hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

祝 「板門店会談・宣言」――非常識な日本のメディア・東京新聞社説批判1

 前回に続けて、日本のメディア批判を行ないます。この批判作業では、4月28日の東京新聞社説が主な対象となります。

 「板門店宣言」が4月27日発表されて以降、事態は急速に進展しており、米朝会談がシンガポールで6月12日に行なわれることが発表されています。

 私達は、これまでの動き、今後の動きをどのように理解したらいいのでしょうか?

 私は、「板門店会談・宣言」の意義をきちんと理解することが、この疑問に答える道だと思います。

 私は、前回、「本来、日本のメディアがなすべきことは、この「板門店宣言」を、第2次世界大戦後の世界史的な文脈に位置づけることによって、その現在的な意味を、より正確に深さを持ってとらえて(したがってそれが、日本の平和、東アジアの平和にとって持つ重要な意義をとえらて)報道することであり、そしてそれに対する歓迎の態度を明確に示すことです」と述べました。

 いや、「世界史的な文脈に位置づける」というような大仰なことを言わなくても、常識でわかることがあると思いますが、そのレベルにも達していません。

 数少ない、事実に基づくキチンとした常識的な議論の一つである田岡俊次氏(軍事ジャーナリスト)の論考北朝鮮「完全」非核化を求める強硬論が危険な理由」(Diamond Online、5月10日付け)は、その最初の節「戦争回避に動いた南北の指導者の外交手腕は評価されるべき」で次のように述べています。

 

・・・ 4月27日の板門店での南北首脳会談で和解に達したことに対し、日本の右派のメディア、論客たちは「韓国の文在寅大統領は北朝鮮に融和的だ。金正恩労働党委員長に操られている」と批判する。

 だが、もし米国が北朝鮮を攻撃し、朝鮮戦争が再発、核戦争になれば南北両方が存亡の危機に直面するところだったから双方の指導者が戦争を防ぐために必死に協力したのは当然だ。

 そのおかげで日本も少なくとも当面、戦火に巻き込まれることを避けられた。

 もちろん文在寅、金正恩両氏は共に自国の安全、存立のために努力したのであり、日本のために尽力したわけではないが、その2人の外交手腕は高く評価すべきだ。

 もしどちらかが強硬論一本槍の馬鹿だったら、日本も危ないところだった。

 

  氏の議論を否定できるでしょうか?私は、氏のいうとおりだと思います。

 氏がいうように、2人の外交手腕によって日本の危機も回避されたということを認めるなら――私はそれが常識的判断だと思います――2人による外交の成果としての「板門店会談・宣言」の成功・発表を、我が事として喜び、祝うのが極当然、自然のことでしょう。

 ところが、です。氏の議論は右派に対するものとしてなされていますが、これから見ていくように、「板門店会談・宣言」に批判的ないし冷淡なのは、右派だけに限定されません。

 日本のメディアは、驚くほど「板門店会談・宣言」に対して冷淡でした。この宣言が出された翌日の朝日新聞の社説では、

 

 文氏は今秋、平壌を訪問することが明記された。南北のトップ同士が意思疎通を深めることは望ましく、偶発事故の未然防止にもつながるだろう。

 一方で宣言の他の中身は、07年の前回に出た南北共同宣言から大きな進展はなかった。

 

と述べていますし、同じく毎日新聞の社説は、

 

 最大の課題だった北朝鮮の核・ミサイル問題よりも、南北の融和を優先させた印象は否めない。それでも、ようやく芽生えた非核化の流れを決して止めてはならない。 

 今回の会談は、6月までに行われる米朝首脳会談を前にした「橋渡し」との位置付けだった。金委員長には、北朝鮮の外交や軍の責任者が随行していた。核問題で思い切った決断がなされるとの期待感があった。

 しかし、発表された「板門店宣言」では「完全な非核化により、核のない朝鮮半島を実現するとの共通の目標を確認した」との表現にとどまった。会談後の共同発表で、金委員長は「我々の民族の新しい未来」などと南北関係改善を強調するだけで、核問題に触れなかった。

 

といった調子です。

 これから、詳しく見ていく、東京新聞の社説は一番まともといえるかもしれませんが、不思議なことに、明確に書かれるべきことが、暗黙的でわかりにくい形で書かれています。

 今求められているのは、しっかりした視点の提示、明確なメッセージの表明だというのに、です。

 まず、「社説」全文を下記にコピーしておきます。[A][B]・・・、 (dec1)・・・、(com1)・・・、等は、私がコメントするために付加したものです。

 

東京新聞【社説】

南北首脳会談 非核化宣言を行動へ

2018年4月28日

 

[A]

 十年半ぶりに開かれた南北首脳会談で、焦点となっていた核問題は、「完全な非核化」で双方が合意し、宣言文に盛り込まれた。次は実行に移す段階だ。

[B]

 昨年北朝鮮は、ミサイルの発射実験を十五回繰り返した。「水爆実験」と称する六回目の核実験まで強行した。

 米国との軍事衝突の危険性がささやかれ、不安が高まった。

◆想像できない接近

 ところが今年一月一日になって金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長が新年の辞を発表し、一転して韓国で開かれる平昌冬季五輪への協力を表明し、一気に動きだした。

 これほど南北の距離が縮まり、首脳会談、そして共同記者会見まで行われるとは、誰も想像できなかったに違いない。

 まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。

 韓国側で会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。

[C]

 その上で、首脳会談後に発表された「板門店宣言」を見ると、不十分な点もある。

 会談の最大の焦点だった「非核化」については、「完全な非核化を通じ、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した」という表現になった。

 韓国は、これまで正恩氏が間接的に表明してきた「核放棄」の意思について、「完全な非核化」という表現で、宣言文に盛り込むことを目指していた。

 そして、六月初旬までの開催で調整中の、米朝首脳会談につなげる考えだった。

 北朝鮮側は、韓国側を含めた「朝鮮半島の非核化」を主張しており、将来的な在韓米軍の縮小、撤退を念頭に置いているようだ。

 正恩氏は共同記者会見で、「過去に結ばれた南北の宣言についての徹底した履行」を求めた。

◆非核化で食い違い

 これは一九九一年十二月に韓国との間で合意、発表した「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」を指すとみられる。そうなら、北朝鮮は自国だけの非核化を、拒否しているとも受け取れる。

 核問題について北朝鮮は今月二十日、朝鮮労働党中央委員会総会を開き、核実験や、大陸間弾道ミサイルICBM)発射実験の中止と、北東部・豊渓里(プンゲリ)核実験場の廃棄を決定した。

 この決定には、核放棄をうかがわせる表現がなく、逆に「核保有国宣言であり、核は放棄しない」と受け取る見方もある。

 宣言は、南北の食い違いを残したまま意見を折衷した。それでも正恩氏の非核化への意思を、文書化できたことは価値がある。

[D]

 合意文を土台に、北朝鮮はできるだけ早く、核施設の公開、査察の受け入れといった具体的行動に進むべきだ。実行がなく理念ばかりなら、米朝首脳会談は不調に終わってしまう。

[E]

 (dec1)さらに発表文には、朝鮮戦争(一九五〇~五三年)について、区切りをつける「終戦宣言」が盛り込まれた。

 (com1)朝鮮戦争は休戦中であり、法的には戦争が継続している。

 (dec2)南北は「いかなる武力もお互いに使わない」とし、平和的な共存を宣言した。(com2)北朝鮮は体制の存続に安心感を抱き、核放棄へ踏みだしやすくなるだろう。

 (com3)朝鮮半島の緊張状態を根本的に解消するには、朝鮮戦争の正式な終結が欠かせない。

 (com4)今後、南北朝鮮、米中の関係国首脳が集まり、この宣言を再確認したうえで、休戦協定を平和協定へと早急に切り替えるべきだ。

 (dec3)この他、南北首脳会談の定例化に合意した。(com5)秋には文氏が、平壌ピョンヤン)を訪問するという。

 (com6)過去の南北首脳会談は、一時的な和解ムードの盛り上げには成功したが、韓国側の政権交代や、軍事的な摩擦によって、関係がたちまち冷却化した。

 (com7)その反省を生かしながら、今後も、密接な意思疎通を欠かさないでほしい。

[F]

 朝鮮戦争後に「国境」として設置されたのが「非武装地帯(DMZ)」だ。

 その中にある板門店(パンムンジョム)の軍事境界線を午前九時半、正恩氏が徒歩で越え、文氏と握手した。

 ◆壁がなくなる期待

 板門店は、朝鮮半島の希望と悲劇の縮図だった。鉄条網なしで南北が接触する場所として設けられ、多彩な交流が実現した。一方で、乱闘、銃撃、地雷の爆発が起き、多くの人命が失われている。

 二人はその後、高さ五センチ、幅五十センチのコンクリート製境界線をまたぎ、今度は北朝鮮側に立った。

 わずか十秒の出来事だったが、南北の壁が取り払われる予感を感じた人も多かったに違いない。世界は歴史の瞬間を目撃した。裏切らないでほしい。 

 

 ざっと読みくだして、どうでしょうか?私は何かスッキリしません。

 この東京新聞の「社説」は、随所で倒置法的な構成手法が用いられ、また、小見出しが置かれていますが、その前に、すでにその小見出しで扱われる事柄のイントロ的な書き出しがなされている等、非常に読みにくいものです。

 しかし、スッキリしない気分にさせるのは、そうした理由による読みにくさだけに起因するものではありません。

 スッキリしない気分にさせる要因はいくつかあると思います。第1の要因は、今起きている事態をとらえる視点、評価する基準を、<北朝鮮の非核化>ということのみに狭窄化させているからです。

 第2の要因は、日本あるいは新聞社としての主体的な姿勢、判断をできるかぎり避けようとする心理が働いていることです。

 これらの要因は、東京新聞社説以外にも共通するものです。

 そして東京新聞の場合、第3の要因として、先に述べた様に、明確に書かれるべき大切な部分が、常に暗黙的でわかりにくい形で書かれている――すでにわかっている人にだけわかるように書かれている――ことを挙げることができます。

 何故そんなことが起きているのでしょうか?東京新聞の場合、「板門店会談・宣言」の重要性の認識もあるけれど、他のメディアと同様、第1、第2の理由(視点、評価基準、心理)による制約が強く働いていることによって、「板門店会談・宣言」の重要性、その肯定的意義の認識を、すなおに表すことができなくなっているように思えます。

 まず、この東京新聞の「社説」が、韓国と北朝鮮の両首脳による「板門店会談・宣言」に対し、決して、明確な直接的な肯定的評価を与えようとしていないことを確認しましょう。

 [B]では、南北会談に至る経緯、両国首脳の会談開催に至る行動についての評価が述べられています。

 北朝鮮の核開発が進み、米国との軍事衝突の不安が高まったこと、南北首脳「板門店会談」によって、急な両国の接近があり、両国の対話が始まったこと、が述べられています。そして、「社説」は、「まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。」「韓国側で会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。」と述べており、両国首脳の「努力」と「決断」を肯定的に評価しています。

 これは、先に見た田岡氏の「2人の外交手腕を評価する」と同じことを述べている、といるように見えます。

 しかし、田岡氏の議論と東京新聞の「社説」とは、ずいぶん違った印象を受けます。どこが違うのでしょうか?

