hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 VII (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(9))

 訳の問題と関わって、the Nationという言葉が、フランス革命において、スローガン的な言い方、特殊な意味合いを持って登場したことを、何故だろう?という問題提起をしました。

 その解答は、近代国家--固有の<<the state>>と固有の<<the people>>と固有の<<the geographical space>>の統合体--の固有統合性の存在を前提とし、その固有統合性を、どのように表現するか、という問題の中にあります。

 まず、このような歴史構造主義的アプローチの枠組みを設定すると、重要な問題として、このような固有統合体を明示的に表す言葉を、私達が社会科学の分野においてすら持っていないことに気づかされます。

 私は、そのようなものとして、<<近代国家固有統合体>>という言葉を用いることとし、それを記号的に<<the stat・the peo・the geo>>と表すことにします。

 私達は普通、国家あるいは近代国家という時に、<<the state>>の部分を限定的に指している時と、このような統合体としての全体を指している時との双方があり、そのどちらであるかは、文脈によって、ほとんど困難なく使い分けています。

 しかし、厳密・分析的な用語として、<<近代国家固有統合体>>というものを設定すると、先に設定した問題とその答えが整理されてくるのです。

 まず、ちょっとしたコメントですが、この概念を設定すると、冒頭4行目の「その解答は、近代国家--・・・・」と書いた部分は、厳密には、「その解答は、近代国家固有統合体--・・・・」と書くべきであったことがわかります。(この種の分析的な用語設定によって、常に生ずることですね。)

 さて、フランス人権宣言の中で、冒頭ではthe peopleが主語として登場していながら、先に進むと、極めて重要な条項である第3条において、sovereigntyの所有者(主)としては、the Nationが登場しました。

 これらsovereigntyとthe Nationは、先の固有統合体の枠組みの中で何を意味しているのでしょうか。そして、この第3条は、全体として何を意味しているのでしょうか。

 この枠組みの中での図式化された結論を先に書いておきます。

 一般に、近代国家の時代の近代国家固有統合体では、次が成立します。

  <<sovereignty>>=<<the stat>>

       <<the nation>>   =<<the peo・the geo>>

    <<sovereignty>>+<<the nation>>=<<the stat・the peo・the geo>>

 何か、当たり前のことをもっともらしく、記号化しただけのように見えますね。でも、説明を聞くと少し違ってくると思いますので待ってください。

 ここでもう一つ記号的表現として、大文字を利用します。

 そうしますと、絶対主義君主国家固有統合体と共和主義的国家固有統合体は、それぞれ、つぎのように表現できます。

 <<Sovereignty>>+<<the nation>>

       =Absolute Monarcy<<the stat・the peo・the geo>>

 <<sovereignty>>+<<the Nation>>

        =Republic <<the stat・the peo・the geo>>

 こうすると、ますます問題が整理されてきますが、あまりにきれに整理されすぎて、歴史のような複雑な問題を扱うのに、何かインチキ臭い匂いがしてきます。

 そこで、インチキついでに、少し俗で、もしかしたら性差別的だとかいわれるかもしれない説明を最初にさせてください。ひとえに、わかりやすさのためと思ってください。

 まず、<<sovereignty>>+<<the nation>>は、それぞれが「運命の意図(糸)」で結ばれるべきことを想定した二つの要素の結婚の様なものです。この結婚によってできているのが、近代国家固有統合体です。

 ここで、<<sovereignty>>を男性、<<the nation>>を女性として、比喩的説明を続けることとします。

 ここで蛇足的で、どうでもいいこととも言えますが、俗な説明なりにその一貫性を保つために付け加えておきますと、前者を男性としてイメージするのは、君主が男性であることが多く、まずはそれが統治のイメージに繋がってきたことからです。

 他方、後者が何故女性なのか。フランス革命の中でも「自由の女神」がnationのシンボルとされたこと(自由の女神」は、さらに15世紀のフランスとイギリスの戦闘においてフランス救国の英雄女性とされたジャンヌ・ダルクをシンボライズしたと言われます)、そしてそれが、さらに共和主義的な諸国全体の中にまで広がった、ということがあります。

 ここで、男性主導の結婚と女性主導の結婚を、それぞれ次のように表現します。

 <<Sovereignty>>+<<the nation>>

 <<sovereignty>>+<<the Nation>>

 つまり、それぞれが、絶対主義君主国家固有統合体、共和主義的国家固有統合体を表しています。

 これらにおいて、大文字化によって、どのようなことが改めて含意させられているかは次の通りです。

 まず、記号的に表現すると、

 <<Sovereignty>>=Absolute Monarcy <<the stat>>

    <<the Nation>>   =Republic <<the peo・the geo>>

です。

 

 <<sovereignty>>はもともと<<the nation>>との固有統合を前提としたものであり、その意味で、<<sovereignty>>は<<the nation>>をも含意してます。しかし、この大文字化は何を意味しているのでしょうか。

 それは<<Sovereignty>>には、上記の小文字の<<sovereignty>>に加え、さらに、<<sovereignty>>の固有の所有者としての固有の絶対君主の存在を含意しています。それが、上記の記号表現でも示されています。

 ここでの方法論的にいうと、大文字化には、関心の焦点を、一般的なものから、具体化された、歴史的により限定された場合に絞っていることが意味されています。

 それは、必ずしも歴史に登場する当事者としての主体の関心・意識と一致していませんが、密接な関連を持ちます。

 実際、<<Sovereignty>>は、絶対主義君主国家がほとんどを占めた時代においては、それは、大文字で示されることも少なくなかった、近代国家固有統合体を表すものであり、かつ、それは絶対主義君主によって最終的にシンボライズされたのです。

 普通日本語で訳されると、sovereigntyは主権と訳されます。ある土地とその住民に対する最上級の統治権というような意味で、またこの訳には、その主権を持つものが近代国家のようなものである、ということが何となく含意されています。

 こうした問題を考えるたびにいつも思うのですが、こうした訳語というものを作り出した人達のすばらしい原語概念の把握能力とそのためのたいへんな勉強ぶり、そして適切な訳語捻出の工夫には、どうしてこんなことが可能であったのだろうとたいへん感心させられてしまいます。

 ただここでsovereigntyという英語に注目すると、固有の絶対君主が固有の土地とその上の住民に対する固有の最上級の統治者として現れてきた歴史が含意されていることがより明確です。

 いうまでもなくreignという動詞は、君主が統治することを意味します。しかし、sovereignty--最上級の統治権--という概念は、近代国家固有統合体の誕生・成長とともに必要なものとなりました。

  近代国家固有統合体としての絶対主義君主国家の形成とは、絶対君主が、その統治対象としての領土・領民におよぶ権力を独占していく過程を意味するものでした。すなわちそれは、絶対君主が、その外部にあっては、その上方にあったローマカトリック教会の権力を排除し、その内部にあっては、横や下方にあった国内の教会勢力や封建諸侯・様々な自治団体等の並行的権力や独立性を持っていた中間的権力を無効化・奪取していく過程です。

 sovereigntyという概念は、そのような権力を表現・正当化し、またそれが発揮される過程を通じてより強固となった概念です。

 以上の説明で、sovereigntyが、国内的に集権的で、対外的には排他的な統治権力--つまり<the state>と<the people>との一対一対応の関係を保証する権力--であることがわかると思います。

 しかし、ここでまず重要なのは、sovereigntyというのは、単に、「何らかの<the people>と<the geographical space>のセットに対する排他的な支配権」--つまり、歴史的な結果として得られた、上記で述べた一対一対応という形式的・外面的な関係のみに着目した概念--を意味するのでなく、このような歴史的な過程を含意していること--つまり常に、すでに近代国家固有統合体の固有統合性を含意する<<sovereignty>> でなければならない、<<  >>を外したsovereigntyは存在しない--ということです。

