトランプの人事を中心とした動きを、トランプのファッショ化への挑戦という角度から見ました。

 このような動きに合わせて、前回のブローグで述べた、新自由主義グローバリズムの帰結、資本主義の危機ということを、どのように一貫性を持って捉えたらよいのでしょうか。

 次回にこの点を論じます。

トランプ当選の意味(1)--過去をどう総括するか--新自由主義・グローバリズムの帰着点

 少し忙しくて、ブローグをお休みしていました。その間の一番大きな事件は、アメリカ大統領選で、トランプが当選したことです。

 新聞等に見る、何故トランプが勝利したかについての議論は、それぞれ理があるように思えます。

 気になるのは、多くの場合、では今後はどうなるのか、あるいはどうすべきかについて、何故彼が勝利したのかという問題の理解との論理的一貫性を持たないまま議論が述べられていることです。

 そうした一貫性のない議論の第1が、トランプは選挙中は言いたい放題を言ったが、実際はこれまでの「エスタブリッシュメント」と変わらない政策をとることになるだろう、というものです。そして第2は、トランプの政策を「孤立主義」「保護主義」という枠組みで批判、牽制しようとするものです。

 私は、一貫した見方をするためには、トランプ当選の意味を、まずこれまでの新自由主義グローバリズムの帰着点としてとらえる必要があると考えます。

 今回アメリカが辿った道と、イギリスのEU離脱を同じ文脈におく議論がいくつか有りますが、私もそれに賛成です。それは、私が何度もこのブローグで言及している柄谷行人の『世界史の構造』の視点から見えることです。アメリカの覇権は、1970年代の終りにすでにくずれる兆候があり、1990年代にはすでになくなっていました。

 新自由主義グローバリズムは、もともと凋落する先進国の資本主義がその凋落を食い止め、その優越性を長期的に維持し続けるための道具・戦略・看板でした。イギリスやアメリカでは、今でもそれを主張する支配層(大資本・政治家・上層官僚)が少なくないでしょう。

 しかし、それは一時期はうまく行ったように見えました(ロンドンのシティの世界の金融市場としてよみがえりによるイギリスの「復活」や、連邦準備制度理事会議長グリーンスパンのもとでのアメリカの「繁栄」)が、特に2008年のリーマンショックで世界経済は深刻な打撃を受け、その道は結局、低賃金と失業という古典的な貧困や過酷な労働を生み出すものであることがはっきりしてきました。

 そして今や、労働者層と若い人々が、もうそれには我慢できない、といっているのです。

 

 他方、新聞などの一貫しない議論を見ておきましょう。

 例えば、東京新聞の社説(2016年11月10日)は、次のように述べています。

【社説】トランプのアメリカ(上) 民衆の悲憤を聞け
2016年11月10日
 変化を期待して米国民は危険な賭けに出た。超大国のかじ取りを任されたトランプ氏。旋風を巻き起こした本人には、それを果実に変える責任がある。
 支配層への怒りが爆発した選挙結果だった。ロイター通信の出口調査によると、「金持ちと権力者から国を取り返す強い指導者が必要だ」「米経済は金持ちと権力者の利益になるようゆがめられている」と見る人がそれぞれ七割以上を占めた。

◆現状打破への期待
 トランプ氏はその怒りをあおって上昇した。見識の怪しさには目をつぶっても、むしろ政治経験のないトランプ氏なら現状を壊してくれる、と期待を集めた。