 田岡氏は、米朝の軍事的緊張の高まりが日本を巻き込み甚大な被害をもたらし得るものであることを明確に語り、文氏と正恩氏の会談(非軍事的・非強硬的な対話的アプローチ)によって、この危機が回避されたことを明確に語っています。また、2人の外交的手腕の評価を讃えることと、その2人の手腕による成果としての「会談・宣言」を肯定的に評価することを、すなおに、一つのこととして理解できる書き方がなされています。

 ところが、「社説」では、「衝突の危険」がもたらす「不安」について書いてありますが、誰のどのような不安なのか書いてありません。また、「社説」では、両国の「接近」が書かれており、「接近」の事実として、会談がなされ、共同会見までなされた、ことを述べていますが、それら「接近」が軍事的圧力や制裁による強硬的アプローチに対するものとしての対話的アプローチであること、そうした対話的アプローチが「衝突の危険」を回避するものであったこと、したがってまた「不安」を解消させるものであったことが明記されていません。

 また、「一転して」「一気に動き出した」とか「想像できない」接近といった表層的な表現の付加は、接近の本質(対話的アプローチ)、接近の効果(軍事的衝突の回避)といった大切なことから、注意を逸らせる役割を果たしています。

 このような流れの中で、[B]の最後に、

 

 まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。

・・・会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。

 

とありますが、これらの2つの文は、あくまで「文大統領の努力」を「高く称賛」したもの、正恩氏の「決断」を「評価」したものであって、それらの「努力」「決断」の成果としての「板門店会談・宣言」を「高く称賛」するものにならないように配置されています。

 ちなみに、私が言いたいこと、私が本来のメディアが行なうべき明確な視点・明確なメッセージの提示という点で望ましい文章を、「社説」を修正する形で示せば、以下の様になるでしょう。

 

[B]’

 昨年北朝鮮は、ミサイルの発射実験を十五回繰り返した。「水爆実験」と称する六回目の核実験まで強行した。

 米国との軍事衝突の危険性がささやかれ、韓国、日本においてはもちろんのこと、国際的不安が高まった。

想像できない接近危機を回避した両首脳会談

 ところが今年一月一日になって金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長が新年の辞を発表し、一転して韓国で開かれる平昌冬季五輪への協力を表明し、対話解決に向かってものごとが一気に動きだした。

 これほど南北の距離が縮まり、南北首脳会談、そして共同記者会見まで行われるとは、誰も想像できなかったに違いないに至り、少なくとも両国の間では、対話解決の第一歩が明確に踏み出され、米朝間の軍事衝突の危機もまずは回避されたと考えていいだろう。

まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。

 韓国側で会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。

 

 私は、先に、原文の[B]の最後の2つの文は、<あくまで「文大統領の努力」を「高く称賛」したもの、正恩氏の「決断」を「評価」したものであって、それらの「努力」「決断」の成果としての「板門店会談・宣言」を「高く称賛」するものにならないように配置されている>と書きました。

 これは、私のうがった読み方ではありません。実際、この2つの文を踏まえて、[C]へと進んでいくと、私の読み方が適切なことが確認できます。

 最初に<まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい>という文に、<まず>という言葉があるのに注目できます。これは、<まず>文大統領の努力、<次に>正恩氏の決断、という意味かと思わせるのですが、[C]へと読み進むと、<その上で、首脳会談後に発表された「板門店宣言」を見ると、不十分な点もある>とあるので、<まず>は、<その上で>にかかっていることが分かります。

 つまり、ここは、<まずは、2人の努力と決断を称賛、評価するけれども、その上で、「板門店宣言」は、不十分である>と言っているのです。

 では、ここでの評価基準は何なのでしょうか?何故に不十分で、どうすれば十分なのでしょうか?

 この「社説」における「宣言」の価値を決める評価基準は、北朝鮮の非核化をどこまで「保証」したものになっているのか、ということにあります。

 このことは、先に読み進めていくと明らかになってきます。

 「社説」は<不十分な点もある>といっていました。ですから、<基調は良くできているが、部分的に不十分である>ということかと思うと、以降、[C]の終り近くまで、ずっと、不十分が何故生じたか、それは妥協故に生まれた、というふうに、不十分に関する説明となっています。つまり、基調は<不十分である>ということにあることが分かります。

 ただ、[C]の最後に来ると、「板門店宣言」は全く無価値なのではなく、「それでも正恩氏の非核化への意思を、文書化できたことは価値がある」と述べられています。ここに来て初めて、価値評価の基準が北朝鮮の非核化を「保証」することにあることが明らかになってきました。

 つまり、[C]は全体として、「宣言」文書は、その非核化「保証」の程度において不十分なものになってしまったけれど、ともかく北朝鮮の非核化の意志が文書化されたことには意義がある、ということを述べているわけです。

 私自身の「板門店会談・宣言」に対する評価基準、あるいは私がメディアに対し求める「板門店会談・宣言」についての評価基準は、田岡氏の主張と同様に、まずそれが現在の危機回避にどう貢献したか、ということであり、また今後の平和構築にいかに貢献し得るものか、ということにあります。

 そして、そういう基準から見て、「板門店会談・宣言」を高く評価したいと思います。

 ところが、東京新聞の「社説」は、文大統領と正恩氏の「努力」と「決断」を評価するけれども、明確に「板門店会談」を称賛せず、また「板門店宣言」を<北朝鮮の非核化>という基準からのみ評価し、したがってそれに積極的な肯定的評価を与えようとしないのです。

 私は、<北朝鮮の非核化>という視点からのみ「板門店会談・宣言」をとらえ、評価するのは理不尽であり、狭窄的であり、危険だと考えます。

 東京新聞の「社説」の[C]の部分は、「宣言」が両国の思惑の「折衷」であるが故に不十分である、という主張を行なっていました。もともと、「板門店宣言」の重要な価値の一つは、両国が対話的アプローチによって互いが妥協する点を見出して、軍事的危機を回避した点にあるのです。それなのに、日本あるいは日本のメディアが、北朝鮮の非核化がどのように達成されたか、保証されたかということのみを評価基準として、「宣言」について半ば否定的な評価を下すのは、韓国、北朝鮮両国にとって理不尽です。

 そしてもしこの狭窄的な視点に固執するなら、それは実質的に対話的アプローチ(交渉であり、双方の妥協が含まれる)を否定し、強硬的アプローチ(妥協を排した軍事的・制裁的なそれ)へと導く非常に危険なものになることは明らかです。

 ところが、日本のメディアの論調や姿勢を見ていますと、安倍政権と同様に、米国が北朝鮮と妥協を含む対話・交渉をすることを望まず、妥協なき完全なる<北朝鮮の非核化>の追求を望んでいるように見えます。

 先に引用した田岡氏の論考は、次のように結ばれています。

 

 北朝鮮の非核化が「完全で検証可能、不可逆的」なものになるなら満点だが、現実的に考えればそれは極めて困難だ。

 米朝首脳会談で「米国に届くICBMは配備しない。これ以上、核実験はしない」という核の「凍結」プラス抽象的な「非核化実現への決意表明」程度が落としどころになれば、北朝鮮が中距離核ミサイルを保有し続けることを米国が黙認する結果になる。

 それは「日本にとって最悪の事態」と外務省は言うが、本当の「最悪の事態」はボルトン氏らが主張した北朝鮮への先制攻撃で核戦争が起こり、日本が巻き添えを食うことだ。

 谷内正太郎国家安全保障局長は5月4日、ボルトン氏とホワイトハウスで会談し、「すべての核兵器弾道ミサイルの完全で恒久的な廃棄を実現する目標の共有を確認した」という。

 だがボルトン氏のような「ネオコン」で好戦的な強硬論者と意見が一致するのは、日本にとって危険が大きいと案じざるを得ない。

 

  日本のメディアは、この危険を自覚しているのでしょうか?