 それは、武力を含めた力による統合過程を含んでいますが、短期的な統治力・支配力ではなく、歴史的な過程を含めた安定的なものであり、理念的には未来にも投影される恒久的なものです。

 つまりこの歴史的過程において、固有の<<sovereignty>>が「固有の<<the people>>と<<the geographical space>>の固有なセット」を作り出します。そこでは、この固有なセット同士での間の境界が重要な意味を持ち、長期的に動かしがたい安定的なものでなければなりません。

 このような境界を示す、あるいはそれに関わるのが、国境と国籍基準です。

 これらの境界によって区切られた、「固有の<<the people>>と<<the geographical space>>のセットは、固有の<<sovereignty>>に対応することによって、長期的に安定的な、時間的同一性(アイデンティティ)を持つ存在としての近代国家固有統合体となるのです。

 このような<<sovereignty>>概念の必要性、必然性は、以上のような近代国家固有統合体形成のいわば内的な特性だけから来ているわけではありません。

 実は、詳論は避けますが、近代国家固有統合体形成には、それと同時に誕生してきた国際システムとしての「近代国家固有統合体国際システム」という、いわば環境的な要因が重要な要素として働いています。

 この近代国家固有統合体国際システム」は、そのシステムに参加するメンバーとしての君主が<<sovereignty>>所有者であること、メンバー相互が他者をそれぞれの<<sovereignty>>所有者として認め合うことを本質的な要件としていました。

 つまり、<<sovereignty>>という概念は、①ヨーロッパの国際的な相互認知の必要という近代国家固有統合体にとっての環境的条件と②対外的に排他的で国内的に集権的な権力の必要という近代国家固有統合体とにとっての主体的条件、という2つの歴史的必要条件に対応したものであって、それは、近代国家固有統合体と当初より深く結びついた概念です。

 例えば、尖閣諸島の主権が中国に属するか日本に属するのか、という時、それが単なる地理的空間の支配権の--たんに統治の現状だけで決定されたり、一時的な力による支配だけで決定される--問題としてではなく、まずは「その地理空間がどのような歴史的経緯で、どの主権に属するのが、『そもそも、本来的に』適切と判断されてきたのか、一定期間以上統治してきたのはどの国か」というような問題設定がされるのは、主権概念に以上のような近代国家固有統合体の形成のあり方が投影されたもの、そうした歴史的な経緯を含めて理解されるべきものとされているからです。

 「運命の意図(糸)」による結婚の話から、かなり離れて長話となりました。

 この長話で言いたかったことは、まずは、小文字のsovereigntyは、その生まれからしてすでに、<<sovereignty>>として、<<  >>を身につけていたということです。

 私は、ここで結婚の話に戻って、この近代国家固有統合体の最初の形態である絶対主義君主国家固有統合体の<<sovereignty>>は、さらに最初から大文字の

 <<Sovereignty>>=Absolute Monarcy <<the stat>>

という性格を持っていたこと、比喩的に言えばマッチョの男性・・と書きかけたのですが、--これは冗談で、たまに冗談をいうと滑ります--すでに、定義として書いておいた、君主その人を含意していた、ということを付け加える必要があります。

 以上で、私が先に、

 <<Sovereignty>>+<<the nation>>

が、君主主導の結婚を意味している、と比喩的に述べたことの中身がわかっていただけたと思います。

 「運命の意図(糸)」で結ばれた、という比喩はどうでしょうか。このことについては、<<the nation>>主導の結婚の場合と合わせて、論じることにします。

 

 こうした議論をあまりするつもりはなかったのですが、書きながら、日本国憲法象徴天皇制の議論をきちんとやる上では、むしろ、こうした議論が必要、あるいは有用であるだろう、と考えるに至りました。

 次回に続けます。 

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 VI (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(8))

 前回の続きです。

 日本国憲法における<国民><国家>という問題を、英訳と関わらせて理解しようとする時、議論していた方がよい問題として、<nation>という言葉の問題があります。

 nationという言葉は、国民と訳されたり、国家と訳されたりします。何故でしょうか。どちらが「正しい」のでしょうか。

 実は、この問題に入りだすのは泥沼に入ることだ、という気持ちもあり、訳の問題として軽く扱ってすませるつもりでした。

 多くの方がご存じのように、nationをめぐっては、日本だけでも一定水準の論文が1000以上、世界中では、10000を超える論文があると考えて良いくらいの大問題です。

  素人がわかったような口ぶりでブローグに書くようなことではない、と言えます。

 いや、逆に素人だからこそブローグで口を挟むことのできる重要テーマと考えることもできるでしょう。

 ともかく私は、最低限、軽くでも触れておかないと、英訳日本国憲法の話ができないと思って、nationというテーマを取り上げることにしたのです。

 ところが、いやな予感が的中して、私を待っていたのは泥沼でした。書き直したり、調べ直したり、この泥沼から這い上がるのには苦労しました。

 私を助けてくれたのは、以下のような歴史構造主義的アプローチです。

 私としては、ずいぶんとスッキリしたのですが、本当に這い上がりに成功したかどうかは、読者の判断に仰ぐところです。

**************

 先に、近代国家の時代になると、<the state>と<the people>は、「一対一対応」の関係になることを述べました。

 この「一対一対応」は、それまでの両者の関係からいうと、特別なもので、私はそれを近代国家における<the state>と<the people>の「固有統合性」と呼びたいと思います。

 つまり近代国家は、固有の<<the state>>と固有の<<the people>>と固有の<<geographical space>>によって統合されています。

 普通、この固有の<<geographical space>>は、国名によって示されるような地理的空間に対応しています。

 何故、「固有」というか、例えば日本国は、<<他ならぬ日本の人々>>が、それにふさわしい<<他ならぬ(ある日本人)統治者(達)>>によって<<他ならぬ日本という地理的空間>>において統合(統治)される、という関係を意味するからです。

 何かあたりまえのように見えますが、ヨーロッパの近代国家までの歴史を考えれば、これが重大な歴史的画期を示していることが、見えてくると思います。

 近代国家以前の<state>は、しばしば異なった言語や文化を持つ<the people>の複数を統治していました。

 確かに、近代国家以前から、<the people>とその生活空間としての<geographical space>は、固有な一体性の関係を持っていました。

 ただ近代国家以前では、そのような<the people>とその生活空間<geographical space>の固有一体性を持つセットは、<the state>から見れば、自らとの固有な一体性を持つものではなく、<the state>にとって、切り離し可能な財産のようなもの--私有財産とはかなり異なりますが--とされたのでした。

 つまり、そうしたセットは、<state>内の構成員間で、あるいは他の<state>との間で、交換、贈与、戦争による略奪の対象とされるものだったのです。

  日本の場合も同じです。つまり、日本の徳川将軍が、各藩の藩主に、彼の考えで分割した土地(それとセットの農民)を、一種の財産(封建的な権利であって、私有財産とは異なりますが)のようなものとして分け与えたのです。

 このようなセットが、<state>にとって、財産的なものとして機能したのは、<state>と<the people>の関係が固有性を持っていないからで、<the people>は、どの<state>の下にあっても、いうことをきく--容易に統治される--存在とされていたからです。

 あるいは、むしろ<state>の本質は、どのような<the people>=<geographical space>セットが与えられても、それを統治できる統治力(そのような意味で「権威」という概念が重要性を持った)にあった、と言うことができます。

 ですから、近代国家が、固有の<<the state>>と固有の<<the people>>と固有の<<geographical space>>によって統合されたものとして生まれたのは歴史的事件だったのです。

