hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ごまかし・騙しの雄弁術――「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判X--(続の5回目)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属――

 ずっと気分転換の休養をさせていただいて、大きく間があいてしまいましたが、すべての反安倍ファシズムの人と連帯するこのブローグを再開します。

 

 もう、三浦瑠麗氏の議論批判が10回目になります。長くなり過ぎていますので、できる限り、要点をまとめるようにしていき、あと数回のうちにこの批判を一応完成させていきたいと思います。

 今、安倍ファシスト政権は、森友問題に関わる国家財産の私物化・国会での虚偽答弁・文書改ざん、という権力犯罪が露顕しつつあり、かつてなく窮地に陥っています。ところが、安倍首相は、3月25日の党大会で、改憲を前面に出した演説をしており、それにより、改憲問題に国民の注意を逸らしていくことと、改憲自体の実現の双方を狙っているようです。

 私は、森友用地問題に関する権力犯罪の追及をより強めていくことに、デモや言論の形で参加していくつもりですが、同時に、憲法問題を根本的なものとして議論していく必要を感じています。

 この意味で、今回は、三浦氏のブローグへの批判を、氏の憲法を扱った部分に焦点を当てて行なっていきたいと思います。

  私の三浦氏批判シリーズの目的は、まず、三浦氏の議論が、権力・軍事力崇拝および盲目的対米従属の立場・価値観の直接的な帰結であることを明らかにすることでした。

 しかし、そのような権力・軍事力崇拝および盲目的対米従属の立場・価値観は、三浦氏だけに特徴的というよりも、日本の国際政治学者の多くに共通するものと言えます。私が、三浦氏の議論を取り上げたのは、氏がマスメディアに露出して社会的影響力を発していることがありますが、同時に、多くのそうした国際政治学者の立場・価値観をわかりやすく率直に語り、またそれ故に、そうした立場・価値観に立つ論者達の「論拠」(の無さ)をまたわかりやすく示してくれるものでもあるからでした。つまり、私の批判は、安倍ファシズム政権と親和性を持ち事実上それを支えるような国際政治学者達の「理論」「知見」を批判するという作業の中に、このシリーズを位置づけて始めたのでした。

 こうした位置づけの妥当性を、この憲法論に焦点を当てた議論においても明らかにしていきたいと思います。

 私は、この三浦氏批判シリーズのV以降、三浦氏のブローグの一つの文章を取り上げてきました。氏はそのブローグの文章の最初の方で、集団安全保障の論争は、「一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です。」というふうに述べていました。

 氏にとって、本質的重要性を持つのは、第1の「安全保障の領域」なので、私も、この第1の領域の議論を取り上げ、氏の主張を詳しく分析、批判してきました。まだその作業は完了していないのですが、少し急いで今回は、第2の「憲法解釈と立憲主義の領域」を扱いたいと思います。

 私は、氏の言論に即した形で批判の作業を行ないたいと考えますので、長くなりますが、まず、以下に氏による「憲法解釈と立憲主義の領域」に関わる議論を以下に引用します。

 

 二点目の憲法解釈と立憲主義の論点は、これまで積み上げられてきた立憲主義の枠組みをめぐる争いです。安倍政権が進めようとしている憲法解釈の変更については、安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判と、安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判とがあります。

 

 一国の憲法秩序のあり方をどのように捉えるか、なかんずく憲法解釈を変更するということの意味については各国の立憲主義の根幹にある問題です。憲法学者があらゆる角度から論じてきたことですのであまり深入りはしませんが、そこには、成文規定の内容に関わらず、どのような政治的伝統の中に存在してきたかということが重要です。つまり、閣議決定でもって頻繁に憲法解釈を変えてきた国であれば、別に閣議決定で今一度解釈を変更してもさして問題なく、国民が気に入らなければ次の選挙でひっくり返せばいいわけです。それに対して、何十年にもわたって解釈を積み上げ、その解釈が社会的に重要であるというコンセンサスがある国においては、解釈変更という方法論は、まあ、スジは悪いわけです。ここで出てくるのが、「どうどうと憲法を改正すべき」という主張です。私がこの、もっともそうなこの主張になかなか与する気になれないのは、このような主張をされる方の本音が、立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだからです。加えて、このような主張には、立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視が潜んでいるように思えます。民主主義の仕組みの中で少数者の利益が害されないように最大限工夫してから立憲主義は持ち出されるべきものであって、国家観や安全保障観をめぐるイデオロギー的な争いの錦の御旗として使われるべきものでもないような気がします。

 

 安全保障の分野における戦後日本の立憲主義はとても不安定な礎の上に築かれてきました。中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための「ごまかし」です。そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、自衛隊の合憲性、非核三原則、武器輸出三原則、防衛費のGDP1%枠、PKO5原則、武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。そして、この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる。それは、ガラス細工を守り抜く側と、ガラス細工を粉砕する側の双方にとって日本の魂をめぐる闘いでした。私からすると、世代として理解できないところも多いのだけれど、左右両陣営にとって自らの自画像をめぐる真摯な争いであったことは理解できます。そんな中にあって、集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう。

 

 憲法を通じて政府を縛り、国民の権利を保障する立憲主義は、民主主義の擁護者であると同時に、時に民主主義と対立するものでもあります。日本国民は、安倍晋三という政治家を、彼の憲法観や安全保障観を十分認識しながら二度までも宰相として選択し、高い支持を与えています。安倍政権の支持率が高いのは経済改革に期待するからであるからとか、集団的自衛権をめぐる憲法解釈変更への支持率については(信頼性はともかく)いろいろな調査もありますし、様々な主張が可能でしょう。しかし、もう少し長い目でこれらの問題を見たならば、戦後作り上げられたガラス細工の支柱の多くは、安全保障環境の変化と国民の意識変化の前に、既に姿を消しました。おそらく、集団的自衛権の解釈変更は、日本の民主主義がたどり着きつつある、コンセンサスとはとてもいえない、けれども、不可避的な変化の方向性なのだと思います。

 

 現在行われている議論の多くは政策的な結論と言うより、政治的な結論をどこに落とすかいうことについての日本的なコンセンサス作りのように見えます。安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認は、衆参両院における自民党の圧倒的勢力、そもそもの自民党内のイデオロギー分布の変化、維新・みんな等の野党勢力の賛成等から政策的には既定路線であり、安倍政権にどこまで勝ちを持たせるかをめぐる争いであるということです。政治的敗者(=少数者)にも一定の品位を保たせるというのは、日本政治の良き伝統の一つですが、ガラス細工を支えてきた方々も多いので、彼らを政治的に追いやり過ぎないようにするための工夫に知恵を絞る必要がある。与党協議の中でクローズアップされているグレーゾーンの議論は、スジが悪いし、あまり本質的でないのは皆わかっているのだけれど、ガラス細工の破壊者と擁護者が共に勝利宣言する必要があるという政治的立場に立つと、スジが悪いことにそもそもの付加価値があるとも言える。集団的自衛権憲法解釈というガラス細工を壊す代わりに、グレーゾーンという、新たな、少し小さめのガラス細工を作り出すことなのかと。ちょっとやり方が時代遅れな気もしますが、しょうがない感じもあり、日本的な共感の示し方でもあるのかと思います。

 

 氏は、「中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための『ごまかし』です」と論じて、自らを、この「ごまかし」を正直に指摘する者という位置に置いて発言しています。

 しかし、私はまず、氏の議論自体が、「ごまかし」「騙し」に満ちたものだということを指摘せざるを得ません。氏は「ごまかし」「騙し」に満ちた自らの議論を進めるために、たいへんずさんな書きぶりを重ねています。私は今、「たいへんずさんな書きぶりを重ねている」と書きましたが、論の運びの論理性という意味ではそういえると思いますが、意図的な「ごまかし」「騙し」の方法が多用されているという意味では、「詐術的弁論術に満ちている」といっても良いと思います。

 そして、そのずさんな書きぶり、詐術的弁論を可能とするのが、氏が要所で利用する「学術的雰囲気を漂わせる」分析っぽい表現術であり、そして「縦横無尽」に用いられる「主語消失」話法です。

 氏によるこの第2の「憲法解釈と立憲主義の領域」の議論(文章)において、上で引用した「このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための『ごまかし』です」という部分は、重要なポイントとなっており、そしてそれは、読者に対して強い印象をもたらすための「断言」をなしています。

 「現実」「イデオロギー」「矛盾」といった言葉が、「論文」っぽい分析的な雰囲気をかもし出すと同時に、「ガラス細工」「分断」「ぎりぎりのところで折り合わせる」「ごまかし」といった効果的な――しかし意味内容があいまいな――「文学的」表現も併用されています。そして、この文の主語は、「ガラス細工」となっており、「ごまかし」をなす主体が誰なのか、何なのか、わからないようになっています。

 次回、この部分についてその内容に沿った形で詳しく批判を行なうつもりですが、まずここでは、この断言を基点とした詐術的な主張の内でも、最初に私がびっくりしたことから書いておきましょう。その方が、まず上で私が述べたことの要点を理解していただけると思います。

 私はしばしば指摘してきましたが、氏の文章は肝心なところで、主語(責任を持った主体)が消失するという特徴を持っています。氏は自衛隊を合憲とする法解釈を「ガラス細工」と評し、さらにそれを大上段から、「このガラス細工は、・・・『ごまかし』です」と断言しています。つまり、この文では、責任を持った主体としての人間や政治勢力が出てくる代わりに、「ガラス細工」が文章上の主語として採用されているのですが、これは、三浦氏に特徴的なテクニークで、これによって、氏は社会、歴史における主体を隠したまま、現れてくる社会的、歴史的な現象や結果を自らに都合よく扱うことが可能となるのです。

 氏のブローグの続きを見てみましょう。

 「そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、①自衛隊の合憲性、②非核三原則、③武器輸出三原則、④防衛費のGDP1%枠、⑤PKO5原則、⑥武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。」

 主語は、「ガラス細工」で、「ガラス細工」は「形成されてきました」というように受け身形で表現されています。(氏はさらに、「⑦集団的自衛権をめぐる憲法解釈」を「ガラス細工」の要素として加えています。)

 では、これら①から⑦までの「その時々の政策課題と絡まりながら形成されてき」た「ガラス細工」(=「ごまかし」)を形成してきたのは、そもそも誰でしょうか。①から⑦までは、基本的に政府の政策を支える憲法解釈や基本原則なのですから、それら(「ガラス細工」の諸要素)を形成してきた主体が政府(自民党やその前身である自由党等の保守政党)であることは明らかです。