  

  次回も、東京新聞の「社説」への批判を続けます。

祝 韓国・北朝鮮共同宣言(板門店宣言)成立・公表――日本のメディア批判

「韓国・北朝鮮共同宣言(板門店宣言)」を心から歓迎、お祝いします。

 

 「ペンタゴンペーパーズ」でメディアの役割について書いていたところで、日本の新聞を見ていてがまんできなくなりました。

 

 私自身のこのテーマに関する基本的立場は、「世に倦む日々」氏がツイッターやブローグで書いてきていることに、賛同するものです。氏による国際関係理解、その中でこの宣言の位置づけ、等については、是非、氏のツイッター・ブローグをご覧ください。

 

 本来、日本のメディアがなすべきことは、この「板門店宣言」を、第2次世界大戦後の世界史的な文脈に位置づけることによって、その現在的な意味を、より正確に深さを持ってとらえて(したがってそれが、日本の平和、東アジアの平和にとって持つ重要な意義をとえらて)報道することであり、そしてそれに対する歓迎の態度を明確に示すことです。それが、新聞の第1面に、すべての読者(中学生くらいの年齢以上)に分かりやすく、読みやすく、配置、書かれていなければなりません。その上で、他面も用いて、詳報や詳しい解説が加えられてしかるべきでしょう。

 しかし、例えば、東京新聞を見てみましょう。28日および29日の朝刊では、多くの面をこの問題に費やしていますが、この大事なことが一切書かれていません。

 それどころか、この日本の平和に直結するすばらしい国際的事件に対して、猜疑心を振りまいています。

 2018/04/28朝刊では、<「完全な非核化」明記>という見出しの下に、<具体化「米朝」持ち越し>いう見出しが添えられ、ページを改めると、大きく<会談 正恩氏ペース>とあり、<非核化 道は示さず><拉致問題の記述なし>と続きます。<北、今回は本気の可能性>と専門家によるコメントもありますが、それも含めて、基調は警戒心の維持にあります。

 一連の経緯を考えますと、極めて重要性を持つ、米国による明確かつ公的な肯定的評価に対してもまた、<米、期待と警戒交錯、声明「歴史的」と評価><非核化まで「最大の圧力」>と警戒や圧力が忘れずに並べられます。<正恩氏、実利と融和使い分け、駆け引き 巧妙な印象>と大見出しのページもあります。

 <中国「祝賀と歓迎」><「前向きなニュース」ロシアも評価>(さらに翌日2018/04/29朝刊では、<南北会議「歓迎」議長が声明発表。ASEAN首脳会議>)という記事がありますが、それらは小さすぎますし、その意味づけが読者にわかるようにはなっていません。先程の米国の肯定的評価と合わせれば、明らかにもう後退はあり得ない、ということであり、そのことを明確に読者に伝えるべきなのです。

 この日の朝刊において、この件を扱った最後のページでは、<正恩氏「民族の団結」繰り返す>という見出しの記事が含まれています。これは、「民族の団結」という言葉が日本や国際舞台において敵役とされている正恩氏の口から出されていることを強調するものであって、それによって、韓国・北朝鮮の融和や統一に対する敵愾心や警戒心を喚起し、板門店宣言に対する否定的気分や猜疑心をもたらそうとするものです。

 翌日、29日の朝刊を見ますと、先にも書きましたように、もう後退はあり得ない、ということを記者達もうすうすと感じ、認めざるを得ない、形勢になってきています。<北も「完全な非核化」報道、米朝会談へ本気度示す>という見出しの記事があります。<本気度>という言葉づかいは、微妙に、北朝鮮の報道がパフォーマンスであるような印象を与えるもの、それが本当に<本気>であるかどうかについて、記事を書いた記者自身が明確な評価を避けようとしたものです。私は、これは<本気度>ではなく、文字通り<本気>を表すものと書くべきだと思います。いずれにせよ、もう後退はあり得ない、ということは明らかになりつつあるのです。

 ところが、相変わらずそれをはっきりと書かずに、「核心」というこの新聞常設の解説用のページでは、<「非核化」思惑が交錯><日米、期限示さない北牽制><中ロ、北の「後ろ楯」対話主導狙う>と勝手に論点を「交錯」させて、読者にもやもやとした気分を強いています。           

 小さい記事ですが、<ノーベル平和賞予想 南北首脳が1番人気>とあります。それは、「『板門店宣言』を通じて、平和への道が大きく前進する」「それを歓迎する」という世界の多数派の常識を反映したものであり、この記事の掲載を決めたデスクは、この常識を、ささやかな形ながら、自分の気持ちに従って認めざるを得なかったのでしょう。

 今回は、最後に、東京新聞の「筆洗」(28日)の批判を行なって締めておきます。

 メディアの役割をメディア自身がどのように自覚、実践しているか、ということを見るための一つの重要なメルクマールとして、メディア自身の主張を表明している社説やそのメディア自身の記者が書くコラムのようなものに注目することができるでしょう。「筆洗」は、後者といえます。

 私が冒頭で述べた、世界史的な位置づけ、日本やアジアにとっての意義の明確化、歓迎の態度のはっきりとした表明、といったジャーナリズムのあるべき基準から見ると、28日の東京新聞の社説も「筆洗」も、完全に失格です。

 まず、「筆洗」を見ましょう。

2018年4⽉28⽇

 ⽌まった時計というものがある。・・・⼀九五三年に休戦協定が結ばれてから六⼗年以上、板⾨店も時が⽌まったような空間ではなかったか。軍事境界線は南北各⼆キロに地雷が多数埋まった恐怖の世界でもある。・・・軍事境界線の縁⽯を北朝鮮の⾦正恩朝鮮労働党委員⻑は、簡単に越えた▼うれしそうに、韓国の⽂在寅⼤統領と⼿をつないで⾏き来するのを⾒て、針が動き始めたように思えた。・・・<本当の和解とは、ただ過去を忘れ去ることではない>。ネルソン・マンデラ⽒の⾔葉だ。両⾸脳は笑顔を浮かべ続けたが、真の和解も、⻑く困難な道だろう▼そして、⽌まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う。

 

  私は、「筆洗」の筆者の平和を願う気持ちがよく表れた名文だ、という気にはとてもなりません。「他人事」感に満ち々た「論評」で、「切実感の欠如」が全体を支配しています。とても、Jアラートが鳴り響き、学校の子供達が避難訓練を強制させられた国のそれとは思えません。

 この文章では、「時計」や時の停止・始動によって、戦争の危機状態の維持から平和への流れの転換が象徴的に表現されているのですが、この文章がもたらす「他人事」感や「切実感の欠如」は、この転換をもたらす主体が明確化されていないこと、そして、日本や「筆洗」の筆者もまたこの転換に関わる主体であることも明確化されていないことからきています。

 つまり、この文章では、あたかも一時停止していた動画が、何らかの理由でまた動き始めたので、登場人物が動き出した、そして、「筆洗」の筆者をただそれを見ているというような印象を与える書き方がなされています。

 最後の文は、「⽌まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う」と述べていますが、この文もまた、同様に、停止した拉致問題に関わる動画が、何らかのきっかけで、再生を始めて欲しい、と、「切」なる願望の表明をしているだけです。我が事としての本当の切実感があるならば、録画された登場人物ではなく、現実の主体が、時を動かしていくことを明確にした表現が必然的になされたでしょう。

 もしかしたら、あるいは、「筆洗」の筆者は暗黙的に、「⾦正恩と⽂在寅が歴史の主体として、時を動かし、時計を動かしたのだ」と言っている、というのも可能かもしれません。そうすると、「そして、⽌まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う」という文も、「拉致問題解決のしかるべき主体が、解決の過程へ時を動かさなければならない」と暗黙的に主張している、ということになるでしょう。

 しかし、今、メディアに求められているのは、「暗黙的」な何か微細な読取を要求する文章ではなく、明確なメッセージだと思います。

 例えば、この文章の大部分を維持しながらも、最後の部分を次のようにすれば、明確なメッセージということができたでしょう。

・・・両⾸脳は笑顔を浮かべ続けたが、真の和解も、⻑く困難な道だろう。しかし、二人は「板門店宣言」によって「時計」の針を動かした。▼筆者は、『板門店宣言』を心から歓迎する。そして、⽌まった拉致問題の時も、しかるべき首脳達の対話を通じて、先に進めることを切に願う。

 こうすれば、目の前で動いている事態における主体の存在、「筆洗」氏の主体的関わりが明らかになります。

 ところで、読者の皆さんは、この歴史における「主体」の欠如は、あの三浦瑠璃氏に特徴的なものであったことに、すでに気づかれているでしょう。残念ながら、ここにも三浦氏の亡霊が現れたようです。

 

 次回に、同じく28日の東京新聞の社説を取り上げ、批判します。

すばらしい映画「ペンタゴンペーパーズ」--三浦氏の議論批判番外編2

 三浦氏は映画「ペンタゴンペーパーズ」を、次のようにコメントしていました。

 

痛恨の判断ミスを隠すエリート。追及する正義のメディア。その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか。

 

 前回は、これが意味することろ(氏の主張)は、「この映画の構図は、現在的意味を持たない」「この映画は観るに値しない」というものである、ということを明らかにしました。そして、まず、氏がこの主張を行なうために使った表現方法を、詐術的でフェアでないという批判を行ないました。

 今回は、氏の主張自体についての批判を行ないます。

 しかし、前回から始めたこの「三浦氏の議論批判番外編」シリーズの目的は、三浦氏の議論への批判と並んで、映画「ペンタゴンペーパーズ」を、上質のエンターテイメントとして多くの人に堪能してほしい、それに貢献したい、ということにありますので、そうした立場からの私なりの映画評を書きながら、氏への批判作業を進めていきたいと思います。

 さて、三浦氏によるこの映画の構図把握は、「国家」対「メディア」というようにまとめられると思いますが、私は、「α.国家」-「β.メディア」という把握は不十分で、さらにそれに「γ.国民」という要素を重要なものとして加えておく必要があると考えます。正確に言い直しますと、「α.国家」対「γ.国民」という基本構図がまずあり、さらにこの基本構図において重要な位置を占める「β.メディア」という構成要素の存在がある、と考えます。

 こうした構図把握を前提として、この作品のストーリー展開を味わうために、この作品の原題が、「The Post」であることをたびたび想い起こすことが役立つでしょう。 

 「The Post」とは、何でしょうか?