 そしてそれは、絶対主義国家によって始まりました。

 以上の歴史構造主義的アプローチ的な枠組みによりながら、私がしようとしていることは、<the nation> がこの近代国家形成の重要な概念--モデル的概念--として登場してくることを説明することです。

 私がモデル的概念と呼んでいるのは、それがこの固有統合を促進しようとする概念として用いられたということです。

 絶対主義国家に始まる近代国家の事実としての固有統合性は、徐々に形成され、確固たるものになっていきますが、それを意識させ、モデル的な形で把握させた重要な契機が、共和制的(在民主権)国家の成立を告げたフランス革命です。

 興味深いことに、フランス革命において、こうした固有統合のモデルとして選ばれた言葉は、新しく成立する共和的国家の創造主たるべき<<フランス人民>>に対応するものでしたが、それは、<<the people>>ではなくて、<<the nation>>が採用されたのでした。

 nationというのは、ある地域に生まれた人々のことをいうわけですから、peopleと基本的には同じものということができるでしょう。

 そして、両者とも冠詞のtheをつけた時に、ある一定の地域に住んでいること、生まれたことによってまとまった人々を意味します。

 したがって、フランス革命のような時代・文脈において、<<the people>>や、<<the nation>>が、<<the French people>>や、<<the French nation>>を意味するもの、ただ形容詞のFrenchを省略するものとして用いられることは、それも普通で、本来的には、両者はやはりほとんど同等のものといっても良いのではないか、と思います。

 ところが、フランス革命において、<<the nation>>が特別な意味、固有統合を促進するモデル的な意味を込めた言葉として登場するのです。

 有名なフランス人権宣言を、「グーグル翻訳」を使って英訳してみます。

 (「グーグル翻訳」って、すごい、便利ですね)

 まず、フランス人権宣言の冒頭を、英語にすると、

The represtentaives of the French people ...... have resolved......

と始まっています。

 ここでのpeopleに対応するフランス語原文の単語は、peupleです。

 ついでですが、これは、英訳日本国憲法前文の冒頭に、

 We, the japanese people ...., acting through...... representatives....,

...... resolved

 とあったのを想起させますね。

 これらのpeopleは、私がいう固有統合性を帯びていることは明らかで、いずれも<<the people>>と表せるものです。

 つまりフランス人権宣言でも、まずは、<<the people>>というタイプの表現が、私がこれまで議論してきたような重要な政治的意味合いを持って現れてきます。

 ところが、フランス人権宣言を先に進んで行きますと、その主権を規定している極めて重要な部分が出てきますが、そこは、英語で表現するとすると、次のようになっているのです。

 

 The principle of all sovereignty lies essentially in the Nation.

 

 英語のnationは、原語のフランス語でも同じくnationです。

 このthe Nationは、何なのでしょうか。

 the peopleと置き換えてみても、意味的には何の変わりもないように見えます。そうすれば、英訳日本国憲法による主権在民の表現の用法に一致します。

 ですから、何か、不必要な新しい言葉(概念)を持ち込んだようにも見えます。

 いいえ、人権宣言の制定者達によって--それは不必要どころか、主権という極めて大切なものの担い手として--まさに新しい特別なニュアンスを込めた言葉として採用されたに違いないでしょう。

 その証拠に、Nationと大文字のNが採用されています。この大文字には、モデル的な意味が込められています。

 スローガン的に

The Nation!

と呼びかければ、

我々、一つになったフランス生まれの人々よ!

というようなニュアンスではないでしょうか。

 しかし、ここでの問題は、同じことはthe peopleでもできるはずではないか?

 何故、the nationが選ばれたのか?ということです。

 試しに、the peopleについて同じことをやってみましょう。peopleを書くときに、大文字でthe Peopleと書くことにします。

 そして、あの人権宣言の主権在民を宣言しているところで、 

 The principle of all sovereignty lies essentially in the People.

とすると、十分に、特別感が同じように出てきます。

 あるいは、

The People!

と呼びかけて、

我々、一つになったフランスの人々よ!

というようなニュアンスを込めることは、ほとんど同じように可能だったと思われます。

 では何故、nationが選ばれたのでしょうか。

*********************

 大事なところで途中になりますが、今日はちょっと疲れてきたことと、これから、国会議員会館前の総がかり実行委員会主催の集会に行く予定もあるので、明日に続けます。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 V (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(7))

 憲法第1条を論じようとして、「本丸」に辿り着く前に、予定以上に長くなってしまいました。悪い癖です。

 「厳密」と称して、何をぐだぐだと言っているのだ、という疑問があるのが当然でしょうから、ここで、もう一度私の意図を明らかにしておきます。

 第1条の共和制主義派の解釈は、次のようなものだと思います。

 以下で<X>は、天皇を指します。

 

第1条 

(かつて<X>は、<大日本帝国憲法によって規定された国家>を実質化する存在であった。しかし、今は、)

<X>は、<日本国憲法によって規定された国家>の象徴にすぎない。

(かつて<X>は、<大日本帝国憲法によって規定された臣民が一体的な存在であること>を実質化する存在であった。しかし、今は、)

<X>は、<日本国憲法によって規定された国民が一体的な存在であること>の象徴にすぎない。

 

 これを「天皇無力化」論と呼ぶことができるでしょう。かつては実質的な力を持っていたことを認めた上で、現在はそれはない、という解釈です。

 この解釈は、歴史的経緯を踏まえれば自然な解釈です。立法者意志(GHQにおいて憲法作成に関わった人々の意図)もそれだったでしょう。

 しかし時間の経過を経た上で、憲法が規範であることを考えれば、この第1条も、規範的な性格(この憲法が抱いている基本的な価値を積極的に展開しようとする性向)を強めた解釈が出てくるのが、自然・当然だというのが、私の主張です。

 つまり、天皇無力化」論では、「象徴」は「象徴にすぎない」というようにつまらないものとして扱われますが、私の解釈では、「象徴」は、この憲法が抱いている基本的な価値を積極的に認める存在、この憲法的価値を認めた上でその価値を象徴する存在としての象徴です。そこでの「象徴」は、憲法的価値の象徴であり、重要、大切なものとなります。

 そこで、私の解釈は、次のようになります。

第1条 

<X>は、<日本国憲法によって規定された国家>の象徴でなければない。

<X>は、<日本国憲法によって規定された国民が一体的な存在であること>の象徴でなければならない。

 象徴とは、ここでは、日本国憲法が示すあるべき価値を積極的に象徴化して表現したものである、とされます。

 その上で、<X>がそのような存在でなければならない、とされるのです。いわば、「憲法的価値に奉仕する象徴天皇」論です。

 天皇無力化」論も「憲法的価値に奉仕する象徴天皇」論も、<X>が「憲法的価値によってがんじがらめなっている」ことを認めます。

 ただ前者は、この「がんじがらめ構造」によって<X>が無力化されるに止まるのですが、後者では、<X>が無力化された後、さらに、<X>が「憲法的価値に奉仕する」ことを求めるのです。

 私は、両者ともに、ぱっと目には説得力があるが、それぞれ異なったタイプの難点を抱えていることを認めます。

 そのことについては、回を改めて議論するとして、結論的に、私は憲法的価値に奉仕する象徴天皇」論の立場に立ちます。

 その場合、共和制主義者としての私にとってどうしても必要な作業が、この第1条に示された「日本国」「日本国民」「国民の総意」を厳格にとらえておくことです。

 そうしないと、憲法的価値に奉仕する」という意味が曖昧になり、そこに、憲法的価値に反対のものが入り込む可能性すら出てきます。

 そうした可能性を徹底的に排除しよう、というのが、私のしつこい議論継続の意図です。

 つまり、この第1条は、規範として理解する時に、<X>が、「日本国」「日本国民統合」「国民の総意」によって完全に規定されていることは明らかだと思います。

 したがって、この規範に実質的な効力を与えるのであれば、「日本国」「日本国民統合」「国民の総意」についての厳格な解釈が必要だ、というのが私の考えです。

 それらの中に、伝統的な権威とか伝統的なまとまり、とかの意味不明の伝統的なもの、曖昧なものが入っていないようにする、ことが必要です。

 そうした立場から、今回は、英訳日本国憲法にある英語表現を見ながら、今まで議論してきたことを説明する形で、日本国憲法にある<国家>や<国民>が何なのかを明らかにし、それによって、これらの中に、「意味不明の伝統的なものが入っていない」ことを、しつこく確認します。