 氏の「ガラス細工」(=「ごまかし」)という表現を踏襲するならば、国民をごまかすために「ガラス細工」を作ってきたのは、「政府」です。

 ところが、三浦氏は真逆の議論を展開しています。氏によると、「ガラス細工を守り抜く側」と「ガラス細工を粉砕する側」が争っているというのですが、前者が「左陣営」であり、後者が「右陣営」とされています。通常の論理展開ならば、「ごまかし」をなした者が「ごまかし」を「守り抜く」側になり、それを批判する側が「ごまかし」を粉砕する者になるはずです。つまり、氏は「ガラス細工」を「ごまかし」であると批判していたのですが、いつの間にか、「ガラス細工を守り抜く側」、つまり「ごまかし」を擁護とされるのが左陣営であり、「ガラス細工を粉砕する側」、つまり「ごまかし」を正すのが右陣営ということにされています。これだけ堂々と真逆のことを主張されると、何か読んでいる方がどこかで勘違いでもしているような錯覚にとらわれます。

 詐欺を働こうとする人々は、「まさかここで嘘はつくまい」「まさかこうは堂々と真逆のことは言えないだろう」という普通の人の虚を突くことを得意とするものですが、三浦氏の論建ては、そのような詐術的弁論としか言いようがありません。

 どのようにして、このような詐術的弁論を氏は可能なものとしているのでしょうか。それは、(1)まず、氏の得意技である「社会や歴史における実質的な主体・責任を持った主体隠し」によって、氏がいうところの「ガラス細工」(=「ごまかし」)の形成者たる政府の存在を隠す、 (2)その上で、自分の論に好都合なように今度は、左翼は「ガラス細工」(=「ごまかし」)の擁護者、右翼は「ガラス細工」の粉砕者であるとレッテルを貼りながら主体認定がなされるのです。

 氏の詐術的弁論性は、このような真逆のレッテル貼りを堂々とするということだけに止まっているものではありません。氏は、「ガラス細工」という表現を持ち込むことによって、①から⑦までのテーマ(政治・政策の原則や憲法解釈)が「ガラス細工」の様なものであって、現実政治においては、考慮や議論に値しないもの(政治の現実に影響を与えないもの)であるかの印象を与えています。

 氏の口調が常に「おバカさんのあなた達に教えてあげる」というものであることは知られていますが、ここでも、「この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる」と敬語を用いながら、「(おろかにも)一生をささげてきた方(おバカさん)」「(おろかにも)真摯な争い」をしてきた人々(おバカさん)が隠然と嘲笑の対象とされています。そして、この「ガラス細工」をめぐる議論が、「日本の魂」「自画像」「象徴性」をめぐる左右政治勢力の争いであり、「政策的な内実とは別の次元」--ここらへんも何か「論文」ぽい分析のような響きがしてきますね--にあるもの、と説いてくれるのです。

 しかし、言うまでもなく、①から⑦までのテーマ(政策・政治原則やそれらと密接に関わる憲法解釈)は、政策的な内実に密接につながる議論であり、従って当然政策的な内実に重要な影響を及ぼすものです。氏は、こんな単純明快な事実を、「ガラス細工」という言葉を主語として(詐術的に)用いることや「政策的な内実とは別の次元」といったもっともらしく聞こえる、しかしずさんな論の運びによって、読者から隠してしまうのです。

 さらに、氏の詐術的な議論の特徴は、「自分はお利口さんなので、お馬鹿な左右のイデオロギー対立の上にいる」というポーズをとることによって、読者に対し、氏が自らを第三者、中立者のような位置にある印象を与えること、そしてそうしながら、実際には、右翼イデオロギーや右翼の主張する政策を強力に支援・促進する役割を果たしていることです。

 氏は、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう」と言って、この問題を「政策の内実と別次元のもの」としている--つまり、氏の高みから見るならば、「のっぴきならない」というようなものではない、そのような実質性を持つ議論ではない、と隠然と述べている--ので、これだけだと氏は第三者のような印象を与えます。しかし実際は、全く違います。

 これまでの私の三浦氏の議論の批判シリーズで見てきたように、氏は、「集団自衛権は認めるべき」といい「日本も核武装すべき」と論じています。つまり、安倍政権やいわゆる自民党タカ派と同様の主張をしています。

 また、この物言いは、氏の立場が、①および③から⑥まではもう論ずる必要もなくなったことして認識しており、そうした状況を歓迎する(「ガラス細工」が崩れ去ってけっこうなことだという)ものであることを示しています。しかし、そうした状況は、政府による強行的な決定や政府の政策による「ごまかし」的な現実の持続によってもたれされてきたものであることを見ようとせず、またそのことを読者にも見させないようにしているのです。

 つまり、第三者のふりをしながら、第三者どころか、安倍政権に示される極右的な政策を支え、促進する好都合な支持者の役割を果たそうとしています。

 私は、同様に、日本人の学者があたかも客観性(独立性)を持って米国の主張を支持してくれるならば、米国のいうことごもっとも、という姿勢を丸出しにした人物よりも米国にとって好都合であることを、三浦氏の例に即して述べたことがあります。

 三浦氏の詐術の中に一貫している論理は、権力・軍事力崇拝と対米従属によって方向づけられたものです。このことを理解しておくと、氏の詐術にとらわれることなく、しかも、氏の主張の本質(=権力・軍事力崇拝と対米従属という筋だけがあり、従ってまた、オリジナリティや分析的な価値がないこと)を把握することができると思います。

 私は、次回に、①から⑦までがどのような性質を持つものなのか、私自身の考えも示しながら、先程取り上げた「このガラス細工は、・・・『ごまかし』です」という氏の議論(詐術)を、批判的に詳しく論じていくつもりです。

 ただ今回、ここで議論を中断することによって生じかねない誤解を防ぐために、少し付け加えておくことがあります。私は、先に「真逆」という表現を用いつつ、政府こそが①(「ガラス細工」)を作り出し、「ごまかし」をなす主体である、というような言い方をしました。しかしそれは、三浦氏の言葉づかいである「ガラス細工」や「ごまかし」というようなものを踏襲するのであれば、という条件での話です。私はそのような言葉づかい自体を、①から⑦の持つ社会科学的な意味、性質をとらえる上ではふさわしいものとは考えません。このことは、次回の議論で明らかにしていくつもりです。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判IX--(続・続・続・続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 私は、三浦氏の議論に反映されている軍事力崇拝の問題は、憲法問題に深く関係してくると考えており、氏の議論に対する批判的分析を続けます。

  読者の便宜のため、また三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用(原文)も再度コピぺしておきます。

三浦氏の原文

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

  私は、上のD-1に対応する部分を「三浦<当然>理論」と呼び、それへの批判を中心的に行なってきました。しかし、回数を重ねているのに、未だ、その理論自体に焦点を当てて、直接批判することはやっていません。今回は、それを済ませたいと思います。

 まず、「三浦<当然>理論」とは何かをきちんと定めることが必要です。これが、結構手間のかかる作業です。私としては、そうした作業を経て、最終的に次のように定式化することができました。 

「三浦<当然>理論」(米村による最終定式化)

今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、双方の同盟参加国は、同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことが、「当たり前」と認め合う必要がある。

 (ここで太文字は、特定の国ではなく、国一般についてのものであることを意味します。)

 以下で、原文のD-1に対応するものが、何故、このように定式化できるのかを説明します。この説明の目的は、氏の議論の仕方の中にある多くのトリックにひっかからないようにしながら、氏の議論をできる限り正確に理解することです。上記の定式化自体が、そうした努力の結果です。

 三浦氏の原文から出発しましょう。

(原文のD-1)

②A.今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、B.相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。

③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 これは、何とも奇妙な文章ですね。なんかスッキリしません。少しづつ、整理していきましょう。

 上記の②は、Aが「・・・ということは」という形なので、Aが主部、Bは述部のように見えます。しかし、これは<A is B> という関係にあるのではなく、Aは条件節、Bは主節という関係、つまり、<if A, then B>という関係にある文です。

 例を挙げると、「X.ここにある人物の帽子があるということは、Y.その人物が犯人であることを意味する」というような文の構成(XとYの関係)です。

 そこでまず、わかりやすさのために、②を<if A, then B>の形の文に直します。また、三浦氏の文章の特徴である「主体の消失・隠蔽」を避けて、主語を明確にするための修正も加えます。すると、次の②'が得られます。

②'  A'.今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、B'.それらの民主主義国は、相互主義と相互利益を暗黙の、当然の前提と認める必要があります。

  この②'は、理論的命題と言うことができます。その理由としては、第1に、民主主義国(同士)という言葉が、「民主主義国」一般を差しており、特定の国について限定されていなく、かつ、それを民主主義国の中の特定の国について当てはめた場合、成立することを意図した命題(一般理論)だからであり、第2に、同盟維持という行為の中にある本質的なもの、原理的なものを「相互主義」「相互利益」といった概念で表そうとしているからです。ここでは、この第2点の性質が、第1点で意図された一般理論としての妥当性を基礎づけていると言えるでしょう。

 次に原文の③を見ましょう。これは、「つまり」という言い換えの接続詞で始まっています。ですから、これは②を言い換えているはずです。また、その言い換えは、②で「米国」「日本」といった特定の国名が出てくることから、②で提示された一般理論を、これら2国の場合に適用したものだと見当がつきます。

 また実際、③の最後は、「ということになります」と表現されていて、これは、「②から③が導かれる」ということを意味していると解せます。

 そこで、ともかく、③を②の一般論の対応事例であると考えて書き直してみます。

③' つまり、a'. 今の時代に日本米国が同盟を維持しようとするならば、  b'. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

(ここで、日本米国などのアンダーラインは、国一般ではなく、特定化された国であることを意味します。)

 こうすると、対応関係がはっきりしますが、もちろん、「②の一般論から③は導け」ません。対応箇所がはっきりした分、却って②と③の内容的な相違が明確になってしまったとも言えます。

 しかし、氏の原文のような書き方は、②から③の導出が可能であるかの印象を与えるトリッキーなものといえます。このトリックにおいて重要な役割を果たしているのは、②(②')が、誰も認める妥当な理論的命題であるということです。 

 私も②の一般論は正しいと思います。条約上の明文規定に「相互主義」「相互利益」という言葉がないとしても、条約を結ぶという行為自体にそもそも「相互主義」「相互利益」という一般的原理が働いているということを認めるからです。