 もちろん、それは、新聞紙(あるいは新聞社)「The Washington Post」で、それを略記したものでもあります。この意味では固有名詞です。ストーリー展開との関連を言えば、そのストーリー展開の焦点がこの新聞社の人々の言動にあることを意味しています。

 しかし私は、この「The Post」には、それ以外の3つの意味を見出すことができると考えています。

 postという単語は、一般的な名詞である「地位(組織における位置)」を意味しており、さらにそこには、そうした「地位」に伴う「役割」というようなものも含意されています。(私は、この映画を日本語字幕で観たのですが、英語の会話ではpositionという単語も数回聞こえてきましたが、これも同じような意味で重要性を持って出てきたように思います。)

 では、ではこのような「地位」という意味での「The Post」は何を指しているのでしょうか?「The」という冠詞によってどのような限定を与えているのでしょうか?

 それは、第1に、「新聞The Washington Postの社主としての地位」です。第2に、「民主主義社会において重要な役割を果たすべくものとして存在するPress(新聞や言論)の地位(役割)」を指しています。そして最後に、第3の「民主主義社会における根本的な主体としての市民の地位(役割)」があります。

 ストーリー展開上では、これらのポストを担う、魅力的・個性的な登場人物(達)がいます。

 まずは、この作品の中で最も濃密な形で焦点化されているのが、キャサリン・グラハムです。彼女は、亡き夫から「The Washington Postの社主としての地位」を受け継いだ人物ですが、お飾り的な存在から、その社主としての自覚を持って行く過程が描かれます。これは、上記の第1の意味の「The Post」に対応します。

 と同時に、その過程においてさらに重要なクリティカルなポイントが現れます。彼女が「Press(新聞や言論)の地位」を自覚し、その責任(役割)の実践を決断する時です。つまり、彼女は、社内的なpostの担い手としての自覚から、さらに、言論を担う者としての社会的なpostにあるものとしての自覚へと成長(決断)していくわけです。この社会的なpostは、上記の第2の意味の「The Post」です。

 映画を観るとすぐ分かることですが、この第2の意味の「The Post」を担うのは彼女一人だけではありません。あるいは、仮に、この第2の意味の「The Post」を担う者を一人だけ挙げよ、ということになれば、ワシントンポスト編集主幹のpostにあるベン・ブラッドリーこそがその役にあるる者として選ばれるでしょう。

 しかしこのことは、この映画においてブラッドリーが一人「正義」を叫ぶような人物と登場する、ということではありません。そうではなく、彼やグラハム、そしてこの二人のやりとりに焦点を当てながら、さらにそれを取り巻くプレスに携わる人々の行動にもカメラは回り、国家による反逆罪という重い脅しに抗して、社会の中のプレスとしての役割(post)を共有するようになっていく過程が、緊迫感を持ちながら丁寧に描き出されるのです。

 それは、この映画のストーリーの中心部分をなしていますが、それはまた、プレスの「正義」が最初から確固とあるものとしてではではなく、人々の決断によって確かな姿を現してくる、というこの映画のメッセージでもあるでしょう。

 本当は、上記で述べたことを、作品に即してもう少し議論したいのですが、ネタばれになるとまずいので、「ペンタゴンペーパーズ」の公式ホームページの説明を引用しておきましょう。

 ペンタゴン・ペーパーズに関するこの騒動は、ある新聞社が良心的な行動を取ったという単純な話には収まらない。それは、脅威にひるむことなく、多くの新聞社や記者たちが団結し真実を語ることで生まれた偉大な力についての物語である。

http://pentagonpapers-movie.jp/production_note/1.html

 

 本作ではペンタゴン・ペーパーズの掲載を巡る戦いにおける緊張感であふれているが、1人1人よりも団結した時の方がより力を発揮できるというパートナーシップについても丁寧に描かれている。ストーリーの中心にあるのは、性格が全く異なりながらも、お互いに刺激し合うことで最大の力を引き出していくキャサリン・グラハムとベン・ブラッドリーの存在だ。

http://pentagonpapers-movie.jp/production_note/3.html

 

 「ペンタゴンペーパーズ」の公式ホームページのコメントのページを見ると、誰もがこのメッセージを正面から受け止めています。誰もが、現在の問題、自分達の問題であると理解しているのです――三浦瑠璃氏を除いては。

 私は、前回、氏による「その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」というコメントについて、変な気分がしてくる、と書きました。そしてその理由(原因)として、「第1は、私が氏の主張に賛成していないから」「第2は、氏の主張の表現方法が詐術的でフェアでないから」と述べ、第2の理由(原因)について説明しました。

 今回のこれまでの私の議論で、この第1の「私が氏の主張と真逆の立場にある(氏以外のコメンテーターと同じ立場にある)」ことの説明は、すでになされていると考えます。

 ただ、何でそれが「変な気分になること」につながるかは、まだ説明が必要でしょう。単に、意見が反対であるだけで、「変な気分」にはならないからです。「変な気分」の原因は、この映画が現在的な意味を持つことがあまりにも明白、誰の目にとっても明白なことであるのに、もっともらしく「その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」と否定を語ることが--詐術的でアンフェアな表現を利用したにしても--どうして可能なのだろうか、という私にとってとても理解しがたい事態がここにあることから来ています。

 最近の福田財務省次官のセクハラ犯罪をめぐって、録音音声という証拠が提出されているにも関わらず、「魔女狩りはやめろ」という次官擁護のツウィートをする三浦氏に、真実をよりどころに言論者は団結しよう、ということはもとより期待してはいけないことなのでしょう。

 

 次回、この映画がフェミニズムの文脈でどうとらえられるのか、といった論点も交えながら、キャサリン・グラハムのpostに少し立ち戻り、続いて、第3の意味の「The Post」について論じていきたいと思います。

すばらしい映画「ペンタゴンペーパーズ」--三浦氏の議論批判番外編1

 LITERAが鋭い論評を続けています。その一つに、三浦氏のことを扱った「森友文書改ざん問題を彷彿と話題の映画『ペンタゴン・ペーパーズ』!三浦瑠麗はまたトンチンカンコメント」というものがあります。

 これに触発されて、今回は予定を変えることにします。

  三浦氏はこの映画について、次のようなコメントを行なっています。

 痛恨の判断ミスを隠すエリート。追及する正義のメディア。その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか。

 LITERA編集部は、「三浦先生、インタビューを受けたりコメントを出す前にちゃんと映画を観ているのだろうか。映画関係者もまともな映画で三浦先生にコメントを求めるのはそろそろ止めたほうがいいのではないか」と書いていますが、私も同感です。

 三浦氏のこの非常に短いコメントにも(いや、短いコメントだからこそますます)、氏の権力追従の価値観や真面目な人を惑わす詐術的なテクニークが如実に現れてしまっています。

 この映画を理解するためには、①「この映画の登場人物達によって展開されるストーリーのレベル」と②「ストーリー展開を枠づけると同時に支えている、背景的な社会的・政治的問題の構図」の双方をとらえる必要があるでしょう。

 映画作品に対するコメントとして、当然①のレベルのコメントが必須のように思いますが、氏の場合それはなく、②にあたる「問題の構図」のみが語られます。つまり、氏はこの映画の構図を、「A.痛恨の判断ミスを隠すエリート」「B.追及する正義のメディア」の対立のようにコメントします。

 私は、この氏による構図把握を読むと、ピタッ、と来ない感じ、斜めに引っ張られているような、氏の文章に惹起されるいつもの妙に感覚にとらわれます。

 この構図把握の不適さについては、後で議論しますが、しかし、氏によって続けられる「C.その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」の部分には、また別の意味で変な気分がしてきます。この変な気分の正体は何だろうか、と考えてみますと、2つの理由(原因)がわかってきます。

 第1は、私が氏の主張に賛成していないからですが、第2は、氏の主張の表現方法が詐術的でフェアでないからです。

 氏の主張が何であるか、考えてみましょう。

 C.は、反語的表現であるとしか読めませんから、三浦氏は、端的に「この映画は現在的な意味を持たない」と結論づけているわけです。氏のこの結論は、この映画にとって重要です。何故なら、氏のコメントは「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」と言っているに等しい、と私は判断するからです。

 「そんなことはどこにも書いていない」「そんなのはお前の勝手な判断だろう」と言われるかもしれません。そうです、書いていないけれど、実質的にそういう主張をしているところが、詐術的でフェアでない、と私は感ずるのです。

 ある作品についてのコメントとは、その作品の重要な要素についての評価を行なうものです。ですから、氏のコメントはまず、映画「ペンタゴンペーパーズ」がその重要な要素として「現在的な意味」を提起しようとしているものであることを、氏自身が認めていることを、実は含意しているのです。その上で、氏が「この作品に読み取った基本構図が、現在的な意味を持たない」、というのですから、氏は「この作品が意図した問題提起は失敗している」と言っているのです。ですからやはり、氏の主張は、「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」というものだと理解するのが順当です。

 では、何故氏は、そのように率直、直截に自らの主張を表現しないのでしょうか。そのような率直さがあれば、「ペンタゴンペーパーズ」の公式ホームページの管理者は、「この映画は観るに値しない」と言っている氏のコメントを掲載しなかったでしょう。しかし、氏のように、「C.その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」と反語的表現を用いると、公式ホームページの管理者の判断は微妙になります。直感的には、氏のコメントを受け取った時に、妙な感じがあったと思いますが、私のように、時間をかけて論理的に、氏のコメントが「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」と言っているに等しい、とまで分析しないでしょう。そこで、まあいいだろう、ということで採用、掲載となったのではないでしょうか。

 私は、このように、読者(ホームページの管理者)に対し、その主張の本質的な理解(論理的に導かれる理解)と異なる理解をもたらしたり、思考停止をもたらしたりすることを通じて、本来の理解から導かれるべき判断・行動とは異なった判断・行動をもたらすように意識的にとられる表現方法を「詐術的」と呼びます。