 「国民」と「国家」の関係を規定するのが、近代憲法の本質的な構成要素です。

 それは、ヨーロッパ起源なので、日本国憲法も、英語表現のほうが基本的論理を理解したり、それに沿った展開を理解しやすいという面があります。

 英語で「国家」にあたる部分を見ますと、the stateとなっています。「国民」はthe peopleです。

 stateは、一般的な意味は、統治機構ということです。

 英訳日本国憲法に現れるstateは、すべて具体・固有の日本国憲法の規定する統治機構としての日本国家で、それはthe stateあるいはthe Japanese stateとして表現されています。

 日本語の日本国憲法の中では、the stateやthe Japanese stateが、国や日本国と「訳」されています。

 「訳」されています、と「」をつけたのは、公式的には当然日本語の日本国憲法が正式のものであり、英語から日本語に「訳」されたという言い方は、おかしいわけですし、事実関係についても、どのようなプロセスがあったかは完全にはわからないので、通常の意味での「訳」といっていいか断定できない、といった事情を反映させつつ、しかし、ほぼそういっていいだろう、という意味です。

 ただ、以下では一々「」をつけるのはうざいので、省略します。

 まず訳として、国ではなく、国家した方がstateの語感に近い、より限定性の高い日本語表現だと思います。

 何故なら、stateは、統治機構--統治機構に属するメンバーが、統治機構外の人々を統治する装置--を意味しますが、日本語の語感では、国というより国家の方がそうした語感に近く、そのような限定性が比較的明確な言葉だからです。

 次に、the peopleを見ましょう。

 <the people>や<the Japanese people>は、<国民>や<日本国民>と訳されています。

 the peopleを国民と訳するのは、適切ではありません。ではどうしたらいいか、というと完全にぴたっと当てはまる日本語がない、と思います。<人民>が適切な場合もありますが、必ずしも、いつもそれがぴったりと当てはまるわけではありません。

 だからこそ、こうして英語表現に基づいた理解も有意義なわけです。

 the peopleという言葉は、一般的な概念としては、どのようなものでしょうか。

 私は英語ネーティブではなく、また、そうしたことが十分にわかるほど英語の勉強をしたわけではありませんが、想像するに、もとはといえば、the peopleは「人々」「普通の人々」というような語感の言葉だと思います。そこに、定冠詞がつくと、「あの人々」「あの辺りに住んでいる人々」という感じになります。自分達とは異なったところで、自分達とは異なった言語や文化を持って(集団的に)生活する人々を、the peopleと呼んでいたのでしょう。

 このことから、英語のthe peopleの一般的な意味、具体的な時代や地域を限定しない一般的な概念としては、<ある地域のまとまった住民>を意味することとなります。

 以上の英語表現の検討だけからも、the stateとthe peopleの関係について、重要な次の3点がわかります。

 第一は、the peopleは、the stateがない時代から存在するもので、この意味で、歴史的事実としても概念的にも前者は後者に先行して成立したものである。

 第二に、the stateが誕生してからは、the peopleが統治の対象となる。

 第三に、上記の第二で示された両者の関係の発展過程は、上記第一で示された出発点の関係を出発点としている。

ということです。

 上記の第三が言いたいこととしては、まず、歴史的事実としても論理的にも、一つのthe stateと一つのthe peopleが一対一対応していない段階があるということです。

 ところが、近代国家ができて来ると、一つのthe stateと一つのthe peopleが一対一対応するようになります。一つのthe stateの統治する領域の住民すべてが、一つのthe peopleとして統合されるようになるのです。

 このようなこと--the peopleがthe stateと別のもの・独立的なものであるところから、両者が密接に結びつくようになる--の認識を、英語表現だと、より明確に持つことができるのではないでしょうか。

 このような近代国家として、歴史的に絶対君主国家とそれを革命によって壊して生まれる共和制的(主権在民)国家があります。

 ここで、ついでに扱っておいた方がいいnationという言葉についても、議論しておきたいと思います。

 ただまたしても、だいぶ長くなってきたので、途中ですが、次回に続けます。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 IV (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(6))

 東京防災公園の憲法集会に参加してきました。山田火砂子監督のスピーチを始めとして、危機感にあふれていました。

 2年前のみなとみらいでの憲法集会では、大江健三郎がたいへんな危機感を持ったスピーチを行なっていたことを思い出します。

 私自身は、2013年末の秘密保護法をきっかけとして、危機感を抱き、ひんぱんな集会参加やこうしたブローグを始めました。

 あれから3年半経ちました。危機感は深まっていますが、であるからこそ、短気をおこしてはいけないと思っています。

************************************************************ 

 私は4月28日のブローグで、日本国憲法の解釈は、近代憲法についての基本的理解を持った上で、ロジカル、すなおに読むことが大切である、歴史的な事情や海外の事例に頼るのは、参考程度で良い、と述べました。

 私のこの日本国憲法の解釈の方法について、ここまで書いてきて、改めて述べておくべきと感じた点が2つあります。

 第1点は、「すなおに読む」ということが何なのか、ということであり、第2点は、英訳日本国憲法の位置づけ(英訳日本国憲法理解の重要性)の問題です。両者は関連しています。

 前回まで書いてみて、「近代憲法についての基本的理解」や「ロジカル」なところは、そのとおりかもしれないが、どこが「すなおに読む」ということになっているのか、自問せざるを得なくなりました。

 例えば、前回、「日本国民統合」を「日本国民統合体」と置き換えても良い、と書きましたが、これは「すなおに読み方」というのではなく、「強引な読み方」--我田引水--だと言われてもしかたがないところがある、と気になりました。

 数学っぽい表現をして、一見厳密に議論しているようでも、実はインチキだ、という厳しい批判もあり得ますね。

 また、私は日本国憲法理解において、英訳日本国憲法の理解を助けとする、ということを重要な点において行なっています。

 となると、①公式的には憲法そのものではない英訳日本国憲法が重要なものとして出てきて、②英語ネーティブでない日本人に対し、それを読んで理解することを求める、という2重の意味で、憲法を「すなおに読む」ということから離れているのではないか、といわれてもしかたがないかもしれません。

 むしろ「口語日本国憲法」のようなアプローチこそが、すなおな読み方だろう、という声があって当然ですね。

 そこで、私が「すなおに読む」ということで言いたかったことは何だったのか、私にとって「すなおに読む」とはどういうことなのか、ということを考えてみました。

 結論をいうと、それは、「書き手への信頼と読み手への信頼の緊張的な相互作用としての<読むという作業>」のことです。

 「書き手への信頼」というのは、書いてある内容が正しいとか書き手の人格が正しいということではなく、「その文書の中に書き手の言いたいことがきちんと書かれている、という前提を持つ」(そうして、その文書に対する)ということです。これは、あたりまえのことのように思いますが、ポストモダンの人達は基本的に全く逆の考え方に立っています。

 次に、「読み手への信頼」とは、「基本的な知識は必要ですがそれがあれば、高度な専門知識がなくても、その書き手の言いたいことが理解できる、という前提を持つ」(そうして、その文書に対する)ということです。