 ただしこのような原理的な意味で「相互主義」という概念を用いる時、それは抽象度が高いものであって、例えば、日米安保条約にある「防衛と基地との交換」も、「相互主義」の一形態であると考えます。このように、「相互主義」という概念は抽象度が高いらからこそ様々なケースを含み、それ故、この概念の使用にはそれらを統一してとらえられるというメリットがあるわけです。

これらであれば、私も含めて誰でも、自然な一般論的な文章と感ずるでしょうし、内容的にもこの一般論を支持するでしょう。条約上の明文規定に「相互主義」「相互利益」という言葉がないとしても、条約を結ぶという行為自体にそもそも「相互主義」「相互利益」という一般的原理が働いているということを認めるからです。

 ただしこのような原理的な意味で「相互主義」という概念を用いる時、それは抽象度が高いものであって、例えば、日米安保条約にある「防衛と基地との交換」も、「相互主義」の一形態であると考えます。

 具体的・現象的・個別的な議論とは異なって、抽象的・理論的・一般的な議論を行なうメリットは、それらを整理・まとめながら、本質に近づいていくことにありますから、「防衛と基地との交換」をも「相互主義」の一形態と把握することは、そうした理論的接近・把握としてごく普通のあり方です。そうした立場からは、むしろ「防衛と基地との交換」も、本質的には「相互主義」的なあり方として捉えられるわけです。

 そういう意味で、もし、A'またはA''の後にBが続けば極自然で、内容的にも異論は生じないだろうと思います。

 この正しい一般論(「理論」的に表現された正しい命題)の存在は、氏の議論展開に対する信頼を与えるように機能する(印象づける)でしょう。つまり、三浦氏にとっては、それは「レトリック」「トリック」として、読者から信頼を得、油断させるには必要なもの、有効なものとして配置されています。

 私達は、特別な場合以外は、文章を微に入り細に入り読み直すというようなことはしません。大雑把に理解しながら、読み進めていきます。原文の②③を読んだ人の多くは、次のように思うのではないでしょうか。

 「あれ、②と③は違う気がするな。だけど、ともかく②の一般論から③が導けるのかもしれないな。②の一般論は正しい気がするし。まあ、③が導けることにして、先を読もう」

 もちろん、この程度のトリックにはひっかからない人も多くいるでしょう。しかし、残念ながら、このトリックを避けたからと言って、これで氏の議論を把握、論破できると安心するのは早すぎます。氏の叙述、論理の「強み」は、前にも指摘したように、曖昧表現や後出しジャンケン的手法、逃げ道用意、にあります。

 私のように、「ちょっと待って。②から③は導けないでしょう」という人間には、三浦氏は次のように対応することができます。「いいえ、そこには②から③が導ける、なんて書いてないでしょう。簡潔に書くために省略しましたが、私としては次のように書いたつもりです。」

D-1'

つまり、A. 今の時代に民主主義国の間で同盟を維持しようとするならば、B'. 同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

③つまり、a. 日米間で同盟を維持しようとするならば、b. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

つまり、A. 今の時代に民主主義国の間で同盟を維持しようとするならば、B'. 同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

③つまり、a. 日米間で同盟を維持しようとするならば、b. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

②'  A'.今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、B'.それらの民主主義国は、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提と認める必要があります。

②'+  つまり、 A'.今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、B'+双方の同盟参加国は、同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」と認め合う必要があります。

③' つまり、a. 今の時代に日本米国が同盟を維持しようとするならば、  b. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、日本集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、日米両国が「当たり前」と認め合う必要があるということになります。

 確かに、論理的に辻褄を合わせて理解しようとすると、上記の②'+ の部分が省略されている、したがって本来それが原文に挿入されるべきであった、と考えるほかありません。

 この場合、②'+  の冒頭の「つまり」は、文字通り入れ替えの役割を果たす接続詞として働いていて、②'のB'を、②'+  のB'+ に、入れ換えた--「相互主義」「相互利益」を「集団自衛権行使・相互防衛義務」と特定したものに、入れ換えた--ものです。

 ここで重要なのは、文言上は「ただ入れ換えただけのもの」ですが、内容的・論理的には、この言い換えは、集団自衛権の有無・成否というここでの議論にとっては、決定的な意味を持った変化だということです。

 「集団自衛権行使・相互防衛義務」が「相互主義」「相互利益」の一形態であることは確かです。しかし、B'+ において、「集団自衛権行使・相互防衛義務」が「当たり前」という時、それは、「相互主義」「相互利益」の別の一形態である「防衛と基地との交換」を排除して、必ず、「集団自衛権行使・相互防衛義務」が「当たり前」として認められなければならない、と言っているのです。

 となると、先に指摘した②から③は導けない(論理的に演繹できない)、という問題は、ここでも繰り返されるように見えます。

 しかし、三浦氏は次のように言うことができます。

 ですから、私は②から③(②'から②'+)を導けると言っているのではないのです。 

 逆に、「つまり」という言い換えによって、②の内容(「相互主義」「相互利益」)を③によって後から(②'の内容を②'+によって後から)規定、特定化しただけです。

 その意味で私が主張しているのは、②'+ということです。

 論理的に言うと、②は無しにして、②'+だけと同じことです。その方が分かりやすかったかもしれませんが、私としては、この方が分かりやすいと思ったのです。

 私は、「この方が分かりやすい」とは思いませんが--そうではなく、トリッキーだと述べてきました--、論理的な結論、②'+が氏の主張である、ということには賛同します。氏の「理論」としては、②は不要であって、本来②'こそが、明示的に表示されるべきものだったのです。

 ここで、やっと今回予定していた使命の最初--<三浦氏がD-1で提起(含意)している理論的命題>=<私が「三浦<当然>理論」と呼ぶものであること>を確認する作業--を果たしたことになります。

 つまり、氏の理論的命題は、②'によって完全に表現されているのですが、私が、三浦<当然>理論」(米村による最終定式化)として、今回の使命を述べた、最初に近いところで掲げておいたのは、この②'でした。

 以上の説明は、論理的な整合性というような観点からのものであり、三浦氏の文章が、そのような観点からの接近を許すかどうかについての疑念を持つ方もあるかもしれません。

 あるいは、論理的整合性といっても、厳格なものではなく、そこには私による推論的な性格があることは否めません。

 そこで、私としては、<<「三浦<当然>理論」(米村による最終定式化)が、氏自身が提起している理論的命題を忠実に再現している>>ことについての重要証拠を加えておきたいと思います。

 実は、三浦氏の原文の結論部分であるE-2において、簡潔にこの「三浦<当然>理論」とその適用が述べられているのです。

 その③において、

・・・現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上・・・

とあります。これは、上記で示した②'+ に対応します。

 さらに続けて、④において、この一般理論を日本に適用することによって、

日本は同盟維持のために]集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

と結論を与えています。これは、上記で示した③に対応します。

 つまり、三浦氏の原文のD-1において、②を削除して、代わりに②'+ を書くと、このD-1部分でも、結論部のEで示される「理論」とその適用が、そのまま--構成・中身とも--全く同じに再現されるのです。

 

***************************************

 「三浦<当然>理論」の確定という作業だけで、ずいぶん長くなってしまいました。本来の目的は、その批判にあるのに、です。

 しかし、こうした作業が、三浦氏の主張を内在的に理解して上で批判するためには必要です。次回に続けます。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判VIII--(続・続・続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 前々回は、三浦氏が「他に選択肢がない」として、日米同盟維持を選択していることを指摘しました。その際に、氏が「選択肢がない」という理由から「消極的」「しかたがない」というトーンではなく、何故か、強い口調で積極的に「集団自衛権が可能であると考えるべきだ」と結論づけていることも指摘して、「権力者にとって何と都合の良い議論をしてくれる『学者』なのでしょうか」とコメントしました。

 前回は、三浦氏の議論の中に見えにくくなっていた「三浦<当然>理論」を明確化・摘出し、この「理論」が、米国が求める「日本の集団自衛権・米国防衛義務」を「当然」「当たり前」のものとする(=正当化・合理化する)役割を果たしていることを確認しました。

 この「三浦<当然>理論」こそ、氏の「国際政治学的知見」の中でもその核をなすものであり、その「学術的」かつ「政治的」貢献において、米国からの感謝状を受け取るべきものでしょう。

 前々回において指摘した、三浦氏が消極的ではなく、積極的に集団自衛権を擁護していたのは、この「三浦<当然>理論」のしからしめるところだったのです。

 では、この「三浦<当然>理論」は、どのような根拠に基づいているのでしょうか?それは、「正しい」のでしょうか?

 今回は、それを議論します。

  読者の便宜のため、まず、三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用と、私による「三浦<当然>理論」の2つの定式化を再録しておきます。

 

三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)

 

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

 私が、定式化した「三浦<当然>理論」は、次の通りです。

 

「三浦<当然>理論」(定式化E)

 現代の民主主義国間の同盟は、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している

  

「三浦<当然>理論」(定式化D')

 ②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③'つまり、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。{③つまり、日米同盟にこの「理論」を適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。}

  

 さて、この「三浦<当然>理論」の根拠の問題です。

 私は、前々回に、D-1について、その論理的な流れが悪く、スッキリとせず、奇妙な不快感が残る、旨を述べました。

 そして、次の修正を提示しました。

 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、「私氏MIURA」によって「三浦<当然>理論」としてまとめられた国際標準に従わなければなりません。この国際標準とは、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提であるということです。③'この国際標準では、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。つまりので、「三浦<当然>理論」の国際標準を日米同盟に適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 

 

 私としては、この修正によって、D-1の本来の主旨をねじ曲げることなく、論理的な流れの抜本的改善を果たしたつもりです。

 そこで、読者の皆さんにお願いですが、三浦氏の原文のD-1でも良いですし、私の修正版D-1'でもどちらでも良いです。どちらを使ってでも、D全体を読み通してください。

 どんな印象を持たれますか?

 私の感覚を述べましょう。

 今度は、D-1(D-1')内部の論理的な流れについてではなく、D全体の論理的な流れについて、またしてもスッキリとせず、何度読んでも、奇妙な不快感--解決すべきものが解決していない、理解できたような、できてないような感覚--が残ったままです。

 集団自衛権についての「本質」についての三浦氏による議論は、引用したDで終わっていて、結論部のEに至って再度、基本的に同様の主張・記述が繰り返されるだけです。

 ですから、三浦氏の議論を「内在的」に理解するためには、どうしても、このDの流れの悪さの原因を突き止める必要があります。

 私は、氏の議論に「内在的」かつ批判的に接近するために、氏の議論において隠された主体を、意識的に明確化・明示化する、という方法を採ってきました。

 つまり、「日本JAPAN」と「三浦氏MIURA」(あるいは「三浦<当然>理論」)という主体の存在を摘出し、それによって、かなりの前進が可能となったことを示し得たと思います。

 では、他方、主体としての「米国USA」の位置は、どうなっているのでしょうか?