 また、通常「詐術的」表現は、「そんなことは書かれていない」「私はそうとは書いていない」というような言い訳ができるようなものとなっています。しかし、私は論理的な文章を書くことが期待されている者に求められるフェアネス(公正さ)という点で、それはフェアでない、と考えます。

 以上、三浦氏の主張の表現方法が、詐術的でフェアネスが欠如していることを批判をしてきましたが、次回以降に、氏の主張そのもの――「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」――に対する批判を行ないます。その作業は、「ペンタゴンペーパーズ」のすばらしさを多くの読者に味わって欲しいという願いを込めた、私自身のコメントをも述べながら、行なうことにしたいと思います。

ごまかし・騙しの雄弁術――「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判X--(続の5回目)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属――

 ずっと気分転換の休養をさせていただいて、大きく間があいてしまいましたが、すべての反安倍ファシズムの人と連帯するこのブローグを再開します。

 

 もう、三浦瑠麗氏の議論批判が10回目になります。長くなり過ぎていますので、できる限り、要点をまとめるようにしていき、あと数回のうちにこの批判を一応完成させていきたいと思います。

 今、安倍ファシスト政権は、森友問題に関わる国家財産の私物化・国会での虚偽答弁・文書改ざん、という権力犯罪が露顕しつつあり、かつてなく窮地に陥っています。ところが、安倍首相は、3月25日の党大会で、改憲を前面に出した演説をしており、それにより、改憲問題に国民の注意を逸らしていくことと、改憲自体の実現の双方を狙っているようです。

 私は、森友用地問題に関する権力犯罪の追及をより強めていくことに、デモや言論の形で参加していくつもりですが、同時に、憲法問題を根本的なものとして議論していく必要を感じています。

 この意味で、今回は、三浦氏のブローグへの批判を、氏の憲法を扱った部分に焦点を当てて行なっていきたいと思います。

  私の三浦氏批判シリーズの目的は、まず、三浦氏の議論が、権力・軍事力崇拝および盲目的対米従属の立場・価値観の直接的な帰結であることを明らかにすることでした。

 しかし、そのような権力・軍事力崇拝および盲目的対米従属の立場・価値観は、三浦氏だけに特徴的というよりも、日本の国際政治学者の多くに共通するものと言えます。私が、三浦氏の議論を取り上げたのは、氏がマスメディアに露出して社会的影響力を発していることがありますが、同時に、多くのそうした国際政治学者の立場・価値観をわかりやすく率直に語り、またそれ故に、そうした立場・価値観に立つ論者達の「論拠」(の無さ)をまたわかりやすく示してくれるものでもあるからでした。つまり、私の批判は、安倍ファシズム政権と親和性を持ち事実上それを支えるような国際政治学者達の「理論」「知見」を批判するという作業の中に、このシリーズを位置づけて始めたのでした。

 こうした位置づけの妥当性を、この憲法論に焦点を当てた議論においても明らかにしていきたいと思います。

 私は、この三浦氏批判シリーズのV以降、三浦氏のブローグの一つの文章を取り上げてきました。氏はそのブローグの文章の最初の方で、集団安全保障の論争は、「一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です。」というふうに述べていました。

 氏にとって、本質的重要性を持つのは、第1の「安全保障の領域」なので、私も、この第1の領域の議論を取り上げ、氏の主張を詳しく分析、批判してきました。まだその作業は完了していないのですが、少し急いで今回は、第2の「憲法解釈と立憲主義の領域」を扱いたいと思います。

 私は、氏の言論に即した形で批判の作業を行ないたいと考えますので、長くなりますが、まず、以下に氏による「憲法解釈と立憲主義の領域」に関わる議論を以下に引用します。

 

 二点目の憲法解釈と立憲主義の論点は、これまで積み上げられてきた立憲主義の枠組みをめぐる争いです。安倍政権が進めようとしている憲法解釈の変更については、安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判と、安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判とがあります。

 

 一国の憲法秩序のあり方をどのように捉えるか、なかんずく憲法解釈を変更するということの意味については各国の立憲主義の根幹にある問題です。憲法学者があらゆる角度から論じてきたことですのであまり深入りはしませんが、そこには、成文規定の内容に関わらず、どのような政治的伝統の中に存在してきたかということが重要です。つまり、閣議決定でもって頻繁に憲法解釈を変えてきた国であれば、別に閣議決定で今一度解釈を変更してもさして問題なく、国民が気に入らなければ次の選挙でひっくり返せばいいわけです。それに対して、何十年にもわたって解釈を積み上げ、その解釈が社会的に重要であるというコンセンサスがある国においては、解釈変更という方法論は、まあ、スジは悪いわけです。ここで出てくるのが、「どうどうと憲法を改正すべき」という主張です。私がこの、もっともそうなこの主張になかなか与する気になれないのは、このような主張をされる方の本音が、立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだからです。加えて、このような主張には、立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視が潜んでいるように思えます。民主主義の仕組みの中で少数者の利益が害されないように最大限工夫してから立憲主義は持ち出されるべきものであって、国家観や安全保障観をめぐるイデオロギー的な争いの錦の御旗として使われるべきものでもないような気がします。

 

 安全保障の分野における戦後日本の立憲主義はとても不安定な礎の上に築かれてきました。中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための「ごまかし」です。そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、自衛隊の合憲性、非核三原則、武器輸出三原則、防衛費のGDP1%枠、PKO5原則、武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。そして、この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる。それは、ガラス細工を守り抜く側と、ガラス細工を粉砕する側の双方にとって日本の魂をめぐる闘いでした。私からすると、世代として理解できないところも多いのだけれど、左右両陣営にとって自らの自画像をめぐる真摯な争いであったことは理解できます。そんな中にあって、集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう。

 

 憲法を通じて政府を縛り、国民の権利を保障する立憲主義は、民主主義の擁護者であると同時に、時に民主主義と対立するものでもあります。日本国民は、安倍晋三という政治家を、彼の憲法観や安全保障観を十分認識しながら二度までも宰相として選択し、高い支持を与えています。安倍政権の支持率が高いのは経済改革に期待するからであるからとか、集団的自衛権をめぐる憲法解釈変更への支持率については(信頼性はともかく)いろいろな調査もありますし、様々な主張が可能でしょう。しかし、もう少し長い目でこれらの問題を見たならば、戦後作り上げられたガラス細工の支柱の多くは、安全保障環境の変化と国民の意識変化の前に、既に姿を消しました。おそらく、集団的自衛権の解釈変更は、日本の民主主義がたどり着きつつある、コンセンサスとはとてもいえない、けれども、不可避的な変化の方向性なのだと思います。

 

 現在行われている議論の多くは政策的な結論と言うより、政治的な結論をどこに落とすかいうことについての日本的なコンセンサス作りのように見えます。安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認は、衆参両院における自民党の圧倒的勢力、そもそもの自民党内のイデオロギー分布の変化、維新・みんな等の野党勢力の賛成等から政策的には既定路線であり、安倍政権にどこまで勝ちを持たせるかをめぐる争いであるということです。政治的敗者(=少数者)にも一定の品位を保たせるというのは、日本政治の良き伝統の一つですが、ガラス細工を支えてきた方々も多いので、彼らを政治的に追いやり過ぎないようにするための工夫に知恵を絞る必要がある。与党協議の中でクローズアップされているグレーゾーンの議論は、スジが悪いし、あまり本質的でないのは皆わかっているのだけれど、ガラス細工の破壊者と擁護者が共に勝利宣言する必要があるという政治的立場に立つと、スジが悪いことにそもそもの付加価値があるとも言える。集団的自衛権憲法解釈というガラス細工を壊す代わりに、グレーゾーンという、新たな、少し小さめのガラス細工を作り出すことなのかと。ちょっとやり方が時代遅れな気もしますが、しょうがない感じもあり、日本的な共感の示し方でもあるのかと思います。

 

 氏は、「中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための『ごまかし』です」と論じて、自らを、この「ごまかし」を正直に指摘する者という位置に置いて発言しています。

 しかし、私はまず、氏の議論自体が、「ごまかし」「騙し」に満ちたものだということを指摘せざるを得ません。氏は「ごまかし」「騙し」に満ちた自らの議論を進めるために、たいへんずさんな書きぶりを重ねています。私は今、「たいへんずさんな書きぶりを重ねている」と書きましたが、論の運びの論理性という意味ではそういえると思いますが、意図的な「ごまかし」「騙し」の方法が多用されているという意味では、「詐術的弁論術に満ちている」といっても良いと思います。

 そして、そのずさんな書きぶり、詐術的弁論を可能とするのが、氏が要所で利用する「学術的雰囲気を漂わせる」分析っぽい表現術であり、そして「縦横無尽」に用いられる「主語消失」話法です。

 氏によるこの第2の「憲法解釈と立憲主義の領域」の議論(文章)において、上で引用した「このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための『ごまかし』です」という部分は、重要なポイントとなっており、そしてそれは、読者に対して強い印象をもたらすための「断言」をなしています。

 「現実」「イデオロギー」「矛盾」といった言葉が、「論文」っぽい分析的な雰囲気をかもし出すと同時に、「ガラス細工」「分断」「ぎりぎりのところで折り合わせる」「ごまかし」といった効果的な――しかし意味内容があいまいな――「文学的」表現も併用されています。そして、この文の主語は、「ガラス細工」となっており、「ごまかし」をなす主体が誰なのか、何なのか、わからないようになっています。

 次回、この部分についてその内容に沿った形で詳しく批判を行なうつもりですが、まずここでは、この断言を基点とした詐術的な主張の内でも、最初に私がびっくりしたことから書いておきましょう。その方が、まず上で私が述べたことの要点を理解していただけると思います。