・・・

中年の白人の死亡率が上昇しているというショッキングな論文が昨年、米科学アカデミーの機関誌に掲載された。それによると、九九年から一三年の間、四十五~五十四歳の白人の死亡率が年間で0・5%上がった。
 ほかの先進国では見られない傾向で、高卒以下の低学歴層が死亡率を押し上げた。自殺、アルコール・薬物依存が上昇の主要因だ。
 ピュー・リサーチ・センターが八月に行った世論調査では、トランプ支持者の八割が「五十年前に比べて米国は悪くなった」と見ている。米国の先行きについても「悪くなる」と悲観的に見る人が68%に上った。
 グローバル化の恩恵にあずかれず、いつの間にか取り残されて、アメリカン・ドリームもまさに夢物語-。トランプ氏に票を投じた人々は窒息しそうな閉塞(へいそく)感を覚えているのだろう。
 欧州連合(EU)離脱を決めた英国の国民投票でも、グローバル化から取り残された人々の怒りが噴き出した。グローバル化のひずみを正し、こうした人たちに手を差し伸べることは欧米諸国共通の課題だ。
◆夢追える社会実現を
 米国の今年のノーベル賞受賞者七人のうち、ボブ・ディラン氏を除く六人が移民だ。移民は米国の活力源でもある。
 国を束ねる大統領として、トランプ氏は自身の言動が招いたことに責任をとらねばならない。顧みられることのなかった人々への配慮は、人々の怒りを鎮め、分断を埋めることにもつながる。
 米国の抱える矛盾があらわになった大統領選だった。国民が再びアメリカン・ドリームを追うことのできる社会の実現をトランプ氏に期待したい。

  長いので一部を省略しました。一つ一つの段落は、意味を伝えていますが、混乱した印象を与えますね。そもそもこのタイトル「民衆の悲憤を聞け」が、混乱の第一歩ですが、これは誰に対して言っているのでしょうか?トランプ?クリントン?あるいは世の政治家一般でしょうか?

 この社説は、最初の方で、「旋風を巻き起こした本人には、それを果実に変える責任がある」と述べ、「国民が再びアメリカン・ドリームを追うことのできる社会の実現をトランプ氏に期待したい」と終わっているので、全体として、トランプが選挙中に行なってきた煽動的、差別的言動を批判し、今後を牽制しているものとして理解すればいいのかもしれません。

 もしそれが本旨なら、民衆の悲憤を聞け」というタイトルはトランプに対して言っていることになります。しかし、トランプこそ、「民衆の悲憤」を引っかき回し、煽動し、利用した人物であることは、社説の著者を含め多くの人の知るところです。このことを承知の上で、あえてこのようなタイトルを掲げるならば、「民衆の悲憤」利用に対するもっと力強い、より鋭い、直截的な批判を展開すべきだったと思います。

 そして、翌日の続く社説「トランプのアメリカ(中) 孤立主義に未来はない」では、外交政策が論じられます。しかし、内容の紹介は今は省略しますが、そこでは「民衆の悲憤」をどうするのか、という問題とは関係なく、トランプに対する孤立主義保護主義という視点からの批判、牽制が行なわれています。

 これらの社説は、意外であったトランプの勝利の翌日、翌々日の社説ですから、まだ落ち着いた見方ができていない、という面もあるでしょう。

 昨日(2016年11月28日)の社説「米TPP離脱 グローバリズム是正を」では、アメリカの「民衆の悲憤」とTPPグローバリズムを関連させる視点を述べています。

【社説】米TPP離脱 グローバリズム是正を
2016年11月28日
 トランプ次期大統領の離脱明言でTPPは実現困難になった。発言の底流にあるグローバル化の歪(ひず)みを是正し修復しなければ、自由な貿易は前に進めないどころか、保護主義へと転落しかねない。
 世界中の新聞、テレビ、雑誌、ネットにあふれる論評、解説がトランプ氏の米大統領当選の衝撃を物語っている。
 なかでも重要な指摘のひとつに「歴史の転換点」がある。
 第二次世界大戦後、自由、人権、民主主義という理念、価値観を掲げてきた米国は内向きになり、外交も安全保障も経済も米国にとって損か得かという「取引」「米国の利益第一主義」に変容していく。米国が主導してきた国際政治、経済の枠組みの終わりという見方だ。
 冷戦終結後の一九九〇年代以降、米英を中心に加速した経済のグローバル化は、多国籍企業が富の偏りや格差の拡大を意に介せず利益を追求する貪欲な資本主義、マネーゲームの金融資本主義に化けた。負の側面が露(あら)わになったグローバル化は、その意味を込め「グローバリズム」と呼ばれるようになる。
 トランプ氏を大統領に押し上げたのは、グローバリズムに押しつぶされる人々の既得権層に対する怒りだった。これを黙殺して貿易の自由化をさらにすすめる環太平洋連携協定(TPP)からの離脱は、当然の帰結といえるだろう。