 私は、この視点からの分析を、今回も追求していこうと思います。

 「米国USA」の存在については、実は氏の議論の中で最も隠されていないもの--明示的なもの--となっています。D-4からD-6までがそれでした。

 では、そうした米国の態度・認識(についての三浦氏による推定)は、D全体の中では、どのような位置を占めているのでしょうか?

 それは、「三浦<当然>理論」を根拠づけるものとして配置されているのです。

 前回は、「根拠づけるものとして配置されているような印象を受ける」と、「印象」という言い方をしましたが、今回は断定して述べることにします。

 というのは、分析的に読み込んだ場合、他の読みようがないからです。

 D-1の②③で「三浦<当然>理論」が、提示された後、D-2およびD-3では、その「三浦<当然>理論」の根拠が無いことが示されます。

 つまり、日米安保条約にも書いていないし、「防衛と基地との交換」という伝統にも反しているし、「 日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない」と述べています。

 ところが、D-4では、「しかし・・・」と始まり、「ワシントンの本当の権力者たち」の認識「米国USA」)が、「三浦<当然>理論」を支える根拠として登場するのです。

 D-5では、「米国USA」の近年の認識の変化の背景が語られ、D-6では、「米国USA」による現在の認識が、推察という形であるとはいえ、三浦氏によって非常にビビッドな言い方で表現されていますね。

 

[ワシントンの本当の権力を持つ人々にとって日本の集団自衛権行使は「当たり前」なので]「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。(D-6)

 

 これは、まさに「三浦<当然>理論」を直接に支える「根拠」とされています。

 そして、集団自衛権の「本質」をめぐる本論は、ここで終了しているのです。

 さて、こうして見ると、議論の本筋は、「三浦<当然>理論」に対し、D-4からD-6が根拠を与えているかどうか、ということになります。

 しかし、その議論に入る前に、D-2とD-3という「小細工」について触れておく必要があるでしょう。

 私は、D全体の論理的流れに妙な不快感(スッキリしない感、納得できない感)を持つと言いましたが、その一つの原因がここにあるからです。

 私は、前々回に、三浦氏の特徴的な「小細工」の一つとして、「後出しジャンケン」を挙げました。そのさらに一捻りしたものとして「先出しジャンケン」というものがあります。

 「後出しジャンケン」は、必勝の手ですが、「先出しジャンケン」は、必敗の手のように見えて、これが曲者です。

 「先出しジャンケン」は、両手を挙げて敗者のようなポーズをとりながら、勝負の本筋から相手の気を逸らし、本筋とは異なる問題設定をすることを通じて、実は自分をより有利な位置におくためのトリックです。

 三浦氏は、D-2において、第1回目の「先出しジャンケン」を行ないます。

 つまり、そこで自らの議論--「三浦<当然>理論」--を、まずは「暴論」として根拠のないものであることを認めています。

 「安保条約に書かれていない」ということが、重要な事実において、「三浦<当然>理論」の欠陥(根拠の無さ)を示すものであることは明らかだからです。

 また、「防衛と基地との交換」の「伝統」も、安保条約上の明文規定に対応した重要な事実であり、それは三浦氏がいうところの「相互主義」と相互利益が、日米間においてそうした「防衛と基地との交換」という形で古くから存続してきていることを語る重要な事実です。つまり、それが「三浦<当然>理論」の重要な欠陥(根拠の無さ)を示すものであることも明らかです。

 ですからここで、まずは「暴論」として敗北のポーズをとったのが、第1回目の「先出しジャンケン」です。

 ところが、D-3で第2回目の「先出しジャンケン」が行なわれると様子が変わってきます。

 氏は、そこで「 ですから日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない」と書いています。

 「正面きってはおっしゃらない」というのは、客観的には「何の証拠・証言もない」ということを意味しています。

 ですから、ここでも「三浦<当然>理論」の根拠が存在していないことを、認めているということができます。

 しかし、通常の文章表現としては、これは全く逆の意味を持ちます--それは「本音においては(「三浦<当然>理論」に近い何かが)存在する」ことを示唆するものです。

 つまり、この第2回目の「先出しジャンケン」は、負けたような振りから、実質的に攻勢に出ているのです。

 しかもこの第2回目の「先出しジャンケン」が出された時点では、第1回目の「先出しジャンケン」の意味は、最初に意味していた敗北のポーズの機能とは全く異なったものとなっています。

 いつの間にかそれは、「日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロ」が「証拠・証言」を提出できない理由を与えるものとして機能しています。その結果、「どこかに本音が存在しなくてはならない」とする氏の誘導を、抵抗なく受け入れさせられることを準備するものとなっているのです。

 D-2およびD-3にあった重要な証拠・証言の不在という重要な事実が、2回の「先出しジャンケン」というトリックによって、何か重要ではないもののような印象に誘導され、どこかに存在するはずの本音こそが重要である、という心理状況が作り出されるのです。

 このような心理操作は、あくまでトリックですから、人を完全にスッキリと、腑に落ちたような状態にまで、説得しきることに成功することはできません。

 しかしまた、文の繋がり自体はそれなりに辻褄が合ってつながっているように見えるので、何がおかしいのか、なかなかわからないのです。そして、このトリックの正体が掴めるまでは、何度読んでも解決できない、妙な不快感が残ることになります。

 もっともこのトリックがわかってからも、このD-2とD-3は、読むと頭が混乱し、不快感が募ることは変わりません。

 従って、D-2とD-3については、私としては、それらは客観的には「三浦<当然>理論」に関して、重要な根拠の不在を語っているものである、ということを確認して、そうした主旨を反映するための修正を次のように行なうことを提案します。 

 

D-2'. もちろん、そんなこと「三浦<当然>理論」の根拠は、日米安保条約のどこにも書いていませんし(むしろ、安保条約の規定はこの「理論」を否定するものです)「三浦<当然>理論」は、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する根拠のない議論で暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3'. ですから、また日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはも「三浦<当然>理論」を根拠づける証拠・証言をおっしゃらない。

D-4'. しかしそこで、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識を、ここで申し上げていること「三浦<当然>理論」と大差ないはずですもの、この「理論」に根拠を与えるものとして推察することにします 

 

  ただ、今回のこの修正提案は、三浦氏の意図に忠実に沿ったものではなく、逆に氏の意図(トリック)に逆らって、客観的事実を確認したものです。

 でもこうすると、私としては、かなりスッキリしてきました。これでいよいよ、D-4(D-4')からD-6までが、「三浦<当然>理論」の根拠となっているかどうかを議論するところにやって来ました。

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 またしても、「氏の度し難い『権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属』を明らかする」作業が本丸に到達するのは、次回延ばしとなってしまいました。

 あきれずに、おつきあいいただければ幸いです。

 

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判VII--(続・続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 前回、私は、三浦氏の確信犯的な「暴論」を、氏の「国際政治学的知見」に焦点を当てて批判する必要を述べ、そして氏の「国際政治学的知見」の内、まず、日本JAPANという主体の判断・選択の問題に関して検討を行ないました。

 そこで明らかになったことは、読者に意識する契機をなるべく与えないようにしながら、最後の最後に「日本JAPANには他に選択肢がない」という三浦氏MIURAの判断・選択--つまり、氏の「国際政治学的知見」--を、ぽそっと入れ込んで、「集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います」という結論を出している、ということでした。

 今回は、氏の「国際政治学的知見」の、「米国USA」の態度・主張に関する問題を扱います。そして、氏の度し難い「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」を明らかにしたいと思います。 

  読者の便宜のため、また三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用を再度コピぺしておきます。

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

  三浦氏の「米国USA」の態度・主張についての「国際政治学的知見」は、上記D-4からD-6まで、「ワシントンの本当の権力者たち(例えば、上院軍事委員会の面々)の認識」についての、氏による推察、という形で与えられています。

 この氏の推察によれば、要するに、「米国USA」にとっては、日本が集団自衛権・米国防衛義務を持つのは、改めて考えたり、議論するまでもなく、「当然」「当たり前」である、とされています。

 氏がこのような推察を行なうのであれば、結論E-2の④において、「④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います」というのは、理路整然とした、まことに単純明快で納得のいく論理的帰結とも言えます。

 何故なら、日本JAPANには、「同盟維持以外の選択肢はない」(E-2の②)のですから、相手国が「当然」「当たり前」というような条件は、すべて受け入れる以外ないということになるからです。

 ところが、三浦氏の「国際政治学理論」は、そんな単純明快、「低級な」ものではありません。

 では、どんなものと形容できるか?と聞かれると困るのですが--正直言って、「低級」ではないからと言って「高級」とも言えず、私には「得体の知れない」「鵺的」とでもいう他ない・・・--、ともかくこれを、「三浦<当然>理論」と名付けて、具体的にそれを見ていきましょう。

 まず、この「三浦<当然>理論」はどこにあるのでしょうか?

 不思議なことに、これもまた、はっきりと存在するのに、なるべく見えないようになっているのです。

 「三浦<当然>理論」とは、一番わかりやすい形では、結論部E-2の③にある次の「理論」です。

「三浦<当然>理論」(定式化E

 現代の民主主義国間の同盟は、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している

  この「理論」は、かなりわかりにくい形でですが、実は、Dの最初(D-1の②③)に、次のように出てきます。

「三浦<当然>理論」(定式化D)

 ②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 定式化Eと定式化Dは、同じものを定式化しているのですが、後者の定式化は、理論の提示としては、非常にまずいもので、読者を混乱させます。そこで、さしあたって、③の部分を次のように修正したものを、「定式化D'」とします。

 「定式化D'」は、②の部分の「理論」としての一般性を、③'の部分でも明示的に保持するように修正したものです。  

「三浦<当然>理論」(定式化D')

 ②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③'つまり、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。{③つまり、日米同盟にこの「理論」を適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。}

 このような修正を施しても、なお、③'の「つまり」には、定式化としては、好ましくない曖昧性が残っています。この問題は、後で議論します。しかし、さしあたって定式化Eと定式化D'は、同じものを定式化したもの(従って、同じもの)と理解してください。 

 そして確認しておきたいのは、この「三浦<当然>理論」は、単なる客観的な事実・現象、その性質のまとめに止まるものではなく、三浦氏自身がそれを国際的な標準として、これまた「当然」のもの、積極的に従うべきものとしていることです。

 このことは、E-2の③④をじっくり読むと確認できます。

 さて、本来、原文D-1の部分は、三浦氏自身の主張をまとめる形で、最初に提示した重要な箇所なので、明快なものであるべきです。

 ところが、この部分の文の流れは不自然で、内容は不明確で、そこでは、判断・選択の主体としての「日本JAPAN」「米国USA」および「三浦氏MIURA」が消失・隠蔽されていました(あるいは不在でした)。

 前回は、主体としての「日本JAPAN」を明示的に加える修正(以下のD-1')を提示、これによって文意がかなり明確化されることを示しました。 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提ですので、つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 これで改善されたとはいえ、未だ、流れの不自然さはかなり残っていますね。

 今回は、さらに、主体としての「三浦氏MIURA」による「三浦<当然>理論」(定式化D')を明示的に加える修正を行なってみましょう。 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、「私氏MIURA」によって「三浦<当然>理論」としてまとめられた国際標準に従わなければなりません。この国際標準とは、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提であるということです。③'この国際標準では、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。つまりので、「三浦<当然>理論」の国際標準を日米同盟に適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 私としては、隠蔽された主体を明確にしながら、氏の原文の論理を忠実に再現したつもりです。

 どうでしょうか?