 これらの信頼の根底には、「一人一人の人間の思考というものは、一方で個人的・独立的なものあると同時に、他方で、それが共有しようとする知と大きな論理的な流れによって、可能性としても事実としても、互いに結びつけられているのだ」という哲学的な確信があります。

 そうしますと、私のやり方で憲法を読む場合でも、まずは日常用語的な感覚で読むこと--「口語日本国憲法」のような--は否定されないのです。というか、普通はそういう読み方しかありません。

 ただわからない箇所も出てきますが、そこは保留しながら最後まで、あるいは適当と思うところまで読みます。

 何回も読み直したり、解説書を読んだりしますが、それでもすっきりしなければ、わからない時に、書き手が正しい(読み手としての私の頭が悪い)とか書き手が悪い(あるいは、読むということ自体が本来的に読み手の「自由」「恣意的」な読み込みを本質的な要素として持つ)、とか決めつけず、どっちも正しい(どちらも独立的な主体であるが、相互理解が可能である)と考えます--こうすると上記で述べた、書き手と読み手の間に良い意味での緊張関係が生じます。 

 大事そうに見えるが、どうしてもわからない部分は、こだわったままに、つまりこの緊張関係を維持したままにしておきます。

 こだわりながら、考えたり、調べたり、あるいは全く別のことをしたり、休んだりしていると、突然、「あうそうか」とストンと胸に落ちるような正解が浮かんできて、書き手と読み手(私)の緊張関係が氷解します。

 これが、私のいう「すなおに読む」ということです。

 このような意味で、日本国憲法を読む場合に、私は、そこにその作成者の意図がきちんと書かれている、という前提に立ちます。

 そして以上の意味で「すなおに読む」ということを行なう過程で、英訳日本国憲法を理解することの重要性が出てきます。

 私がずっとわからない、とこだわっていたところが、英訳日本国憲法の理解によって、まさに氷解するのです。

 そういうわけで、英訳日本国憲法を取り上げ、その理解の重要性を述べることは、私にとっては、「すなおに読む」ということの重要部分をなしているのです。

 私は、このブローグで以前、そうした立場から憲法前文の英訳を取り上げて論じたことがあります。

  ところが、英訳日本国憲法を取り上げることについては、2つの懸念が存在するように思います。

 第1の懸念は、石原慎太郎のような極右勢力が主張する「憲法押しつけ論」に根拠を与えてしまうのではないか、ということです。

 日本国憲法において、重要部分でわかりにくいことがあるのは、ありていに言ってしまえば、「訳が悪い(訳がむずかしかった)」ということにもあるといえると思います。

 そのことを以て、石原慎太郎は、しばしば憲法を「翻訳調のおかしな日本語でできている」と政治的に攻撃しています。

 このような攻撃は、もともと、憲法の内容をまともに議論する気がなくて言っているのですから、それに対し私達は、日本国憲法が「立派・格調あると同時にわかりやすい日本語で書かれている」ということを、はっきりと自信を持って対することが必要です。

 実際、細部や厳密な議論は別として、その根本的なところは、わかりやすい日本語で書かれています。

 ちょっと、とっつきにくい、というのも正直なところかもしれませんが、そういう場合には、これまでに触れた「口語日本国憲法」を一度読んで、それから正式の日本国憲法を読み直せば、「立派・格調あると同時にわかりやすい日本語で書かれている」ということがよくわかると思います。

 第2の懸念は、最高規範としての憲法の解釈を行なう、という作業において、英訳日本国憲法を持ち込むことがもたらす混乱です。

 先程、「訳が悪い(訳がむずかしかった)」という表現をしました。しかし、これはへんな言い方で、原文は日本語の日本国憲法であって、訳文の方が、英語の英訳日本国憲法です。

 ところがあんまり、英訳日本国憲法の「正しい理解」にこだわっていると、いつの間にか、英訳日本国憲法があたかも公式的な最高規範であるかの錯覚に陥ってしまわないか、という問題です。

 おそらく、そうした混乱を避ける意味でしょう。普通の解説書には、英訳日本国憲法の話は出てこないようです。

 確かに中途半端な形で(その位置づけが明確でない形で)、英訳日本国憲法が取り上げられると、そうした混乱が生ずるでしょう。また、そうした混乱が、先に触れた石原慎太郎のような政治的攻撃に結びついて利用される可能性も否定できません。

 しかし、英訳日本国憲法は、GHQ日本国憲法の原案の書き手として関わった人々の意図や言葉づかいが、ほぼ再現されていると考えられるものであり、彼らのいいたかったこと(立法者意志)が何であったのか、ということを理解する上で、その理解は必要不可欠な作業です。

 そして、それが日本国憲法の理解・解釈を深めるものとなること--私の述べた「すなおな読み方」の一部をなすこと--は明らかだと思います。

 私が、歴史的事情に頼るのは参考に止めろ、と言っているのは、歴史的事情を理解することの重要性を否定する意味ではなく、あくまで日本国憲法そのもの、その文章そのものが最高規範性を有しているという意味、そのことを忘れてはならないという意味です。

 

 ところで、今日の新聞(東京2017.05.04)で、1946年の議会における憲法第9条の第一項の戦争放棄の条項の条項の審議において、原案がただ「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と述べられていたのに対し、その頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」を加えることになったことが解説されていました。

 それは、社会党議員が「ただ戦争をしない、軍備を皆棄てるということはちょっと泣き言のような消極的な印象を与えるから、まず平和を愛好するのだと宣言する」ために、「日本国は平和を愛好し、国際信義を重んずることを国是とし」という文を加えることを提案したことがきっかけとなった、ということです。

 私は、先に「日本国憲法は歴史的芸術のようなものだ」と述べました。

 この第9条の原案にこうした修正が加えられていく経緯は、まさに憲法が持つその芸術性を体現していると思います--本質と細部の不可欠・見事な統合性が感じられるのです。

 そしてこうした芸術性は、上記で述べたような英訳日本国憲法を参照することに関わる懸念を吹き飛ばしてくれると思います。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 III (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(5))

 

 明日は、有明の防災公園での憲法集会に参加するつもりです。

 それまでに、<X>が何故<天皇>なのか、という大問題に辿り着くことは残念ながら、できそうもなくなりました。

 今日は、それでもできる限り先に進めるように努力します。

 

 今回は、<P統合>(=<国民統合>)の説明から始めます。

 

 前回までに、私の解釈に沿って、憲法の構造を可視化しやすく言い換えると、最終的に次のようになることを述べてきました。

 

第1条 <X>は、<新憲法によって規定された新しい国家>の象徴であり<新憲法制定意志によって一体性を持った国民>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<国民の憲法制定意志>に基づく。

 

 この構造をとらえるために、数学っぽい表現をしてきました。つまり、

 

第1条 <X>は、<S>の象徴であり<P統合>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<Pの総意>に基づく。

 

(<X>は、天皇、<S>は日本国、<P統合>は日本国民統合、<Pの総意>は日本国民の総意を表します。<S>はstateから、<P>はpeopleの頭文字。)

 さらに、最初の表現を得るための各部分の置き換えは以下の通りでした。

 

・<S>とは、<新憲法によって規定された新しい国家>を指す。

・<P>とは、<新憲法制定意志によって一体性を有する国民>を指す。

・<P統合>は単に<P>と置き換えて良い。

 <統合>という言葉は、上記の一体性を強調する言葉である。

・<Pの総意>は、<Pの意志>と置き換えて良い。 すなわち、<国民の憲法制定意志>そのものを指す。

 

 数学っぽい表現をしたのは、憲法の構造をとらえるためでした。そして、結果として得られた冒頭の形での表現が、この憲法の構造をよく示しているわけですが、実は実際に、この結果を得るための過程において、単純かつ厳密に分析的なアプローチを行うために、数学的な考え方を利用しています。 

 <P統合>の説明を始めます。

 上記で、

<P統合>は単に<P>と置き換えて良い。 

と述べてありますが、同じでないものを勝手に置き換えていいのでしょうか?