 私はしばしば指摘してきましたが、氏の文章は肝心なところで、主語(責任を持った主体)が消失するという特徴を持っています。氏は自衛隊を合憲とする法解釈を「ガラス細工」と評し、さらにそれを大上段から、「このガラス細工は、・・・『ごまかし』です」と断言しています。つまり、この文では、責任を持った主体としての人間や政治勢力が出てくる代わりに、「ガラス細工」が文章上の主語として採用されているのですが、これは、三浦氏に特徴的なテクニークで、これによって、氏は社会、歴史における主体を隠したまま、現れてくる社会的、歴史的な現象や結果を自らに都合よく扱うことが可能となるのです。

 氏のブローグの続きを見てみましょう。

 「そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、①自衛隊の合憲性、②非核三原則、③武器輸出三原則、④防衛費のGDP1%枠、⑤PKO5原則、⑥武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。」

 主語は、「ガラス細工」で、「ガラス細工」は「形成されてきました」というように受け身形で表現されています。(氏はさらに、「⑦集団的自衛権をめぐる憲法解釈」を「ガラス細工」の要素として加えています。)

 では、これら①から⑦までの「その時々の政策課題と絡まりながら形成されてき」た「ガラス細工」(=「ごまかし」)を形成してきたのは、そもそも誰でしょうか。①から⑦までは、基本的に政府の政策を支える憲法解釈や基本原則なのですから、それら(「ガラス細工」の諸要素)を形成してきた主体が政府(自民党やその前身である自由党等の保守政党)であることは明らかです。

 氏の「ガラス細工」(=「ごまかし」)という表現を踏襲するならば、国民をごまかすために「ガラス細工」を作ってきたのは、「政府」です。

 ところが、三浦氏は真逆の議論を展開しています。氏によると、「ガラス細工を守り抜く側」と「ガラス細工を粉砕する側」が争っているというのですが、前者が「左陣営」であり、後者が「右陣営」とされています。通常の論理展開ならば、「ごまかし」をなした者が「ごまかし」を「守り抜く」側になり、それを批判する側が「ごまかし」を粉砕する者になるはずです。つまり、氏は「ガラス細工」を「ごまかし」であると批判していたのですが、いつの間にか、「ガラス細工を守り抜く側」、つまり「ごまかし」を擁護とされるのが左陣営であり、「ガラス細工を粉砕する側」、つまり「ごまかし」を正すのが右陣営ということにされています。これだけ堂々と真逆のことを主張されると、何か読んでいる方がどこかで勘違いでもしているような錯覚にとらわれます。

 詐欺を働こうとする人々は、「まさかここで嘘はつくまい」「まさかこうは堂々と真逆のことは言えないだろう」という普通の人の虚を突くことを得意とするものですが、三浦氏の論建ては、そのような詐術的弁論としか言いようがありません。

 どのようにして、このような詐術的弁論を氏は可能なものとしているのでしょうか。それは、(1)まず、氏の得意技である「社会や歴史における実質的な主体・責任を持った主体隠し」によって、氏がいうところの「ガラス細工」(=「ごまかし」)の形成者たる政府の存在を隠す、 (2)その上で、自分の論に好都合なように今度は、左翼は「ガラス細工」(=「ごまかし」)の擁護者、右翼は「ガラス細工」の粉砕者であるとレッテルを貼りながら主体認定がなされるのです。

 氏の詐術的弁論性は、このような真逆のレッテル貼りを堂々とするということだけに止まっているものではありません。氏は、「ガラス細工」という表現を持ち込むことによって、①から⑦までのテーマ(政治・政策の原則や憲法解釈)が「ガラス細工」の様なものであって、現実政治においては、考慮や議論に値しないもの(政治の現実に影響を与えないもの)であるかの印象を与えています。

 氏の口調が常に「おバカさんのあなた達に教えてあげる」というものであることは知られていますが、ここでも、「この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる」と敬語を用いながら、「(おろかにも)一生をささげてきた方(おバカさん)」「(おろかにも)真摯な争い」をしてきた人々(おバカさん)が隠然と嘲笑の対象とされています。そして、この「ガラス細工」をめぐる議論が、「日本の魂」「自画像」「象徴性」をめぐる左右政治勢力の争いであり、「政策的な内実とは別の次元」--ここらへんも何か「論文」ぽい分析のような響きがしてきますね--にあるもの、と説いてくれるのです。

 しかし、言うまでもなく、①から⑦までのテーマ(政策・政治原則やそれらと密接に関わる憲法解釈)は、政策的な内実に密接につながる議論であり、従って当然政策的な内実に重要な影響を及ぼすものです。氏は、こんな単純明快な事実を、「ガラス細工」という言葉を主語として(詐術的に)用いることや「政策的な内実とは別の次元」といったもっともらしく聞こえる、しかしずさんな論の運びによって、読者から隠してしまうのです。

 さらに、氏の詐術的な議論の特徴は、「自分はお利口さんなので、お馬鹿な左右のイデオロギー対立の上にいる」というポーズをとることによって、読者に対し、氏が自らを第三者、中立者のような位置にある印象を与えること、そしてそうしながら、実際には、右翼イデオロギーや右翼の主張する政策を強力に支援・促進する役割を果たしていることです。

 氏は、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう」と言って、この問題を「政策の内実と別次元のもの」としている--つまり、氏の高みから見るならば、「のっぴきならない」というようなものではない、そのような実質性を持つ議論ではない、と隠然と述べている--ので、これだけだと氏は第三者のような印象を与えます。しかし実際は、全く違います。

 これまでの私の三浦氏の議論の批判シリーズで見てきたように、氏は、「集団自衛権は認めるべき」といい「日本も核武装すべき」と論じています。つまり、安倍政権やいわゆる自民党タカ派と同様の主張をしています。

 また、この物言いは、氏の立場が、①および③から⑥まではもう論ずる必要もなくなったことして認識しており、そうした状況を歓迎する(「ガラス細工」が崩れ去ってけっこうなことだという)ものであることを示しています。しかし、そうした状況は、政府による強行的な決定や政府の政策による「ごまかし」的な現実の持続によってもたれされてきたものであることを見ようとせず、またそのことを読者にも見させないようにしているのです。

 つまり、第三者のふりをしながら、第三者どころか、安倍政権に示される極右的な政策を支え、促進する好都合な支持者の役割を果たそうとしています。

 私は、同様に、日本人の学者があたかも客観性(独立性)を持って米国の主張を支持してくれるならば、米国のいうことごもっとも、という姿勢を丸出しにした人物よりも米国にとって好都合であることを、三浦氏の例に即して述べたことがあります。

 三浦氏の詐術の中に一貫している論理は、権力・軍事力崇拝と対米従属によって方向づけられたものです。このことを理解しておくと、氏の詐術にとらわれることなく、しかも、氏の主張の本質(=権力・軍事力崇拝と対米従属という筋だけがあり、従ってまた、オリジナリティや分析的な価値がないこと)を把握することができると思います。

 私は、次回に、①から⑦までがどのような性質を持つものなのか、私自身の考えも示しながら、先程取り上げた「このガラス細工は、・・・『ごまかし』です」という氏の議論(詐術)を、批判的に詳しく論じていくつもりです。

 ただ今回、ここで議論を中断することによって生じかねない誤解を防ぐために、少し付け加えておくことがあります。私は、先に「真逆」という表現を用いつつ、政府こそが①(「ガラス細工」)を作り出し、「ごまかし」をなす主体である、というような言い方をしました。しかしそれは、三浦氏の言葉づかいである「ガラス細工」や「ごまかし」というようなものを踏襲するのであれば、という条件での話です。私はそのような言葉づかい自体を、①から⑦の持つ社会科学的な意味、性質をとらえる上ではふさわしいものとは考えません。このことは、次回の議論で明らかにしていくつもりです。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判IX--(続・続・続・続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 私は、三浦氏の議論に反映されている軍事力崇拝の問題は、憲法問題に深く関係してくると考えており、氏の議論に対する批判的分析を続けます。

  読者の便宜のため、また三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用(原文)も再度コピぺしておきます。

三浦氏の原文

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

  私は、上のD-1に対応する部分を「三浦<当然>理論」と呼び、それへの批判を中心的に行なってきました。しかし、回数を重ねているのに、未だ、その理論自体に焦点を当てて、直接批判することはやっていません。今回は、それを済ませたいと思います。

 まず、「三浦<当然>理論」とは何かをきちんと定めることが必要です。これが、結構手間のかかる作業です。私としては、そうした作業を経て、最終的に次のように定式化することができました。 

「三浦<当然>理論」(米村による最終定式化)

今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、双方の同盟参加国は、同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことが、「当たり前」と認め合う必要がある。

 (ここで太文字は、特定の国ではなく、国一般についてのものであることを意味します。)

 以下で、原文のD-1に対応するものが、何故、このように定式化できるのかを説明します。この説明の目的は、氏の議論の仕方の中にある多くのトリックにひっかからないようにしながら、氏の議論をできる限り正確に理解することです。上記の定式化自体が、そうした努力の結果です。

 三浦氏の原文から出発しましょう。

(原文のD-1)

②A.今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、B.相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。

③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 これは、何とも奇妙な文章ですね。なんかスッキリしません。少しづつ、整理していきましょう。

 上記の②は、Aが「・・・ということは」という形なので、Aが主部、Bは述部のように見えます。しかし、これは<A is B> という関係にあるのではなく、Aは条件節、Bは主節という関係、つまり、<if A, then B>という関係にある文です。

 例を挙げると、「X.ここにある人物の帽子があるということは、Y.その人物が犯人であることを意味する」というような文の構成(XとYの関係)です。

 そこでまず、わかりやすさのために、②を<if A, then B>の形の文に直します。また、三浦氏の文章の特徴である「主体の消失・隠蔽」を避けて、主語を明確にするための修正も加えます。すると、次の②'が得られます。

②'  A'.今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、B'.それらの民主主義国は、相互主義と相互利益を暗黙の、当然の前提と認める必要があります。