 どこかに、私による氏の真意をねじ曲げたところがありますか?

 明確さを求めたためのくどい感じがあると思いますが、論理的には氏に忠実でありながら、原文と打って変わって、非常に明快、その意味で文の流れも非常に良くなったのではないでしょうか?

 何故、三浦氏がこのような明確な書き方をしないのか、ということの議論は後で行なうこととして、まずは、氏の議論の論理構造を批判的に分析する作業を続けていくことにします。

 ここで不思議なのは、三浦氏自身の主張をまとめる形で、提示されたD-1の部分には、主体としての米国、つまり「米国USA」が現れてこないことです。

 この氏によるブローグ記事の核にあるのは、集団自衛権論議に関わっての日米同盟のあり方というテーマのはずです。ところが、D-1にせよ、E-2にせよ、「日本JAPAN」が「他に選択肢がない」という理由によって「同盟維持」を決めた後は、「三浦<当然>理論」という一般理論が「主体的な役割」を果たします。

 この「理論」を日米同盟に適用すれば、「自動的」に日本の集団自衛権・米国防衛義務が導かれるのです。つまり、この限りでは、固有の主体としての「米国USA」は固有の意味を持っているのではなく、一般的な理論の適用可能な範囲にあるところの一例にすぎないものです。

  「何だ、三浦氏の議論を『対米従属』とか決めつけたのに、氏の議論には、主体として『米国USA』は現れず、あるいはせいぜい、一例扱いなのか。お前の分析、おかしいんじゃないか」と言われるかもしれません。

 いや、そうではありません。まさにこれが、氏の対米従属「学者」としての真骨頂なのです。

 「米国USA」の主張を、ただ繰り返すような代弁者、スポークスマンは、日本の中にすでにいっぱいいますので、そのような代弁者・スポークスマンに止まるような人は、米国から見ての利用可能人物としては「低級」扱いを受けても仕方がないでしょう。

 それに対して、日本の高名な大学の日本人研究者が、「主体的」に、客観的・学問的真実、研究成果として、米国の主張を「当たり前」のこと、積極的に従うべき国際標準に沿うものとして、「支持」してくれるならば、米国にとってこれ以上の存在はないでしょう。

 三浦氏の「三浦<当然>理論」は、米国の主張を、「学問的」に正当化(justification)し、合理化(rationalization)する役割を、「主体的」に果たしています。

 先に、「米国USA」の態度・主張についての三浦氏の「国際政治学的知見」が、上記D-4からD-6までに書かれていることを述べました。

 「三浦<当然>理論」は、明らかに、そこで書かれている「米国USA」の態度・主張を、正当化・合理化する役割を果たすものです。

 ところがまた、ここでまた不思議で、わかりにくいことにぶつかります。

 原文をすなおに読んでいくと、「米国USA」の態度・主張に関わる記述は、「三浦<当然>理論」を支える役割を果たしている印象を受けることです。

 つまり、「三浦<当然>理論」が「米国USA」の態度・主張の主張を支える(正当化・合理化)するのではなく、その逆となっている印象を受けることです。

 これはどういうことなのでしょうか?

 そもそも、「三浦<当然>理論」は「正しい」のでしょうか?どのような根拠を持っているのでしょうか?

 **************

 次回に続きます。

 冒頭で、「氏の度し難い『権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属』を明らかにしたいと思います」と書きましたが、それは次回のことになります。 

 また間があいてしまいましたが、こまめに更新するように努力します。

 

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判VI--(続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 前回の続きです。

 

 今回は、三浦氏が「暴論」だと自認する主張・論理は、氏自身の心情・信条であり、それは多くの国際政治学者達の心情・信条(イデオロギー)を反映したものだ、ということを氏のブローグに沿って明らかにしていきます。

 私は氏の議論を、前回は三段論法として整理して、その最初の大命題(下記)が成立していないことを指摘しました。

   

<大命題>
すべての民主主義国間の同盟では、その一つの国が攻撃されれば、他の同盟国も、集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である。

 

 「同盟」を規定し、具体化した日米安全保障条約北大西洋(NATO)条約を並べて、この大命題が、「暴論」であることを確認しました。

 しかし、読者はこれで三浦氏の議論の無茶苦茶さがわかったとしても、氏自身は「暴論」であることを自認して議論しているのですから、「暴論」性の確認だけでは、氏の議論に対する批判として、未だ致命打レベルに達していない、と言わなければなりません。

 つまり、前回私が行なったようなタイプの批判は、三浦氏流の国際政治学による「洗礼」を受けていない者にとっては、普通の、自然でかつ十分な批判です。しかし、三浦氏に言わせれば、自ら「暴論」と呼んだのは言葉の綾のようなものであって、むしろ、氏の主張の主要部分に関する自信を示すものと言うべきでしょう。

 では、そうした氏の自信はどこから来ているのでしょうか?

 それは、氏の「国際政治学的知見」から来ています。

 ですから、氏の議論を根本から批判するためには、氏の「国際政治学的知見」に焦点を当て、その正体を暴き出すという形で、批判がなされる必要があります。

 そのため、今回は、氏の「国際政治学的知見」の論理それ自体に内在する形で、氏の主張を「徹底的に理解すること」に努めることにします。そして、それによって氏の議論の本丸であるところの国際政治学的議論そのものを、根本から批判することにします。

 結論を先に述べておきますと、そうすることによって、氏の「国際政治学的的知見」の正体としての「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」が明らかになってくるでしょう。

 以下で、氏の「国際政治学的知見」の論理に則した内在的理解(分析)の作業を行ないます。

 前回引用した三浦氏のブローグのDとEを、次のように番号を付けて、もう一度以下に掲げます。

 

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

 

 今回は、三浦氏自身の論の運び方に則しながら、厳密に議論を進めます。

氏の議論の本質は、

   α.権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

   β.憲法等の規範的なものへの蔑視

   γ.意志・責任を持った主体の消失

によって、特徴づけられます。

 αからβやγが出てくるの理の当然でしょう。

 また、氏の議論の方法における「小細工」的なテクニークとしては、

   i)「後出しジャンケン」的手法

   ii)曖昧表現

   iii)「逃げ道」用意

が、特徴的です。
 以下の議論で、これらの特徴が重なり合うようにして、浮き彫りになるはずです。

 まず、Dを見ましょう。

 D-1に、氏の、議論の枠組み、主張が集約されています。

 私はこれを何回読んでも、流れが悪く、スッキリとせず、奇妙な不快感が残ります。それは、内容に賛成できないからというのではなく、論理的に無理な文章表現、無理な文の接続構造になっていることから来ています。そして、こうした不快感の理由も、じっくりと分析しないとわからない、というところが、氏の文章が氏の文章たる所以です。

 私は「じっくりと分析しないとわからない」と言いましたが、一度ポイントを理解してしまえば、氏の「論理的に無理な文章表現、無理な文の接続構造」がどこにあるか、氏がそれを通じて何を意図しているのか--何を主張・印象操作・隠蔽しようとしているか--を、比較的容易に知ることができます。

 そのポイントとは、すでに上記で挙げた3つの内容的な特徴と3つのレトリック的な特徴のことです。

 しかし6つもポイントがあると手が付けられませんので、手始めの取っかかりとなる重要ポイントは、「 γ.意志・責任を持った主体の消失」の問題です。(なお γは、ギリシャ文字でガンマと読みます。私もこういう活字体は初めてだったもので、念のため。)

 「どこに、主体があるのだろうか?」というふうに問題を立てるのです。

 D-1は、同盟(の維持)といった問題を扱っています。そこでは、そうした同盟の締結・維持を選択・決定する主体がいうまでもなく重要です。

 そして、ここでは日米同盟に焦点が当てられているわけですから、「日本JAPAN」と「米国USA」が出てこなければなりません。この、「日本JAPAN」「米国USA」といった表現は、それらが責任を持って判断・選択する主体であることを強調したものです。

 またもう一つ忘れてはいけない主体があります。それは、「著者AUTHOR」ですが、ここでは、「三浦氏MIURA」となります。研究者の叙述は、専門的知見に基づいてなされますが、そこでは、様々なレベルでの著者による選択的判断が行なわれています。重要な点については、著者の選択的判断が行なわれていることが明確になるような書き方が要請されます。

 では、D-1の中に、これらの主体が出てくるのでしょうか?まずは、「日本」に注目しましょう。

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。 

  ③の「日本」の箇所に、私がJAPANと加えたところだけが、主体としての日本です。

 しかしこの箇所は、同盟締結者としての「義務」を果たす主体として現れるのですから、その前に、同盟の締結・維持の主体としての日本が現れなければならないはずですが、それは見当たりません。

 ①の「日本」は、一見するとそうした主体のように見えますが、この箇所は、「日本」についての過去(今を含めこれまで)の事実を述べているにすぎないのです。

 私は、D-1を何度読んでもスッキリしないと言いましたが、では、これを次のように書き換えたらどうでしょうか。 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提ですので、つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 今度は流れがかなり良くなっているように思います。

  ①に対して赤字部分を付加すると、何故、D-1全体の流れが改善され、文意が明確となるのでしょうか?