 貿易立国の日本は戦後、関税貿易一般協定(ガット)や世界貿易機関WTO)を成長と安定の土台にしてきた。このため自由貿易の停滞や保護主義の台頭を懸念する声は強い。
 だが、米国をTPPから離脱させる力は、過剰な利益追求や金融資本のマネーゲームに振り回され、暮らしが破綻に追い込まれつつある中低所得者層のぎりぎりの抵抗にある。その事実を直視しなければいけない。
 二十四日の参院TPP特別委で安倍晋三首相は「自由で公正な経済圏を作っていく。日本はそれを掲げ続けねばならない」と審議を続ける理由を説明した。
 強者の自由が行き過ぎて弱肉強食となり、社会の公正は蔑(ないがし)ろにされてTPPは行き詰まった。
 グローバリズムの欠陥、その象徴である経済格差を「公正」という価値観で是正しない限り、自由な経済は前に進めない。新たな対立を生みだして世界を不安定にする保護主義の台頭を防ぐことはできない。

 省略無に全部を引用しました。

 これも、全体として何を言っているのか、混乱した印象ですね。私は、数日前からこのブローグを用意し始めたのですが、私の「グローバリズムの帰着点」という表現に対して、この社説が「グローバリズム是正」を主張しているのを見つけました。

 ただ、この社説でも、「民衆の悲憤」と今後の方向についての関連らしきものはあるのですが、トランプのこれからがどうなるのか、世界がどう動いているのか、我々が何をなすべきなのか、見えてきません。論理的な一貫性がないのです。

 「資本主義の危機」という言葉があります。それはかつて繰り返し使われ、その毎に資本主義は危機を「乗り越えて」きたのですが、それでもこの「資本主義の危機」という言葉は、ある種のリアリティを持った言葉として繰り返し使われてきたように思います。しかし現在は、ほとんど使われていないようです。

 それは社会主義思想や現存の社会主義が、かつては力を持っていたこと、現在はその力を失ってしまったこはと関係するでしょう。

 しかし、社会主義の力の有無とは関わりなく、現在の事態が基本的に「資本主義の危機」に相当するものであることは、間違いないと思います。

 この「資本主義の危機」が、世界第一の軍事、経済大国で顕著に現れたことの深刻さを、まだ理解していないのが大勢のようです。しかし、それも急速に変わって行かざるを得ないでしょう。次回に続けます。

 

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(7)--”あかとんぼ”と”かながわ憲章”のこと

 私が岡本太郎のことを取り上げたのは、日本文化・芸術における「怒り」の感情の正当な位置について論じたかったからです。ただ、今日も本論に入らず、回り道をします。

 「あかとんぼ」という三木露風作詩・山田耕筰作曲の名曲があります。

 この3番の歌詞は、

 

   十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた

 

というもので、「(昔は、農村の女性は15歳になると労働力や労働力たる子供を産むため結婚するのが普通であった。)そして、あのねえやもその後の消息もわからなくなってしまった、と歌っている」というのが普通の解釈で、私もそのように理解していました。

 ところが、誰だったか覚えていませんが、「違う。これは、身売りを歌っている」という指摘があって、ハッとしました。

 もし、身売りという指摘が正しければ--私は正しいと感ずるのですが--「あかとんぼ」全体の解釈が全く異なってきます。

 「あかとんぼ」が発表されたのは1921年です。他方、東北からの身売りが増大したのは、昭和恐慌以来、特に1930年代に入ってとされています。ですから、話が合わないようにも見えます。

 ところが、最近の研究では、確かに1930年代にも増加していますが、1900年代に最初の大きな増加があった可能性が明らかにされています(安中進)。

 三木露風は、カトリックの洗礼を受けています。当時の文学者達は高い教育を受け、彼らは求める真理、芸術、社会は一つのものと信じており、したがってまた社会状況に敏感で、互いに影響し合う存在でした。

 露風がカトリック教徒になったのは、そうした社会的な信念、行動の表れでしょう。

 ただ特に日本近代文学に見られる一つの傾向として、ここには、社会的なものを個人の内面という内側に閉じ込めていく要素を見て取ることができます。

 「身売り」という残酷な現実を、「嫁入りして、便りもなくなった」という叙情的な詩に託す時、彼の静かで深い諦念の感情がより強く染み渡ってきます。

 --あるいはさらに、「嫁入りした」という表現は、詩人の「発明」ではないかもしれません。それが、娘を身売りせざるを得ない親(達)の「生(なま)の言葉」であったとするなら、その親(達)の日常的な諦念こそが、露風のそれを裏打ちする実体であった、ということになります。

 あの美しい童謡は、全く異なった世界を見せてくれているように思えます。

 しかし、ここで問題です。

 諦念の気持ちが強ければ強いほど、深ければ深いほど、それはそこにとどまるものでしょうか?