  この②'は、理論的命題と言うことができます。その理由としては、第1に、民主主義国(同士)という言葉が、「民主主義国」一般を差しており、特定の国について限定されていなく、かつ、それを民主主義国の中の特定の国について当てはめた場合、成立することを意図した命題(一般理論)だからであり、第2に、同盟維持という行為の中にある本質的なもの、原理的なものを「相互主義」「相互利益」といった概念で表そうとしているからです。ここでは、この第2点の性質が、第1点で意図された一般理論としての妥当性を基礎づけていると言えるでしょう。

 次に原文の③を見ましょう。これは、「つまり」という言い換えの接続詞で始まっています。ですから、これは②を言い換えているはずです。また、その言い換えは、②で「米国」「日本」といった特定の国名が出てくることから、②で提示された一般理論を、これら2国の場合に適用したものだと見当がつきます。

 また実際、③の最後は、「ということになります」と表現されていて、これは、「②から③が導かれる」ということを意味していると解せます。

 そこで、ともかく、③を②の一般論の対応事例であると考えて書き直してみます。

③' つまり、a'. 今の時代に日本米国が同盟を維持しようとするならば、  b'. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

(ここで、日本米国などのアンダーラインは、国一般ではなく、特定化された国であることを意味します。)

 こうすると、対応関係がはっきりしますが、もちろん、「②の一般論から③は導け」ません。対応箇所がはっきりした分、却って②と③の内容的な相違が明確になってしまったとも言えます。

 しかし、氏の原文のような書き方は、②から③の導出が可能であるかの印象を与えるトリッキーなものといえます。このトリックにおいて重要な役割を果たしているのは、②(②')が、誰も認める妥当な理論的命題であるということです。 

 私も②の一般論は正しいと思います。条約上の明文規定に「相互主義」「相互利益」という言葉がないとしても、条約を結ぶという行為自体にそもそも「相互主義」「相互利益」という一般的原理が働いているということを認めるからです。

 ただしこのような原理的な意味で「相互主義」という概念を用いる時、それは抽象度が高いものであって、例えば、日米安保条約にある「防衛と基地との交換」も、「相互主義」の一形態であると考えます。このように、「相互主義」という概念は抽象度が高いらからこそ様々なケースを含み、それ故、この概念の使用にはそれらを統一してとらえられるというメリットがあるわけです。

これらであれば、私も含めて誰でも、自然な一般論的な文章と感ずるでしょうし、内容的にもこの一般論を支持するでしょう。条約上の明文規定に「相互主義」「相互利益」という言葉がないとしても、条約を結ぶという行為自体にそもそも「相互主義」「相互利益」という一般的原理が働いているということを認めるからです。

 ただしこのような原理的な意味で「相互主義」という概念を用いる時、それは抽象度が高いものであって、例えば、日米安保条約にある「防衛と基地との交換」も、「相互主義」の一形態であると考えます。

 具体的・現象的・個別的な議論とは異なって、抽象的・理論的・一般的な議論を行なうメリットは、それらを整理・まとめながら、本質に近づいていくことにありますから、「防衛と基地との交換」をも「相互主義」の一形態と把握することは、そうした理論的接近・把握としてごく普通のあり方です。そうした立場からは、むしろ「防衛と基地との交換」も、本質的には「相互主義」的なあり方として捉えられるわけです。

 そういう意味で、もし、A'またはA''の後にBが続けば極自然で、内容的にも異論は生じないだろうと思います。

 この正しい一般論(「理論」的に表現された正しい命題)の存在は、氏の議論展開に対する信頼を与えるように機能する(印象づける)でしょう。つまり、三浦氏にとっては、それは「レトリック」「トリック」として、読者から信頼を得、油断させるには必要なもの、有効なものとして配置されています。

 私達は、特別な場合以外は、文章を微に入り細に入り読み直すというようなことはしません。大雑把に理解しながら、読み進めていきます。原文の②③を読んだ人の多くは、次のように思うのではないでしょうか。

 「あれ、②と③は違う気がするな。だけど、ともかく②の一般論から③が導けるのかもしれないな。②の一般論は正しい気がするし。まあ、③が導けることにして、先を読もう」

 もちろん、この程度のトリックにはひっかからない人も多くいるでしょう。しかし、残念ながら、このトリックを避けたからと言って、これで氏の議論を把握、論破できると安心するのは早すぎます。氏の叙述、論理の「強み」は、前にも指摘したように、曖昧表現や後出しジャンケン的手法、逃げ道用意、にあります。

 私のように、「ちょっと待って。②から③は導けないでしょう」という人間には、三浦氏は次のように対応することができます。「いいえ、そこには②から③が導ける、なんて書いてないでしょう。簡潔に書くために省略しましたが、私としては次のように書いたつもりです。」

D-1'

つまり、A. 今の時代に民主主義国の間で同盟を維持しようとするならば、B'. 同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

③つまり、a. 日米間で同盟を維持しようとするならば、b. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

つまり、A. 今の時代に民主主義国の間で同盟を維持しようとするならば、B'. 同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

③つまり、a. 日米間で同盟を維持しようとするならば、b. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

②'  A'.今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、B'.それらの民主主義国は、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提と認める必要があります。

②'+  つまり、 A'.今の時代に民主主義国同士が同盟を維持しようとするならば、B'+双方の同盟参加国は、同盟参加国の一方が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、他方の同盟参加国集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」と認め合う必要があります。

③' つまり、a. 今の時代に日本米国が同盟を維持しようとするならば、  b. 米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に、日本集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、日米両国が「当たり前」と認め合う必要があるということになります。

 確かに、論理的に辻褄を合わせて理解しようとすると、上記の②'+ の部分が省略されている、したがって本来それが原文に挿入されるべきであった、と考えるほかありません。

 この場合、②'+  の冒頭の「つまり」は、文字通り入れ替えの役割を果たす接続詞として働いていて、②'のB'を、②'+  のB'+ に、入れ換えた--「相互主義」「相互利益」を「集団自衛権行使・相互防衛義務」と特定したものに、入れ換えた--ものです。

 ここで重要なのは、文言上は「ただ入れ換えただけのもの」ですが、内容的・論理的には、この言い換えは、集団自衛権の有無・成否というここでの議論にとっては、決定的な意味を持った変化だということです。

 「集団自衛権行使・相互防衛義務」が「相互主義」「相互利益」の一形態であることは確かです。しかし、B'+ において、「集団自衛権行使・相互防衛義務」が「当たり前」という時、それは、「相互主義」「相互利益」の別の一形態である「防衛と基地との交換」を排除して、必ず、「集団自衛権行使・相互防衛義務」が「当たり前」として認められなければならない、と言っているのです。

 となると、先に指摘した②から③は導けない(論理的に演繹できない)、という問題は、ここでも繰り返されるように見えます。

 しかし、三浦氏は次のように言うことができます。

 ですから、私は②から③(②'から②'+)を導けると言っているのではないのです。 

 逆に、「つまり」という言い換えによって、②の内容(「相互主義」「相互利益」)を③によって後から(②'の内容を②'+によって後から)規定、特定化しただけです。

 その意味で私が主張しているのは、②'+ということです。

 論理的に言うと、②は無しにして、②'+だけと同じことです。その方が分かりやすかったかもしれませんが、私としては、この方が分かりやすいと思ったのです。

 私は、「この方が分かりやすい」とは思いませんが--そうではなく、トリッキーだと述べてきました--、論理的な結論、②'+が氏の主張である、ということには賛同します。氏の「理論」としては、②は不要であって、本来②'こそが、明示的に表示されるべきものだったのです。

 ここで、やっと今回予定していた使命の最初--<三浦氏がD-1で提起(含意)している理論的命題>=<私が「三浦<当然>理論」と呼ぶものであること>を確認する作業--を果たしたことになります。

 つまり、氏の理論的命題は、②'によって完全に表現されているのですが、私が、三浦<当然>理論」(米村による最終定式化)として、今回の使命を述べた、最初に近いところで掲げておいたのは、この②'でした。

 以上の説明は、論理的な整合性というような観点からのものであり、三浦氏の文章が、そのような観点からの接近を許すかどうかについての疑念を持つ方もあるかもしれません。

 あるいは、論理的整合性といっても、厳格なものではなく、そこには私による推論的な性格があることは否めません。

 そこで、私としては、<<「三浦<当然>理論」(米村による最終定式化)が、氏自身が提起している理論的命題を忠実に再現している>>ことについての重要証拠を加えておきたいと思います。

 実は、三浦氏の原文の結論部分であるE-2において、簡潔にこの「三浦<当然>理論」とその適用が述べられているのです。

 その③において、

・・・現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上・・・

とあります。これは、上記で示した②'+ に対応します。

 さらに続けて、④において、この一般理論を日本に適用することによって、

日本は同盟維持のために]集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

と結論を与えています。これは、上記で示した③に対応します。

 つまり、三浦氏の原文のD-1において、②を削除して、代わりに②'+ を書くと、このD-1部分でも、結論部のEで示される「理論」とその適用が、そのまま--構成・中身とも--全く同じに再現されるのです。

 

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 「三浦<当然>理論」の確定という作業だけで、ずいぶん長くなってしまいました。本来の目的は、その批判にあるのに、です。

 しかし、こうした作業が、三浦氏の主張を内在的に理解して上で批判するためには必要です。次回に続けます。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判VIII--(続・続・続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 前々回は、三浦氏が「他に選択肢がない」として、日米同盟維持を選択していることを指摘しました。その際に、氏が「選択肢がない」という理由から「消極的」「しかたがない」というトーンではなく、何故か、強い口調で積極的に「集団自衛権が可能であると考えるべきだ」と結論づけていることも指摘して、「権力者にとって何と都合の良い議論をしてくれる『学者』なのでしょうか」とコメントしました。

 前回は、三浦氏の議論の中に見えにくくなっていた「三浦<当然>理論」を明確化・摘出し、この「理論」が、米国が求める「日本の集団自衛権・米国防衛義務」を「当然」「当たり前」のものとする(=正当化・合理化する)役割を果たしていることを確認しました。

 この「三浦<当然>理論」こそ、氏の「国際政治学的知見」の中でもその核をなすものであり、その「学術的」かつ「政治的」貢献において、米国からの感謝状を受け取るべきものでしょう。

 前々回において指摘した、三浦氏が消極的ではなく、積極的に集団自衛権を擁護していたのは、この「三浦<当然>理論」のしからしめるところだったのです。

 では、この「三浦<当然>理論」は、どのような根拠に基づいているのでしょうか?それは、「正しい」のでしょうか?