 まず原文が、何故スッキリとしていなかったのか考えてみましょう。それは、黒字部分は、単に事実を述べているのであって、今後の選択(同盟を維持するか、しないか)というテーマについては、何も述べていなかったのに、②③では、それがテーマとなって話が進んでいるからです。

 ですから、赤字部分の付加によって、日本JAPANの選択についての仮定を明示化することは、論理的に重要、不可欠であり、これがあることによって、②③の内容がスムーズに理解できるようになるのです。

 したがって、仮に今、D-1全体の論理構成を保ちながら、①の文章を短くしなければならない、という要請があったとしても、その時省略されるべきは、黒字部分であって、赤字部分ではないのです。

 ところが、三浦氏は、黒字部分だけを提示しています。

 それは、何故でしょうか?

 まず、赤字部分が採用されない理由を考えてみましょう。 

 私は、ここで、主体を表す単語に英大文字を付加的に後置することによって、主体の存在の強調を試みましたが、三浦氏は、全く逆です。

 判断し、選択する主体が登場せざるを得ない時も、なるべく読者がその主体性の契機に気づかないように「隠す」工夫がなされるのです。

 ①の場合、赤字部分が明示的に記述されると、それが、日米同盟の維持を肯定するか否定するか、ここには主体的な選択の問題がある、ということを読者に意識される契機となってしまうので、それを避けようとしているのです。

 次に、黒字部分が採用された理由を考えてみましょう。上で述べたように、主体的選択の問題を隠すとしても、何も書かなければ、何が何だかわけのわからないものになります。何か、うまいやり方、レトリックを見つけなければなりません。そこで、この黒字部分の表現が採用されるのです。

 「日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟です」とだけ書いておけば、「根幹」を揺るがすようなことはあってはならないわけですから、読者心理を「自然と」--つまり、誰が主体として日米同盟の維持の選択をしているのかといったことを意識することないまま--同盟の維持という前提での議論に誘導することができます。

 今「誘導することができます」と書きましたが、でもやっぱり無理ですね。少なくとも私は、原文を何回読んでも、①から②③へと「自然な」つながりを持ってスッキリとした気分で進んでいくことは無理です。

 実は、ほとんど原文と同じで--つまり、基本、黒字部分のみの構成で--、①②③の流れをかなりスムーズなものに改善する修正方法があります。

 それは、次のようにすることです。

①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、 

 これは、まさに、三浦氏が本当は書きたかったことですが、だからこそ、また書けなかったことです。

 上記のように、たった一字を加えただけ(「今」を「今後」に換えただけ)で、もう一度D-1を読み直すと、ずいぶん流れが良くなっていますね。

 それは、「日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟です」は、単なる事実の記述ではなく、主体による選択を表すものであることが明確だからです。そうすれば、そこに「日米同盟を維持するためには」ということが、「自然と」含意されることになり、②③がスムーズに続いていくことになります。

 ところが、そのように「日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟です」と書いてしまうと、読者は、これが主体による未来へ向かっての選択であることを意識します。そして、これがまずは日本政府の政策的判断を表していることを意識するでしょうし、それに止まらず、さらに、これはあるいは、三浦氏の見解が書かれているのか、と三浦氏としては望まない意識を誘発する結果を招くことになります。

 そこで、無理があっても、原文のような書き方となるわけです。

 実を言うと、三浦氏自身の選択は、一番最後の氏の結論部分であるE-2に書いてあります。下記に、三浦氏の主体としての判断の存在を強調した、私による付加を与えて、再度引用します。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②私三浦MIURAには、現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④私三浦MIURAは、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 氏のこのブローグ記事(2014年06月15日)は、「最近、『で、三浦さんはどうなのよ』的なプレッシャーをいただくようになりました」といった調子で始まり、私が引用してこなかった部分(「安全保障の領域」の後半部、「憲法解釈と立憲主義の領域」「感情的化学反応の領域」)を含めるとかなりの長文です。

  最後の最後にやっと、3行(上記②)ほどで、ここでの核となっていたテーマである同盟の維持についての自身の選択--日米同盟維持--を、「他に選択肢がない」という形で、表明しています。

 そして、「他に選択肢がない」ことと、「相互の集団的自衛権行使」が「当たり前」に想定されている(上記③)ということから、半ば「自動的に」、三浦氏の結論「集団的自衛権の行使は当然可能」(上記④)が出されているのです。

 そして、この氏の意見を表明しているはずのこの最後の部分すら、私が書き加えた「私三浦MIURA」部分でなくて元のままであったなら、氏による主体としての判断であることが意識されにくいような表現が「工夫」されています。

 また、少し細かいですが、このE-2についても、私はそれを読んだ時、全体の流れに違和感を持ちました。

 それはどこの部分の何のせいだろうか最初はわからなかったのですが、以上のような分析をしてみて、原因がわかりました。

 それは、④の「当然可能と考えるべき」のところの「当然」と「べき」です。

 ④を次のように書き換えたらどうでしょうか。

私三浦MIURAは、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべき他ないと思います。

 私は、すごく流れが自然になると感じます。

 何故なら、②では「選択肢がない」という、いわば消極的な理由が述べられていました。これが話の出発点である以上、全体の流れは、「これしかない」「しかたがない」という論調でなければならないからです。

 ところが、三浦氏は「当然可能と考えるべき」、と 何故か威勢がいいですね。

 一度、「選択肢がない」ということで読者を納得させたら、今度は「しかたがない」ので「いやいやなんだけど、そう考えることにする」というのではなく、「自覚を持って、当然の義務として、そう考えるべき」と言うわけです。

 上から目線なのか、自発的服従なのか、いずれにせよ、権力者にとって何と都合の良い議論をしてくれる「学者」なのでしょうか。

 けだし、D-1において、「日本JAPAN」がただ義務を遂行する主体としてのみ現れたのは、偶然ではないのです。

 ここで、「冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず」(上記①)というような言い訳めいたフレーズが置かれています。これは、日本JAPANとしても、あるいは三浦氏MIURAとしても、冷戦期であれば主体性を発揮できた、というのでしょうか?

 私は、このフレーズを含め、今まで分析してきた氏の工夫、レトリック全体に、いかにも三浦氏らしいもの(最初に述べた、i)「後出しジャンケン」的手法、ii)曖昧表現、iii)「逃げ道」用意)を感じますが、皆さんはいかがですか。

 こうした主体性の欠如は、「α.権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」から来ていますし、また、それを維持・強化する役割を果たします。

 このことをより十分に議論するには、主体としての米国USAの問題が三浦氏の議論の中でどのように扱われているかを検討する必要があります。

 次回はそれを扱います。

 

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 ずっと間があいてしまいました。今後、少し短めで切れ切れになっても、あまり間をあけずに、続編をアップするようにします。

 

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 ところで、ツウィッターで、このような面白いのがありました。私には、同じことのように思えます。

 

  八幡愛‏ @aiainstein  10月24日

もしも三浦瑠麗氏がお天気お姉さんだったら、、、をシミュレーションしてみた。超絶イラついた

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「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判V--権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 私は8月13日のブローグで、今後2つの軸、①日本国憲法の現代的意義、②社会科学方法論としての歴史の構造的理解、に拠って、このブローグを続けていくことを表明しました。

 今日の政治情勢を見ていますと、ますます、このような思想の根本に関わる問題について、自らの足場をしっかりしたものにすることの重要性を痛感します。

 私は、三浦氏に対し恨みがあるわけではありませんが、こうした立場から、氏の議論への批判を続けます。

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 前回は、何故「三浦氏のような議論の仕方が出てくるのか」「マスコミにしばしば登場するのか」という問題を、「安倍ファシズム政権の支持勢力とその背景にあるイデオロギーや知の状況という角度から議論」する等と言ったので、もうちょっと細かい議論を期待されたかもしれません。

 しかし、前回のような大筋を明確にした単純な把握も、今日のように情報があふれて方向性を見失いやすい中では、十分意味があると思います。

 国際政治学のアカデミックな論文を読みますと、他の分野と同様に、その分野の研究者にしかわからない「難しい」こと、「難しい」概念が出てきます。

 またその背後にある哲学についても、他の分野と同様に、その専門家--「国際政治学の哲学」の専門家--が「難しい」議論をしています。

 しかし、個々の研究者がどのような「専門的」な基盤をどのような深さで有しているかは別として、それぞれの研究視角の設定には、それぞれの世界観・国家観が規定的な役割を果たしています。

 私が前回明らかにしたかったのは、そうした世界観・国家観として、「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」があり、それが今日の経済状況の中で強化されつつある形で、ファシズム勢力を支持・「協力」するものとなっているということです。

 三浦氏の場合、インタビュー、メディアでの発言、ブローグ等におけるその軽い語り口の中に、アカデミックな論文では掴みにくい、多くの国際政治学達の中にある、

  「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」の世界観・国家観

が、わかりやすい形で正直に現れています。

 氏の3年前のブローグ記事(2014年06月15日)に注目しましょう。

 このブローグ記事は、安倍政権の集団的自衛権に関する閣議決定(7月1日)の2週間ほど前のものです。ですから、これから行なう氏のブローグの検討によって、氏のような議論が、いかに安倍ファシズム政権の政策を支えるものになって働いたのか、現在も働いているのか、が端的に示されることとなるでしょう。

 私は、氏の議論が「わかりやすく」「正直」なものであると書きましたが、そのことが理解できるためには、一般の読者にはある程度の注釈が必要でしょう。

 つまり、氏の自分勝手な論の進め方--最初にテーマとされたことからいつの間にか逸れていってなされる問題設定や論理整合性のない言葉づかい--に、真面目な読者ほど、ついていくことができないのではないかと思います。

 しかし、そうした論の進め方と氏の言いたいことの両方ともが、氏の世界観・国家観である「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」から来ているということ--そして、その「権力・軍事力崇拝」が、氏の国家とか安全保障の議論における規範的なものに対する蔑視的態度と一体化しているということ--を一度了解してしまえば、氏の議論はとてもわかりやすく、正直なものであることに気づくでしょう。

 具体的に、氏の議論を見ていきます。

 少し長いですし、ちょっと読んだところでは、わかりにくいかもしれませんが、まずは次の氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用を読んでください。

 

集団的自衛権論争の本質

A.