 もちろん、いけません。

 では、どうすれば<P統合>を<P>と置き換えることを正当化できるのでしょうか。私は、その論理の道筋は、いくつかあると思います。 

 私は、共和制的な憲法の基本構造や英訳日本憲法の語感にたよることが許されるなら--そして私はそれが許されると考えるのですが--、論理的に単純明快な解釈として、 

<P統合>とは<P統合体>のことである。 

と理解したいと思います。

 そして、さらに

・<P統合体>とは、<P>のことである。何故なら、

・<P>には、もともと、それが「新憲法制定意志」の作用によって生み出された一体性を持った共同体であることが含意されている。

・この含意を明示化した表現として、<P統合体>という言い方が可能である。

・それは、<Pという統合体>という意味と同様である。

・つまり、それは<P>のことである。

 というふうに、主張したいと考えます。 

 上記を、さらにやや詳しく説明します。

 まず、<P>とは何か、が問題です。上記では、 

<P>とは、<新憲法制定意志によって一体性を有する国民>を指す。

 となっていました。

  今、漠然とまとまっている国民を小文字を使って<p>と表します。すると、

<P>とは、<<新憲法制定意志>によって<p>を一体化したもの>を指す。

 となります。

  さらに、 

<新憲法制定意志>を、<W>と書くことにします。

Wは、英語のwillから来ています。

 すると、 

<P>とは、<<W>によって一体化した<p>>を指す。

 となります。

  こうした書き方だと、憲法の中での<国民>が<新憲法制定意志>によって限定されたものであること--漠然と<p>を指すものでないこと--が明確になりますね。

 ただ、それでも<P>には<p>が持っていた性質が残っています。

 しかし、共和制的な憲法における本質的な重要な性質は、<P>の中にある<W>にあります。

 このことは、まずは何となくわかると思います。

 天皇の意志によって臣民とされた大日本帝国憲法下の人々を

<P'>とは、<<W'>によって一体化した<p>>を指す。

 (ここで、<P'>は<大日本帝国憲法下の人々>、<W'>を<天皇の欽定憲法制定意志>を表します。)

 ついでに、

<S'>とは、<<C'>によって規定された<s>>を指す。

 (ここで、<S'>は<大日本帝国>を、<s>は<国家一般>を、<C'>は<大日本帝国憲法>を表します。)

 そうすると、これでも、何となく<W>や<W'>の部分の本質的重要性や<C>や<C'>の部分に、本質的な重要性がわかると思います。

 ここで、本質的重要性と言っているのは、大文字示された<W>や<W'>、あるいは<C>や<C'>が示すこと以外の<p>や<s>の性質が漠然と入り込むのを防ぐ機能を持つような重要性です。

 共和制的な憲法において、<W>の部分や<C>の部分が、このような本質的な重要性を持っていることの理由をきちんと述べると、それは2つあります。

 第1の理由は、そこでは、<W>と<W'>の非連続性、<C>や<C'>の非連続性の明確化が原理的に要請される、本質的な部分となっていることです。

 第2の理由は、第1の理由と密接に関連しますが、共和制的な憲法においては、憲法の解釈は、原則的に、<W>や<C>にのみに基づくものであって、それ以外の<p>の歴史的・地理的・文化的・言語的、等の固有性に基づく解釈は原則的に禁じられているからです。<s>についても、同様で、<s>が本来的に超越的な権威を持った存在とするような観念は拒否されています。

 上記の第2の理由は、規定以外の要素を勝手に持ち込んだ解釈を禁ずる、法律一般が持つ性質と似ていますが、それよりはるかに厳格なものです。

 言い換えると、「<p>という共同体は、<W>や<C>を持つようになると、法的には、<W>や<C>のみによって規定される一体性を持つ共同体である<P>へと変わる」のです。

 説明的要素を省いて、命題ふうに書きますと、

<p>は、<W>や<C>のみによって規定される一体性を持つ<P>へと変わる

となります。

 このようでないと、憲法を規定する意味がなくなってしまうことは、わかっていただけるのではないでしょうか。 

 このことは、立憲主義において、しばしば言われる、「憲法は国家をしばるもの」という問題とも関連します。

 上記で述べた2つの理由は、理論的原理的な前提で、後でまた議論しますが、今はこれを認めて議論を進めます。

 他方、理論のレベルでは、 

<C>は<W>のみによって規定される

 はずです。

 そうすると、先に書いた命題は、理論的に、

<p>は、<W>のみによって規定される一体性を持つ<P>へと変わる

となります。これは、

<P>は、<W>のみによって規定される 

 ということと同等です。もはや、<p>という概念は、いらなくなってしまうのです--<W>の中で、<p>が明示的に言及されていたり、<p>の不可欠性が明確にされていない限り

 

 これまでの説明で、

<P>とは、<<W>によって一体化した<p>>を指す。

 という命題において、何故<一体化>というような表現を用いてきたか、またここで本質的重要性を持つのは、<W>であり、<p>ではない、ということが明らかにされました。

 また<W>の本質的重要性は、<C>にも関わるので、ほとんどすべてに関わる極めて重要なものであることも、わかってきたと思います。

 

 (ここで、もろに数学的表現を使うとどうなるかを、書いていきますが、興味のある方だけ読んでください。そうでない読者は、()内はとばしてください。

 ここでさらに、<<W>によって、<何か>を一体化するということを、

        <W>*<何か>

 と書くことにすると、

<P>=<W>*<p>=f<W>

となります。

 ここで、fは関数を表します。

 <W>*も、<p>の関数の役割を果たしているとみなせます。ところが、こうして得られる<P>は、結局<p>には依存せず、<W>だけの関数だ、というのです。

 

 ここまでの説明で、<P>と<W>の関係について詳しく論じてきました。

 それによって、<P統合(体)>とは<P>のことである、それは「<P>というものが<W>によって作り出された、新たな共同体である」ということを意識化した表現である、ということの根拠を明らかにしてきたつもりです。

 

 あまり抽象的な話ばかりを続けると退屈かもしれませんので、ここで、この極めて重要なものとされた<W>すなわち<新憲法制定意志>が日本国憲法のどこに書いてあるか、という話の方に行きます。

 それは、まさに憲法前文の部分ですね。憲法前文だけなのか、というと実はそうではないのですが、まず憲法前文が、<新憲法制定意志>を生き生きと示したものであることはいうまでもありません。

 そこでは、「われわれ」を主語とした上で、「決意」という直接「意」を用いた表現が2回出てきますが、それ以外も強い意志を表す、力強い表現で満ちあふれています--動詞の部分だけを見ても、「宣言し」「確定する」「信ずる」「誓う」等、です。

 この前文の示す国民の<新憲法制定意志>が、天皇<欽定憲法制定意志>と全く非連続的なものであることは、主語が「われわれ」であるという形式やその内容から明白ですが、この非連続性を、特に明示的に語っている部分があります。

 それは、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」する、という部分です。

 私は、以前、憲法においてあらわれる「歴史的当事者性」というものについて述べたことがあります。

 前文全体が、この「歴史的当事者性」を帯びていますが、特に上記引用部分には国民が歴史的な当事者として得た経験が語られ、それが「再び」起きないようにする、という新しい(戦前と非連続的な)政府をつくる決意、あるいはそのための新しい(戦前と非連続的な)憲法をつくる決意が示されています。

 

