hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「落選運動」と統一戦線運動

 昨日(21日)、国会前の反戦争法制の集会に参加してきました。毎週木曜行なわれる予定の第1回でした。チェックを完全にしたわけではないですが、残念ですが、今朝の新聞などにはほとんど載っていないようです。 

 2013年末の秘密保護法反対闘争の時を思い出します。今日の論点に絞って一つだけを書きますと、あの時は、何人かの市民が、国会前の集会の人々に自公の国会議員の電話番号リストを配りながら、「議員に『反対しろ』との圧力をかけよう」と呼びかけていました。大組織のメンバーという感じではなく、いかにも危機感から必死にやっている感じです。この時は、ネットでも同じことが熱心に呼びかけられていました。この方法は、アメリカの市民運動でその効果が直近で示されたものだということでした。法案が成立した直後も、秘密保護法への賛否を記した議員名リストが新聞に記載されるなどがありました。 

 「我々は、こんな法律を通した議員は絶対許さない。そういうやつは、次の選挙で絶対落とすぞ」ということです。

  いわゆる「落選運動」というものですね。確かにこれは、すごい効果があると思います。仮に「落選運動」の対象とされた候補者の2割が落選したとします。そうすれば、次の選挙では、その他の候補者も自分がその2割に入る可能性を考えて行動せざるを得ないでしょう。と考えれば、実際の落選者数のおそらく3倍近くの効果、この場合であれば、6割近くの候補者に影響を及ぼすことができだろう、と私は想像します。

  アメリカの市民運動では、実際、そういう効果を持ったのでしょう。日本の運動がそれに倣って、すぐの効果を得ようとしたのは、ある意味では、安易かもしれません。しかし、ともかく必死だったのです。どうしても秘密保護法をストップしなければならない、と。

  しかし、次の日本の衆議院選挙ではどうだったでしょうか。「落選させるべき議員リスト」に載せられた結果落選した議員は一人でもいたのでしょうか。一人もいなかった、というのがあたってないとしても、リストの効果で落とせた、といえるケースはなかったのではないでしょうか。あえて皮肉な言い方をすれば、「再当選用議員リスト」になってしまいました。

  「落選運動」は、もう誰も言わない戦術となりました。昨日の集会でも、賛成議員を落とせ、という、怒りをストレートにその議員、選挙にぶつけようとする「落選運動」を呼びかける声は、もちろんありませんでした。

  条件が違うところでは、ある戦術が功を奏したり、逆だったりするのは当然です。だから、日本では「落選運動」は間違いだったのでしょうか。

  そうではありません。先に書いたように、日本の「落選運動」は、どうしても秘密保護法を通してはならない、という強いパワー(願望)の表現だったのです。戦術レベルで考える以前に、そのことを理解しなければなりません。さらに、その上で戦術レベルのことをいえば、それは、統一戦線形成への強いパワー(願望)でもあった、として理解されなければなりません。

  もし、2014年の衆議院選挙で、沖縄のように反自公統一候補を立てることができたら、「落選候補リスト」の1割を落とすことが可能だったかもしれません。私は、選挙事情のようなことは詳しくないので、この1割というよな数字が正しいか、もっと大きいか小さいかは、分かりません。でも、小さい数字だとしてもともかく一定の成果があれば、この運動が持つパワーは、特定の戦術ということを超えて、さらにアップしていったでしょう。

  私が言いたいのは、政治的危機でもあり政治的チャンスでもあるその時々において、生ずる強い民衆的パワー(願望)を正しく捉えて、それを拡大していくのが、反ファシズム運動の核心だろうと言うことです。それが、統一戦線運動です。

 その意味で、あの2014年初頭の反ファシズム勢力として統一すべきであったにもかかわらず、宇都宮と細川の2つの陣営に分裂して行なわれた知事選は、かえすがえすも残念でした。私も私の身の周りでも、少なくない人達がパワーを奪われた、非常にがっかりしたことでした。

  これからの反戦争法制の運動が、本当に広い人々の願望に応えてパワーを拡大していくのか、それがその成功にとっての鍵だと思います。

「天皇問題」の実践的重要性

 21日付けのブローグへのコメントで天皇の行動の評価について質問がありました。前にも記した通り、このブローグは、友人の友人の範囲を想定していますので、気楽に、質問、ご意見ください。

 象徴天皇制の問題は、統一戦線を形成する上で重要な実践的問題であり、したがってまた重要な理論的問題です。今回は、私の持っている答を述べるのではなく、何でこの問題が重要なのかを説明します。

 天皇の慰霊について、「天皇の気持ちは分かるが、ああいう行動は安倍政権に有利に働くだろう」「慈悲深く素晴らしい天皇というイメージを人々に与えるから」という言い方は、原則的な立場を表明しているようですが、実際のところは、非実践的な評論です。

 では、天皇に何と言いますか?「政治的行為だから、慰霊は止めなさい」というのでしょうか。それがだめなら、マスコミに「報道するな」というのですか。それとも、「どうしようもないが、我々だけは無視することにしよう」ということになるのでしょうか。

 慰霊は確かに利用されやすいですね。では、東北への地震被害者への見舞いはどうでしょうか。これも「止めろ」と言いますか?「憲法に明記されたこと以外は一切やってはだめ」と言いますか。誕生日等のメッセージはどうですか?あるいは、「慈悲深く素晴らしい天皇というイメージを持たされた人々」と連帯の可能性はないのですか?

 私も、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯する等と言いながら、少し意地悪な言い方をしますが、「あなたの気持ちはわかるが、私はどう行動したらいいかわかりません」「感情を共有すればいいのですか」ということになりますね。

 私達は現在、君が代、日の丸の押し付けや天皇の政治的行為という憲法違反に対しては、批判、対決すべきである、という姿勢を一貫させています。しかし、それ以外の「天皇問題」はなるべく「ふた」をしておこう、という「方針」を持っていて、理論的検討は、ほとんどしていないように思います。それが実践的に正しい、原則的な態度でしょうか?

 過半数の有権者を味方とすることを視野に入れるならば、上記の問はすべて理論的かつ実践的な問題ではないでしょうか。

 あるいは、私達自身が戦後70年をどう総括するか、という問題において象徴天皇制の問題は避けられません。そして、その総括の上に私達の行動があるべきではないでしょうか。

 海外での報道でも、安部首相の言動と対比するような形で、皇室の言動や写真が掲げられたものを見かけます。このようなものがどのくらいあるのかは、わかりませんが、特に戦後70年である現在、世界史の中で日本を見るような眼を持つ人々にとって、このような対比が現れてくるのは、事実の反映で自然なことだと思います。感情論から距離を置くためには、そうした外からの目も役立ちます。

 もちろん問題は、外国の報道機関にどう理解してもらうか、と言うことではありません。私達自身が、感情のレベルから、理論、歴史的視野を持って、行動のレベルに議論を広げなければならない、と言うことです。

 この問題は、答を探っていくうちに、さらに非常に根が深い重要なものであることが、明らかになってきます。今日はすでに長くなったので、それは次回以降にします。