 集団的自衛権をめぐる論争がどんどん盛り上がってきています。本稿でも他のテーマを論じる中でこの論点にも触れてきたつもりですが、最近、「で、三浦さんはどうなのよ」的なプレッシャーをいただくようになりました。泥仕合の感が高まっている論戦を眺めつつ、参戦する前から辟易しているというのが正直なところなのですが、筆をもって生きる者の端くれとして、遅まきながらではありますが、このテーマについて何が本質と考えるかについてまとめたいと思います。論壇に最も足りないのは、コンパッション(=共感)であると申し上げて筆をとる立場からすると、イデオロギー的な踏絵を突きつけられることにいやーな気分がするのですが、思い切って踏絵を踏まないといけない場合もあるのでしょう。
 さて、集団的自衛権論争が今日の泥仕合となってしまっている背景は、課題意識の異なる(ように見える)人々がそれぞれの立場から論陣を張っており、議論がかみ合っていないからです。そもそも、議論はかみ合っている方が建設的な結果につながるというのが私の考えですが、そのような考えは少数派なのかもしれません。議論をかみ合わせることが役割のはずの人々も、意図してか、意図せざる結果としてかはわかりませんが、泥仕合を盛り上げています。集団的自衛権をめぐる論争の本質を理解するには、大きく三つの領域で物事が進行しているという状況認識を持つことだと思っています。一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です。本テーマについては、日本の論者はもちろんのこと、世界中で日本に関心のある論者が多くの論考を提示しているので、それぞれの領域の中ではいい議論もされています。少しずつご紹介もしながら私の考え方も開陳させて頂きます。

 

B.

 一点目の安全保障の領域から、よく整理された議論を展開しているものとして、田中均氏のダイヤモンド・オンラインの下記の記事があると思います。

 

まず集団的自衛権の行使容認ありきではあるまい。安全保障体制の強化のためになすべきことは?|田中均の「世界を見る眼」|ダイヤモンド・オンライン

 

C.

 田中氏の主張に窺えるように、安全保障政策として今の日本はどのような道をとるのかという議論が本丸であり、集団的自衛権行使容認をめぐる国内的議論は的を射ていないと言う認識には私も賛成です。ですが、安全保障観や時代認識については、プロ中のプロの見方をされる田中氏とは異なる見方をしております。

 これまでも申し上げてきたとおり、外交・安全保障の世界における現代という時代の特性は、安全保障や外交におけるプロの影響力が低下してきているということです。それは、米国では、政策の主導権が各地域の専門家からなる「帝国官僚」主導のものから、普通の民主主義国のそれへと変化していく過程であり、中国共産党ポピュリズム愛国主義を頼りに統治を正当化せざるを得ない状況であり、日本でも、霞ヶ関のエリートや自民党のボス達の影響力が低下するという形で進行しています。

 

D.

 日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。

 ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。

 しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。

 これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。

 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

 上記は、氏の言う第1の領域の前半部分までを、省略なくコピーしたものです。 

  氏の議論を論理的に検討するために分割し、それら各部分にA,B,C,Dを付しました。原文ではそのような分割はなく、段落替えがあるだけでつながっています。

 Aは、イントロです。

 続いて、B,C,Dを普通に読んでいって疑問に思うのは、B,C,Dの3つの論理的連関は何だろうか?ということでしょう。

 しかしその疑問の解答を探す前に、三浦氏自身の主張は何なのか、ということを確認しておきましょう。そうしておくと、その疑問の解決も容易となるからです。

 三浦氏自身の主張がDにあることは明らかですが、再確認のために、氏のブローグの最後の部分を見ておきましょう。

 それは次のようになっています。

 

E.

 さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

 冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F.

 その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

  つまり、三浦氏自身の結論的な主張は、DとEでほぼ重なっています。

  Dの表現を用いて、端的に結論を述べれば、

結論(D表現):

米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

  Eの表現を用いれば、

結論(E表現):

(日本による)集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

となります。

 氏のそうした結論はどのような論拠に基づくのでしょうか?

 実は、氏の論は、次のような三段論法の組み合わせに拠っています。

 

<大命題>

すべての民主主義国間の同盟では、その一つの国が攻撃されれば、他の同盟国も、集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である。 

<小命題>

日米同盟は、民主主義国間の同盟である。  

  従って、

<結論>

米国が攻撃されれば、日本も集団自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である。

 

というわけです。

 しかし、大雑把にいって<小命題>は認めたとしても、<大命題>の方は認めるわけにはいきません。

 そもそも、この<大命題>がそのまま認められるならば、それに<小命題>を加えると、この<結論>が出てくるのは論理学的に当然なのですから、議論する必要など最初から全然ありません。

 また、そもそも「日米同盟」の基礎とされている日米安全保障条約には、「同盟」という言葉自体が出てきません。

 ですから、三浦氏のように「同盟」という概念を用い、それを日本にも適用しようとするならば、どのようなタイプの「同盟」か、それが日本の場合にも適用可能なものなのか、を明確にした上で用いなければ無意味です。

 例えば、北大西洋NATO)条約のような「同盟」と日米安全保障条約のような「同盟」では、集団自衛権については全く異なるもの性格の規定がなされています。

 北大西洋NATO)条約では、その前文において、 

締約国は、集団的防衛・・・の維持のためにその努⼒を結集する決意を有する。 

と述べ、第三条では、 

締約国は、武⼒攻撃に抵抗する個別的の及び集団的の能⼒を維持し発展させる。 

第五条では、 

締約国は、ヨーロッパ⼜は北アメリカにおける⼀⼜は⼆以上の締約国に対する武⼒攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。

したがつて、締約国は、そのような武⼒攻撃が⾏われたときは、・・・北⼤⻄洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める⾏動(兵⼒の使⽤を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。

 と述べています。これは、北大西洋NATO)条約が、相互に集団自衛権に基づく相互防衛義務を持つことを規定しています。

 ですから、北大西洋NATO)条約は、集団自衛権に基づく相互防衛義務を持つタイプの「同盟」ということができるでしょう。

 次に日米安全保障条約を見ましょう。当然のことながら、日米安全保障条約は、北大西洋NATO)条約を参照して作成されたと推定でき、その構成は似たものです。従ってまた、前者が後者と異なる時は、意識的に異なったものとして表現・規定が行なわれているとみて間違いないでしょう。

 日米安全保障条約の前文では、

両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、

とあります。

 ここで、「又は」であって「及び」でないのは、もちろん「両国」の内、日本には個別的自衛権しかない、という双方の政府の判断、大前提があった結果です。

 第三条では、

締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。

  ここで「憲法上の規定に従うことを条件として」とあるのは、日本国憲法平和憲法が特別に念頭にあることは、北大西洋(NATO)条約にはそのような表現がないことから明らかです。

 また、第五条では、

各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 と規定しています。

 これも、北大西洋NATO)条約と大きく異なります。北大西洋NATO)条約では、締結国の一つへの攻撃がそのまま締結国すべてへの攻撃と見做され、それに対処する旨の規定がありましたが、日米安全保障条約では、日本又は在日米軍に対する攻撃が日米双方に対する攻撃と見做され、それに対処する旨の規定となっています。

 また、ここでも「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」ということが再度規定されています。

 この日本国憲法平和憲法への考慮は、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」といった表現の中にも見られます。つまり、私はわかりやすさのために、大雑把に「日本又は在日米軍に対する攻撃」と書きましたが、安全保障条約にある「日本国の施政の下にある領域における」という限定的表現は、両国政府が日本国憲法の制限を意識して、より限定的(専守防衛的)に対処行動の発動範囲を示したものということができるでしょう。

  要するに、三浦氏が前提としている<大命題>「すべての民主主義国間の同盟では、その一つの国が攻撃されれば、他の同盟国も、集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である」は、成立する余地が全くありません。日本が明確にそうではないからです。 

 日本にはあてはめることのできない<大命題>を勝手に成立するものとして、それを日本にあてはめて、<結論>を導く(論拠立てる)という目茶苦茶をやっているわけですが、三浦氏自身は続いて次のように書いています。

もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。 

  つまり本人もこれが目茶苦茶、「暴論」であるということはわかっている、というのです。

 こういう議論の仕方を見ると、学会発表でも時々似たようなのがあるな、と思い出します。発表内容に致命的欠陥がある時に、もっともらしく議論した上で、他人にその欠陥を指摘される前に、「この議論はこういう欠陥を持っているが」と自分で言及しておくのです--こうすると何故か、この致命的欠陥がなくなるか薄まるような印象を与えることができます。

 もちろん、自分で言おうと他人に言われようとそれが致命的欠陥を持っていることには変わりなく、そんなものはアウトであって、学会発表してはいけないのです。

 三浦氏の自ら「暴論」という論法は上記のそれですが、ところが、もっと小細工がしてあって、「暴論」と名乗りつつ、「暴論」でないかの印象を与える工夫がところどころに見られます。

 氏は「日米安保条約のどこにも書いていません」という表現を用いていますが、どうでしょうか。私が上記の北大西洋NATO)条約と日米安全保障条約の条文検討で示したことは、実質的に考えるならば、「書いていません」と言うよりも、「日米安全保障条約は、日本の集団自衛権を積極的に否定している、その不在を前提に締結されている」と言うべきということです。「書いていません」ということによって、「暴論」性が薄まってしまいます。

  氏はまた、「戦後の『防衛と基地との交換』という伝統」というような表現を用いています。しかしこれもまた、日米安全保障条約上の明文規定があることを隠蔽して、それがあたかも単なる「伝統」、習慣のような印象を与えるものです。

 「暴論」と言いつつ、「暴論」を擁護するというのは、よくいえば「高踏戦術」、すぐれた「レトリック」ですが、私から見ると、あまりに読者をばかにした小細工としかいいようがありません。

 しかし実は、「暴論」を「当然」「当たり前」といった形で言い張るのは、単に度胸とか小細工とかだけでできることではありません。

 三浦氏は「暴論」と言いつつも実はそうは思っていず、根本において、それを本当に「当然」「当たり前」と信じているのです。

 そしてそれは、それが氏の個人的心情・信条であるというよりも、少なからぬ国際政治学者達の心情・信条(イデオロギー)を反映したものです。

 このことを、明らかにしたいと思いますが、長くなったので次回に続けます。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判IV--ファシズム支持勢力とそのイデオロギー

 前回のブローグを書いた時は、私の側から「戦前回帰」の本質を積極的に提起する形で議論を進めようと考えていましたが、そうすると、議論が長くなり、三浦氏の議論に対する批判からも外れすぎてしまう、と考え直しました。

 今回は、何故、三浦氏のような議論、議論の仕方が出てくるのか、そしてそうしたものがマスコミにしばしば登場するのかという問題を、安倍ファシズム政権の支持勢力とその背景にあるイデオロギーや知の状況という角度から議論しようと思います。