 以上、<P統合>の説明を通じて、同時に、憲法第1条全体を、整合的に理解するために重要な要素について、かなりの部分を説明することができました。

 ただ、<新憲法制定意志>とは何であるかについては、より議論する必要があります。それによって、<国民の総意>を<新憲法制定意志>のことである、としたことの理由が明らかになるでしょう。

 <X>が、究極的には、 <新憲法制定意志>によってがんじがらめになっている、という議論は、後一回くらいで、終りにして、何故<X>が天皇なのか、という大問題に挑戦したいと思います。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 II (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(4))

 前回からの続きです。

 

第1条 <X>は、<S>の象徴であり<P統合>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<Pの総意>に基づく。

 

 <X>は、天皇、<S>は日本国、<P統合>は日本国民統合、<Pの総意>は日本国民の総意を表します。<S>はstateから、<P>はpeopleからとってきたものです。

 

 前回、次の2点を論じました。

 

 ・<S>は、日本国家一般ではなく、<新憲法によって規定された新しい国家>を指すこと

 ・<Pの総意>は、漠然と国民の意志を指すのではなく、<国民の新憲法制定意志に含まれたもの>であること

 

 今回は、

 

・<P統合>は、漠然と国民のまとまりを示すのではなく、<国民の新憲法制定意志の下でのまとまり>を指すこと

 

の議論から始めます。

 この<P統合>についての説明は、どうしても、近代憲法の基本構造、主権在民の基本的理解がないと、日本国憲法の言葉からだけではできない部分ですね。

 私は、憲法を、普通の日本人が普通の日本語として理解するということを大切にしたいと思います。

 が、この言葉<P統合>日本国憲法の中で、重要な部分でいきなり出てきて、そしてこの一回だけで終り、という言葉です。

 なので、この概念についてのヒントを、憲法自体の中にある言葉から探そうとしてもできません。

 ところで、またまた少し横道に逸れますが、前回に持ってくれば良かったと思い出した本、塚田 薫・長峯 信彦による「日本国憲法を口語訳してみたら」というのがあります。

 すてきな本、すてきな試みで私も推薦します。

 ただ、今ここのブローグでやっているように厳密に論点を迫ろうとする上では、むしろ申し訳ないですが、反面教師的なものとして取り上げさせていただくこととなります。

 (この本については、このブローグで、かなり前に憲法前文の理解について同じ主旨で批判的に取り上げたことがあります。)

 

1条 天皇は、日本のシンボルだよ。これは国民がまとまってるってことを示すためのアイコンってうかそんな感じ。

 

---塚田 薫, 長峯 信彦「日本国憲法を口語訳してみたら」

 

 これは、日本語の語感にたよってそのまま訳してみたという結果で、私が最初に否定している解釈の典型になっていますね。

 (いや、私はこういう試みを否定しているのではなく、私が議論しているようなことを踏まえた上で、わかりやすく、親しみやすく本質に迫る一つのアプローチとして展開していくことは、むしろ積極的に推薦したいと思います。)

 この口語解釈だと、<S>は、統治機構としての国家であること、さらにこの国家が新憲法によって規定された国家であることが全然わかりませんね。

 <P統合>も、国民が漠然とまとまっているってことになっていて、新憲法制定意志の下でのまとまりという限定は全く出てきません。

 「主権の存する<Pの総意>に基づく」の部分に至っては、影も形もありません。こんなの、いわなくてもあたりまえじゃん、というわけでしょう。

 うーん。こういう議論の仕方も魅力的ですね。

 私も負けないように、議論を魅力的にわかりやすく述べるように努力します。

 

 そこで横道に逸れたついでに、最初に述べた<P統合>の説明を続けるのを中止して、先に議論の全体像を見れるようにしておきます。

 

・<P>とは、<新憲法制定意志によって結びついた国民>を指す。

・<P統合>は、<<P>のメンバー間の上記意志による強い結びつき>を指す。

・<Pの総意>は、<<P>のメンバー全員の意志>を指す。

 

 

 これは、日本国憲法の言葉使いに忠実に解釈した形ですが、これをヨーロッパ等の憲法や近代憲法の概念に沿って、さらに、日本国憲法の英訳に戻って参照しつつ、日本国憲法の本質をわかりやすく表現して解釈しなおすと、次のようになります。

 

・<P>とは、<新憲法制定意志によって一体性を有する国民>を指す。

・<P統合>は単に<P>と置き換えて良い。

 <統合>という言葉は、上記の一体性を強調する言葉である。

・<Pの総意>は、<Pの意志>と置き換えて良い。 すなわち、<国民の憲法制定意志>そのものを指す。

 

 すると、

 

第1条 <X>は、<新憲法によって規定された新しい国家>の象徴であり<新憲法制定意志によって一体性を持った国民>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<国民の憲法制定意志>に基づく。

となります。 

 こうすると、日本国憲法が持つ憲法としての基本的性格とこの条項自体の内的な構造との間にある論理的整合性がすっきりとしてきます。

 ここで、<国家><国民>という表現が出てきますが、ここではそれぞれが日本国家、日本国民を意味するのですが、そうであるためには、新憲法制定意志の存在が根源的な重要性を持っています。新憲法制定意志が存在するから、日本国民が存在し、日本国家が存在するのです。

 つまり、論理的にすべてに先行する重要な概念は<憲法制定意志>です。

 すると、憲法第1条において、<X>は、新憲法あるいはそれに先行する<憲法制定意志>によってがんじがらめになっていて、もうその外に出ることはできない構造になっていることがわかります。

 先に引用した「口語憲法」は、全く対照的にこういうがんじがらめ構造をなくして、「象徴天皇制=軽いシンボルマーク、アイコン」論でいくやり方ですね。

 いやそうじゃなくて、がんじがらめになっているから、無力化されていて、つまり結果としては軽いシンボルマークのようなものなんだよ、というのが従来の共和制主義派の主張でしょう。

 私も従来そうした解釈をなるほど、と思い納得していましたが、今は疑問に思います。

 何といっても、国家や国民のシンボルというのは政治的な重みを持ちます。政治学において、シンボルは国家や集団の重要な手段とされます。

 ですから、シンボルだから軽いという発想は間違っています。

 憲法の構成上も、あのすばらしい前文に続く冒頭の第1条の持つ意味は、より考えていい問題だと思います。

 ところで、私が述べてきた「<X>(=象徴天皇制)がんじがらめ論」は、「別に新論ではなくて、むしろ憲法解釈の常識のようなことだ」「問題は、だとしても、何故天皇が象徴なんだ、ということなんだ」といわれるかもしれません。

 確かに「何故天皇が象徴なのか」は大問題で、私もその問題に憲法記念日の前にたどり着きたいと思っています。

 しかしそのためにも、まずは「<X>(象徴天皇制)がんじがらめ論」を私なりに、根拠づける作業を続けます--重要だと考えますので--もしかしたら退屈かもしれませんが。

 そこで<P統合>の説明に戻ります。

 また今回は長くなっているので、次回に続けます。

 

 

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 I (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(3))

 論文を書く経験を持つ方はご存じのことですが、書くということは自分で考えたことを表していくことです。しかしそれだけではなく、書きながら新たなことが見えてきたりします。

 今回も書きながら何回も憲法を見直したりしましたが、この憲法のすばらしさ、特に前文のすばらしさには改めて感激します。

 前に、この憲法のことを「歴史の贈り物」というタイトルで論じましたが、もうこれはまさに、「歴史が作り出した芸術作品」とも呼ぶべきものですね。

 世界中の人、市民運動をやっている人、社会科学者に読んでもらいたいです。

 日本でも、高校3年、大学生くらいに高い水準の授業やディスカッションを、法学者、弁護士、市民(憲法を専門にしていない人文・社会・自然科学の研究者も含め)と一緒に、日本市民として生きるための授業として5コマくらい集中的にやることが必要ではないでしょうか。受験科目としてではなく、その授業、ディスカッション自体の魅力で勝負する、という感じで。