 それは、怒りの感情とは厚い壁によって隔たれていますが、とはいえ、怒りの感情のすぐ隣にあるものなのではないでしょうか。

 

 ・・・・

 

 話が飛びますが、7月に神奈川県の障害者福祉施設で、多くの方が殺傷される事件がおきました。

 これに対して、10月14日に県議会全会一致で、次の憲章を採択したとのことです。

 

ともに生きる社会かながわ憲章

   ~この悲しみを力に、ともに生きる社会を実現します~

 

 平成28年7月26日、障害者支援施設である県立「津久井やまゆり園」において19人が死亡し、27人が負傷するという、大変痛ましい事件が発生しました。
 この事件は、障がい者に対する偏見や差別的思考から引き起こされたと伝えられ、障がい者やそのご家族のみならず、多くの方々に、言いようもない衝撃と不安を与えました。
 私たちは、これまでも「ともに生きる社会かながわ」の実現をめざしてきました。
 そうした中でこのような事件が発生したことは、大きな悲しみであり、強い怒りを感じています。
 このような事件が二度と繰り返されないよう、私たちはこの悲しみを力に、断固とした決意をもって、ともに生きる社会の実現をめざし、ここに「ともに生きる社会かながわ憲章」を定めます。

 

一 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします

一 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します

一 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します

一 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます

 

平成28年10月14日 神奈川県

 

 

  私は、この殺傷事件について、首相が殺傷行為を非難する声明を出すべきだとしましたが、その後の新聞などの論調が、「私達のホンネのところで差別意識がある」というようなもので埋まっているのにうんざりしていました。

 そこに、この憲章です。

 私は違和感を禁じ得ません。

  説明的な前文において、「悲しみを力に」「強い怒り」という言葉ができてますが、私にはそういうものは伝わってきません。

 というか、この文章をそのままとりますと、

これまでも「ともに生きる社会かながわ」の実現をめざしてきた・・・その中でこのような事件が発生したこと 

 に対して、「大きな悲しみ」「強い怒り」を感じていることになります。

 そうじゃないでしょう。

 神奈川県の知事や公務員、あるいは議員、さらに県民が「ともに生きる社会かながわ」をめざして努力したかどうか--ということは関係ありません。

 殺された人々の無念--それこそが、怒りの原点でしょう。彼らの人権はどこへやられたのか。

 この憲章のどこを探しても、この殺された人々の無念、それへの共感がありません。

 痛ましい、悲しみ、怒り、こういう言葉が散りばめられているのですが、この殺された人々の人権を共有するところから来る本当の強い怒りがないので、憲章の本体部分の最重要原理たる第1項の

私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします

が、迫力を持って響かないのです。

 さらにいうと、この憲章の文章の中での「私たち」の当事者性がすっきりしなすぎます。

 

この事件は、障がい者に対する偏見や差別的思考から引き起こされたと伝えられ、障がい者やそのご家族のみならず、多くの方々に、言いようもない衝撃と不安を与えました。

  

の部分ですが、「事件は・・・伝えられ」という伝聞的な認識の状態で、「怒り」の感情が沸くものでしょうか。

 また「障がい者」「家族」「多くの方々」に「衝撃と不安を与えました」というのですが、これは、「私たち」の「悲しみ」や「怒り」とは別事として並べられています。

 殺された人々と彼らこそが、悲しみと怒りの主体ではないのか。

 そうでないならば、ここで「ともに生きる」「私たち」とは何者なのか。

 どういう資格、権利を持って「悲しみ」「怒る」のか。

 これまでも「そういうことがおきない様に努力してきたのに、事件が起きたから悲しみ、怒る」のか。

 

 

 あまり、理屈っぽすぎると言われるかもしれません。が、怒りをめぐる芸術論はまだ続きます。