hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「俺様ルール」の不思議--「遅れた」日本、「進んだ」日本(2)

 山崎氏の指摘する「研究者は政治的な発言はするべきでない」という「意味のわからない『俺様ルール』」の正体は、何でしょうか。

 それは、日本社会にある同調圧力だと思います。よくいう「空気」というのも同じです。

 私が、「永続市民革命(4)」で述べた「抑圧の文化」も同じです。

 「抑圧の文化」の特徴は、それが政治権力的な性格を持ちながら、中央の最高権力が直接人々を抑圧するのではなく、社会が、周りの人々自身が、抑圧を行なっているかに見えることにあります。

 ここでの抑圧は、法的な根拠を持つものではなく、「同調圧力」「空気」「俺様ルール」として、文化現象のごとくもたらされます。

 本来的に同じレベルにあるはずの中で、強権的なタイプの人が他の人々を抑圧したり、一定の権限を与えられたリーダーがその権限を超えて抑圧的な力を及ぼしたりします。

 それは、マイナーな文化現象ではなく、構造的な権力の一部として、重要な権力的な作用を持っているのです。

 私は、こうした「抑圧の文化」の存在は、ヨーロッパ先進社会には存在しない、日本社会の「後進性」を表すものと考えます。

 日本社会の「後進性」という議論は、おそらく1960年代ぐらいまでは、論壇のテーマでしたが、エズラ・ボーゲルが1979年に「Japan As Number One」を書いてから、全く見向きもされなくなりました。

 しかし、私達が市民であろうとする時、どうしてもこの後進的な「抑圧の文化」とも闘わざるを得なくなります。 

 「永続市民革命(4)」で、「問題の切実さ」「それを解決しようとする危機意識」が、市民を作り出す、と述べました。

 今私達は、戦争法強行採決の危機に対して、市民として立ち上がりつつあります。

 「俺様ルール」、「同調圧力」、「空気」、「抑圧の文化」は、私達の市民としての立ち上がりを邪魔しようとするものです。

 当然、私達の運動は、こうしたものに対抗する運動、そうしたものからの解放を目指す運動でもあるのです。

 私は、同時に、私達の運動を支えているのは、広範な国民の中にある平和意識、平和を希求する意識だと考えます。

 それは、このブローグで度々述べてきたように、2度の大戦を経て得た悲惨な体験とその反省によって作られてきた、世界的な平和のための努力と制度の成果です。

 様々な問題を抱えながらも、憲法を基礎とした戦後70年の歩みは、平和を目指す世界の中で、「先進的」なものであり、そこに形成されてきた平和意識も「先進的」なものです。

 私達の運動は、「先進的な」日本を守り、発展させ、同時に「後進的な」日本からの解放を目指す、市民革命の運動といって良いでしょう。

 

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