 さて、第1条の象徴の問題です。

 

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 

象徴天皇制に関わる結論的な論点を先に列挙します。

 

宮澤俊義の「1945年8月革命」説は誤りであり、「1947年5月無血革命」が正しい。

 

⑦象徴天皇は公務員であり、全体への奉仕者である。

 支配者が奉仕者に変わったのであるから、これを革命と呼ばず何と呼ぶか。

 

⑧共和制原理は、<A.権力源泉ピープル原理>と<B.平等人権原理>によって構成される。

 <A.権力源泉ピープル原理>とは、「国家権力の源泉は、ピープルのみにある」という国家形成のあり方とその効果についての原理のことである。そこでは、ピープルのみが国家--対内・対外的な権力(主権)や権力に付随する権威を有するもの--を形成することについての合意の主体である。国家形成や国家的権威をもたらす他の主体は存在しない。

 この原理に基づいて形成されるのが共和制国家であるが、通常、その以前にあった君主制国家の否定する国家として生まれる。したがって、共和制国家では、国家の性格の歴史的非連続性(新共和国の価値性と旧君主国家の反価値性)が強調される。

 <B.平等人権原理>とは、「誰もが人権を有し、かつその人権は平等である」という人権原理のことである。

 完全な共和制においては、全員がピープルとなり、ピープル以外存在しない。

 

憲法における日本の象徴天皇制は、

 <A.権力源泉ピープル原理>の面から見ると、ほぼこれを満たしている。やや文語的表現を用いると、「象徴天皇制は、<A.権力源泉ピープル原理>によって包まれ、浸透されている」。

 <B.平等人権原理>の面から見ると、天皇家族に対する特権の付与と人権の剥奪があり、反共和制的である。

 

⑩これに対し、ヨーロッパを中心に見られる民主主義的国王元首制は、

<A.権力源泉ピープル原理>の面から見ると、君主から生ずる権力、権威の要素を残しており、この原理を満たしていない。やや文語的表現を用いると、「<A.権力源泉ピープル原理>によっては説明できないアポリア--「君臨すれども統治せず」--から逃れられていない」。

 <B.平等人権原理>の面から見ると、国王家族に対する特権の付与と人権の剥奪があり、日本の象徴天皇制と同じく、反共和制的である。

 

 長くなるのを避けるようにして、まず⑨の議論の根拠を、条文上や現憲法のあり方から述べていくことにします。

 憲法は最高法規なのですから、まずは憲法自体、憲法の中自体に解釈の根拠を探すべきで、歴史的事情や外国の事例等は、憲法自体、憲法の中自体では憲法解釈が困難(規定の意味が不明)になった時に、解釈を進めるための参考として利用するのに止めるべきです。

 つまり、まずは近代憲法というのものについての基本的な理解を持ちながら、ロジカル、かつ、すなおに憲法を読むべきだということです。

 そのために、憲法第1条を、次のようにおき替えてみましょう。

 

第1条 <X>は、<S>の象徴であり<P統合>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<Pの総意>に基づく。

 

 これを、憲法の基本的性格や憲法の規定に沿ってロジカル、かつ、すなおに理解します。

 <X>は、天皇ですが、ここでの問題の焦点であって、差し当たってそれは、一番謎に包まれているので、<X>としました。また、<S>は日本国、<P統合>は日本国民統合、<Pの総意>は日本国民の総意を表します。<S>はstateから、<P>はpeopleからとってきたものです。

 もちろん、これから説明するように、<X>の「正体」はきちんと憲法で規定されています。そのことを、詳しい説明は省きできるだけ結論だけを述べる形にしますが、きちんと議論していきます。

 まずまさに注目すべきは、<X>や<X>の地位(すなわち<X>の本質に関わる事柄)は、他のものに規定される形で表現されている、ということです。つまり、<S>、<P統合>、<Pの総意>が何か決まらないと、<X>の本質は決まらないのです。

 逆に、<S>、<P統合>、<Pの総意>が決まれば、<X>の本質が決まるのです。

 日本国憲法象徴天皇制が、このような基本構造を持っているということは、非常に重要なポイントです。

 では、<S>、<P統合>、<Pの総意>とは何でしょうか。特に限定のない国家一般、国民のまとまり、国民の意志を漠然と指しているのでしょうか。

 もしそうだとすると、私が直前に述べた「<S>、<P統合>、<Pの総意>が決まれば、<X>の本質が決まる」「日本国憲法象徴天皇制が、このような基本構造を持っているということは、非常に重要なポイント」というのは無意味になります。

 私はそうではないと考えます。<S>、<P統合>、<Pの総意>とは何か、という問題に対する答は、憲法の中や憲法というものの性格自体に探すべきであり、そして実際その答えは、憲法の中に、あるいは憲法というものの性格自体の中に、明確にあると考えます。

 まず<S>は、この<新憲法によって規定された新しい国家>のことです。それは、<明治憲法によって規定された大日本帝国という旧い国家>にとって代わるものです。断じて旧国家と新国家双方を含む国家一般ではありません。

 その根拠の第一は、近代憲法の基本的性格、立憲主義的性格にあります。それは、国民と国家の関係の規定することを基本的役割しています。新憲法は、その点で国民主権等、全く新しい国民と国家の関係、新しい国家像を提起、規定したものですから、この憲法が国家像として象徴化すべきは、当然この憲法が示す新しい国家像です。旧国家と新国家双方を含む国家一般を、国家像として象徴化することはあり得ません。

 第二の根拠は、この憲法の中では、統治機構としての日本国家のことを「日本国」あるいは「国」と呼んでいます。他の箇所で用いられている場合のそれらすべてが、この新しい原理によって造られる統治機構としての国家を指すことばとして用いられており、旧国家機構を指すもの、あるいはそれを含んだものとしての使い方は、全くないことです。

 第三の根拠は、<P統合>、<Pの総意>が何を指すのか、という問題への解答との整合性の問題です。

 そこで、<P統合>、<Pの総意>とは何かという問題を議論します。

 先に、<Pの総意>を扱うことにします。

 これは、<X>の地位は、<Pの総意>に基づく、という規定のところに現れてくる言葉です。

 そこで一つの解釈は、ここでいう<Pの総意>は、それ自体としては無意味なものであって、<X>の地位を憲法的レベルで根拠づけるためのテクニカル、アドホックな規定(いわばご都合主義的な、昭和天皇をこの地位につけるという目的が先にあってそれに合わせた)である、というものです。

 もしかしたら、この解釈は歴史的な事実に近いかもしれません。少なくとも、憲法制定当時の天皇側にとっては、この規定がただそのようなものとして受け止められていたかもしれません。

 しかし、最高法規--すなわち最も原理的な規範を示すもの--としての憲法解釈では、それは解釈放棄と同様と言えます。

 結論だけ述べる、と言いつつ、つい横道に逸れました。

 私は、<Pの総意>というのは、<X>の地位に関わる意志を指すが、この意志は、<より広い国民の新憲法制定意志に含まれたもの>である、と考えます。

 この広い意志を、<Pの新憲法制定意志>と呼ぶことにすれば、<Pの総意>は、前者に含まれたものであり、したがってそうした前者の性質によって限定された性格を持つものなのです。

 無規定の漠然とした意志でもないし、ご都合主義的、アドホックな規定として出てくる意志でもありません。

 その根拠は、第一に、憲法前文の内容とその構成のあり方です。

 第二の根拠は、<S>や<P統合>解釈との整合性です。

 これらの2つの根拠については、<P統合>の解釈と合わせて論じたいと思います。

 すでにかなり長くなっているので、それは次回に続けます。