 今回は、それを議論します。

  読者の便宜のため、まず、三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用と、私による「三浦<当然>理論」の2つの定式化を再録しておきます。

 

三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)

 

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

 私が、定式化した「三浦<当然>理論」は、次の通りです。

 

「三浦<当然>理論」(定式化E)

 現代の民主主義国間の同盟は、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している

  

「三浦<当然>理論」(定式化D')

 ②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③'つまり、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。{③つまり、日米同盟にこの「理論」を適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。}

  

 さて、この「三浦<当然>理論」の根拠の問題です。

 私は、前々回に、D-1について、その論理的な流れが悪く、スッキリとせず、奇妙な不快感が残る、旨を述べました。

 そして、次の修正を提示しました。

 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、「私氏MIURA」によって「三浦<当然>理論」としてまとめられた国際標準に従わなければなりません。この国際標準とは、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提であるということです。③'この国際標準では、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。つまりので、「三浦<当然>理論」の国際標準を日米同盟に適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 

 

 私としては、この修正によって、D-1の本来の主旨をねじ曲げることなく、論理的な流れの抜本的改善を果たしたつもりです。

 そこで、読者の皆さんにお願いですが、三浦氏の原文のD-1でも良いですし、私の修正版D-1'でもどちらでも良いです。どちらを使ってでも、D全体を読み通してください。

 どんな印象を持たれますか?

 私の感覚を述べましょう。

 今度は、D-1(D-1')内部の論理的な流れについてではなく、D全体の論理的な流れについて、またしてもスッキリとせず、何度読んでも、奇妙な不快感--解決すべきものが解決していない、理解できたような、できてないような感覚--が残ったままです。

 集団自衛権についての「本質」についての三浦氏による議論は、引用したDで終わっていて、結論部のEに至って再度、基本的に同様の主張・記述が繰り返されるだけです。

 ですから、三浦氏の議論を「内在的」に理解するためには、どうしても、このDの流れの悪さの原因を突き止める必要があります。

 私は、氏の議論に「内在的」かつ批判的に接近するために、氏の議論において隠された主体を、意識的に明確化・明示化する、という方法を採ってきました。

 つまり、「日本JAPAN」と「三浦氏MIURA」(あるいは「三浦<当然>理論」)という主体の存在を摘出し、それによって、かなりの前進が可能となったことを示し得たと思います。

 では、他方、主体としての「米国USA」の位置は、どうなっているのでしょうか?

 私は、この視点からの分析を、今回も追求していこうと思います。

 「米国USA」の存在については、実は氏の議論の中で最も隠されていないもの--明示的なもの--となっています。D-4からD-6までがそれでした。

 では、そうした米国の態度・認識(についての三浦氏による推定)は、D全体の中では、どのような位置を占めているのでしょうか?

 それは、「三浦<当然>理論」を根拠づけるものとして配置されているのです。

 前回は、「根拠づけるものとして配置されているような印象を受ける」と、「印象」という言い方をしましたが、今回は断定して述べることにします。

 というのは、分析的に読み込んだ場合、他の読みようがないからです。

 D-1の②③で「三浦<当然>理論」が、提示された後、D-2およびD-3では、その「三浦<当然>理論」の根拠が無いことが示されます。

 つまり、日米安保条約にも書いていないし、「防衛と基地との交換」という伝統にも反しているし、「 日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない」と述べています。

 ところが、D-4では、「しかし・・・」と始まり、「ワシントンの本当の権力者たち」の認識「米国USA」)が、「三浦<当然>理論」を支える根拠として登場するのです。

 D-5では、「米国USA」の近年の認識の変化の背景が語られ、D-6では、「米国USA」による現在の認識が、推察という形であるとはいえ、三浦氏によって非常にビビッドな言い方で表現されていますね。

 

[ワシントンの本当の権力を持つ人々にとって日本の集団自衛権行使は「当たり前」なので]「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。(D-6)

 

 これは、まさに「三浦<当然>理論」を直接に支える「根拠」とされています。

 そして、集団自衛権の「本質」をめぐる本論は、ここで終了しているのです。

 さて、こうして見ると、議論の本筋は、「三浦<当然>理論」に対し、D-4からD-6が根拠を与えているかどうか、ということになります。

 しかし、その議論に入る前に、D-2とD-3という「小細工」について触れておく必要があるでしょう。

 私は、D全体の論理的流れに妙な不快感(スッキリしない感、納得できない感)を持つと言いましたが、その一つの原因がここにあるからです。

 私は、前々回に、三浦氏の特徴的な「小細工」の一つとして、「後出しジャンケン」を挙げました。そのさらに一捻りしたものとして「先出しジャンケン」というものがあります。

 「後出しジャンケン」は、必勝の手ですが、「先出しジャンケン」は、必敗の手のように見えて、これが曲者です。

 「先出しジャンケン」は、両手を挙げて敗者のようなポーズをとりながら、勝負の本筋から相手の気を逸らし、本筋とは異なる問題設定をすることを通じて、実は自分をより有利な位置におくためのトリックです。

 三浦氏は、D-2において、第1回目の「先出しジャンケン」を行ないます。

 つまり、そこで自らの議論--「三浦<当然>理論」--を、まずは「暴論」として根拠のないものであることを認めています。

 「安保条約に書かれていない」ということが、重要な事実において、「三浦<当然>理論」の欠陥(根拠の無さ)を示すものであることは明らかだからです。

 また、「防衛と基地との交換」の「伝統」も、安保条約上の明文規定に対応した重要な事実であり、それは三浦氏がいうところの「相互主義」と相互利益が、日米間においてそうした「防衛と基地との交換」という形で古くから存続してきていることを語る重要な事実です。つまり、それが「三浦<当然>理論」の重要な欠陥(根拠の無さ)を示すものであることも明らかです。

 ですからここで、まずは「暴論」として敗北のポーズをとったのが、第1回目の「先出しジャンケン」です。

 ところが、D-3で第2回目の「先出しジャンケン」が行なわれると様子が変わってきます。

 氏は、そこで「 ですから日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない」と書いています。

 「正面きってはおっしゃらない」というのは、客観的には「何の証拠・証言もない」ということを意味しています。

 ですから、ここでも「三浦<当然>理論」の根拠が存在していないことを、認めているということができます。

 しかし、通常の文章表現としては、これは全く逆の意味を持ちます--それは「本音においては(「三浦<当然>理論」に近い何かが)存在する」ことを示唆するものです。

 つまり、この第2回目の「先出しジャンケン」は、負けたような振りから、実質的に攻勢に出ているのです。

 しかもこの第2回目の「先出しジャンケン」が出された時点では、第1回目の「先出しジャンケン」の意味は、最初に意味していた敗北のポーズの機能とは全く異なったものとなっています。

 いつの間にかそれは、「日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロ」が「証拠・証言」を提出できない理由を与えるものとして機能しています。その結果、「どこかに本音が存在しなくてはならない」とする氏の誘導を、抵抗なく受け入れさせられることを準備するものとなっているのです。

 D-2およびD-3にあった重要な証拠・証言の不在という重要な事実が、2回の「先出しジャンケン」というトリックによって、何か重要ではないもののような印象に誘導され、どこかに存在するはずの本音こそが重要である、という心理状況が作り出されるのです。

 このような心理操作は、あくまでトリックですから、人を完全にスッキリと、腑に落ちたような状態にまで、説得しきることに成功することはできません。

 しかしまた、文の繋がり自体はそれなりに辻褄が合ってつながっているように見えるので、何がおかしいのか、なかなかわからないのです。そして、このトリックの正体が掴めるまでは、何度読んでも解決できない、妙な不快感が残ることになります。

 もっともこのトリックがわかってからも、このD-2とD-3は、読むと頭が混乱し、不快感が募ることは変わりません。

 従って、D-2とD-3については、私としては、それらは客観的には「三浦<当然>理論」に関して、重要な根拠の不在を語っているものである、ということを確認して、そうした主旨を反映するための修正を次のように行なうことを提案します。 

 

D-2'. もちろん、そんなこと「三浦<当然>理論」の根拠は、日米安保条約のどこにも書いていませんし(むしろ、安保条約の規定はこの「理論」を否定するものです)「三浦<当然>理論」は、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する根拠のない議論で暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3'. ですから、また日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはも「三浦<当然>理論」を根拠づける証拠・証言をおっしゃらない。

D-4'. しかしそこで、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識を、ここで申し上げていること「三浦<当然>理論」と大差ないはずですもの、この「理論」に根拠を与えるものとして推察することにします 

 

  ただ、今回のこの修正提案は、三浦氏の意図に忠実に沿ったものではなく、逆に氏の意図(トリック)に逆らって、客観的事実を確認したものです。

 でもこうすると、私としては、かなりスッキリしてきました。これでいよいよ、D-4(D-4')からD-6までが、「三浦<当然>理論」の根拠となっているかどうかを議論するところにやって来ました。

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 またしても、「氏の度し難い『権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属』を明らかする」作業が本丸に到達するのは、次回延ばしとなってしまいました。

 あきれずに、おつきあいいただければ幸いです。