 私は、柄谷行人に倣って、ファシズムを「復古的なナショナリズム」であると定義します。

 しかし、安倍ファシズム政権を支えているのは、復古的なナショナリズムそのままのイデオロギーを持っている人々だけではありません。

 この政権への重要な協力者として、上級の外務省官僚達がいます。

 また、彼らをとりまく知的・精神的な世界には、国際政治学者と呼ばれる人々が存在しています。

  三浦氏の東京新聞2017/08/12)での主張の基本をもう一度確認しますと、「大日本帝国」は、敗戦に至る最後の2年間以外は、基本的に順調に発展し、「ある種の豊かな国家であった」というものでした。

 これは、氏の単なる戦前国家についての事実描写ではなく、「大日本帝国」に対する肯定的な価値的評価であることは明白です。

 しかも、見逃してはならないのは、それが現在に対する否定的評価と対になっていることです。

 現在の日本は「志」が低いとされ、「改憲の議論を見ても、国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人が育たなくなっていることが分かる。残念なことです」とされます。

 こうした戦前の肯定と戦後の否定という対比が、最後の締めでも用いられています。

 台湾の李登輝・元総統を見てください。困難な状況下で骨太の政治理念を養い、民主化を主導した名指導者ですが、彼を育てたのは戦間期第一次世界大戦と第二次大戦の間)の日本であり、戦後の日本ではないのです。

 戦前の「国際的成果」が何か誇らしげに--普通の読者なら知らなくて当然、だから反論できっこないでしょ、とでもいわんばかりの--「専門家」の口調で語られています。

 こうした発想には、ファシズムの精神状態(復古的気分)とかなり共有するものがあります。

 これら官僚や国際政治学者達の意識や行動を規定しているのは、1990年代以降の、競争の激化しつつある新自由主義的な国際社会において、日本の世界における相対的な「国力」が急速に低下している、という現実です。

 その根本には、世界経済における相対的な経済力の急速な低下があります。

 

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 上の図は、各国のGDPの前年に対する増加率を示すものです。

 1990年代に、世界経済が中国を含め、停滞、減速の局面に入ってきたことがわかりますが、日本の場合、他国と比較すると、そしてその毎年の累積的な効果を考慮すると、劇的ともいえる相対的な地位の低下が生じていることが確認できます。

 一人当たりGDPを見るとどうでしょうか。

 

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 国際順位に注目すると、上下の動きが大きいですが、基本的に1990年代は10位前後に止まっていましたが、2000年代以降は、急速に順位が下がり、近年は30位前後となっています。

 いわゆる「先進国」の一つの基準とみなされるOECD加盟国は、現在35か国です。

 大雑把にいって、日本は、この30年ほどの間に、OECD加盟国中の上位集団から下位集団の一員へと転落しつつあるといってよいでしょう。

 こうした中で、外務省官僚や国際政治学者達の「日本が先進国であり続けたい(他からそのようなものとして認めてほしい)」という願望が高まり、彼らが内外での日本評価に敏感な状態になっていることは容易に想像されることです。

 ここで思い出されるのは、Wikiにまで詳しく記されているそうした外務省官僚の気持ちが露わとなった、国連における2013年の次の事件です。

 

 拷問等禁⽌条約の履⾏状況を調査する機関である国連拷問禁⽌委員会は、スイスのジュネーヴで2013年(平成25年)5⽉21⽇から22⽇にかけて、⽇本に対する審査を⾏った22⽇に⾏われた審査の席上で、モーリシャスのドマー委員が

 「⽇本は⾃⽩に頼りすぎでは。中世の名残だ。⽇本の刑事⼿続を国際⽔準に合わせる必要がある」

 と発⾔した。⽇本政府の代表として出席していた上⽥はこの指摘に対し、ややギクシャクした英語で反論した。記録動画の⾳声によると上⽥の具体的な発⾔は次の通りである(以下、文法上の誤りがある場合もそのまま発言の通り記載する。和訳はAFP通信の記事によるもの)。

 

  ”Certainly Japan is not in the middle age. We are one of the most advanced country in this field.
  日本は決して中世時代などではない。この(刑事司法の)分野では、最も進んだ国の1つだ。”

 

この発言を受けて会場に苦笑する声が広がると、上田は再び英語

 

  ”Don't laugh! Why you are laughing? Shut up! Shut up!
笑うんじゃない!なんで笑うんだ?黙れ!黙れ!”

 

と叫び、会場は急に静まり返った。上田は更に以下のように続けた。

 

  ”We are one of the most advanced country in this field. That is our proud, of course....
この(司法の)分野で進んだ国の1つであることは、日本の誇りだ。” 

 

 ここで、「中世の名残だ」と指摘した委員が、モーリシャスという小国出身者であったことは、日本の上田委員のプライドを痛く傷つけたように思われます。

 では、日本が相対的に経済的に優位にあった時には、日本外交は余裕があり、自信があったのでしょうか。

 1991年は、日本のバブルが弾け始めた年、経済的には絶頂にあった年です。この年、日本外交(国際政策)の方向性決定の上で、重要な事件がありました。

 湾岸戦争です。クウェート侵略したイラクに対し、国連決議に基づき多国籍軍が結成されました。日本は軍事行動には参加せず、130億ドルという巨額を拠出し、そのほとんどを多国籍軍(米軍)に提供しました。

 この時に、日本が軍事行動に参加しなかったのは、極当然のことでした。憲法上ももちろんそれができるわけはありませんが、当時の国民の大多数がそのようなことに反対することは、明らかなことでした。

 また今日冷静に見ると、軍事的に圧倒的であった多国籍軍側が、実際に軍事行動を全面的に展開する必要があったのかは、非常に疑問です。*1

 1991年はソ連が崩壊した年でもありました。冷戦体制が消失した世界の中で、その後の世界の方向性を決める上でこの戦争がどのような意味を持ったか、それと世界的な新自由主義とどのような関連があるのか、という議論も必要です。

 しかし、今回は議論を急いで、湾岸戦争を切っ掛けとして、事実として日本の国際政策がどのようになって行ったか、に焦点を当てます。

 この時、日本は経済的には優位にあったのですが、冷戦後の新しい国際社会においてどのような方向を目指していくかについて、理念的準備がありませんでした。そのための十分な議論もありませんでした。

 結果的に湾岸戦争は、日本の国際政策における軍事的な要素を、高めていくための世論形成・政策実現・イデオロギー普及の契機となりました。それは、既成事実を積んでいくことによって、なしくずし的に進められました。

 このような国際政策における軍事的要素の高まりは、下図にあるように、今日に繋がる3つの流れによって支えられてきたと言ってよいでしょう。

 そして、この3つの流れを支えているのが、三浦氏等の日本の「軍事的政策を支える国際政治学」的視点です。 

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  3つの流れ、①「合理的」(対米従属)軍事協力徹底派(外務省系)、②軍事的国際協力推進派(小沢一郎的「 普通の国」 論支持者系)、③軍事的国威発揚派(右翼・極右団体系)について簡単に説明します。

 「①「合理的」(対米従属)軍事協力徹底派」は、日本の進路の選択肢は、対米従属しかなく、日米安保条約を米国の立場に立って、軍事協力として「合理的」に徹底強化しよう、と考える外務省の官僚層からなっています。

 「②軍事的国際協力推進派」は、国連における平和維持行動PKOや平和維持軍PKF活動に、日本も国際協力という観点から積極的に参加するべきである、と主張した小沢一郎やそれを支持する人々からなっています。外務省の中にも賛同者がいるでしょう。

 ②の立場は、①の立場と「理論」上は別のもの、別でなければならないもの、のように見えます。

 国際舞台における日本の進路として、①は、安全保障の面を強調しながら、軍事面においても完全な対米従属しか選択肢はない、と主張するのに対し、②は、安全保障における「別の選択肢」として、国連への国際協力を唱えるのです。

 しかし、現実にはそれらは両者とも、自衛隊の活動を海外にまで拡大するということであり、両者が密接に絡まって進んでいきました。

 ②の立場において、明確に①における「対米従属」を批判しない限り、②は①に対する「別の選択肢」ではなく、現実は基本的に、①の活動を「主」とし、②の活動は様々な形でそれを「補助」するものになってしまうことは、論理的必然でしょう。

 ③軍事的国威発揚派は、右翼・極右の人々からなります。上記の自衛隊海外派遣を歓迎しますが、その理由は、安全保障や国際協力にあるわけではありません。自衛隊が少しでも「軍隊」としての能力を「取り戻すこと」、その存在が直接国威を発揚するものとして示されることが、彼らの目的であり、動機となっています。

 また③の立場では、「対米従属」が「既定」となっています。「(虎の衣を借る)軍事的国威発揚派」ということもできます。しかし、この「既定」性は、理論的にはむしろ安定的なものではありません。私は、この矛盾点を隠す「軍事的国威発揚派」のイデオローグ達に、彼らの機会主義的な性格を感じます。

 ①②の人々は、政策の根拠付けに安全保障や国際協力を唱えるものの、そうした軍事的要素を高める政策を通じて日本の存在感を高めよう(国威発揚)とする発想がある点では、③の立場に共通するものがあります。

 先に述べたように1990年代以降に急速に経済的地位の後退がある中で、これらいずれの立場においても、国威の維持、誇示により敏感となり、それを軍事的な要素増大によって追求・実現しようとする動機が強まってきました。

 現在の安倍ファシズム政権は、その頂点にあります。

 三浦氏等の国際政治学者達の多くは、上で述べてきたような流れを批判するのではなく、基本的に支えてきたと言うことができます。

 その基本思想は、A.力に対する信仰、B.対米従属という現実の無視・隠蔽です。

 国際政治学という学問は、国際的な政治現象を対象としていますから、国際情勢がどうなった(例えば、中国が軍拡した、とか、北朝鮮核武装が進んだ、とか)ということに注目し、それを分析し、そこから政策的指針を導く形をとります。

 しかし、その把握、分析の基本思想が、A.力信仰、B.盲目的対米従属、である限り、それが描く国際社会像、指針は、いずれも歪んだものであり、いずれにせよ上記で述べた3つの好軍事的潮流を支えるものとなることは、理の当然と言うべきでしょう。

 三浦氏の様々な発言は、そうしたタイプの国際政治学の本質を、正直にわかりやすく示してくれるものです。

 次回、三浦氏のブローグから3年前の「集団自衛権」をめぐる記事を取り上げて、このことを確認する形で、この三浦氏の議論批判のシリーズを締めることにします。

 

 

 

 

*1:米国の元司法長官であったラムゼー・クラークは、湾岸戦争を不要なものであったとして強く批判しています。(『ラムゼー・クラークの湾岸戦争 -いま戦争はこうして作られる-』地湧社、1994年。)