hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

歴史のすばらしい贈り物--日本国憲法(VI)--(4)保身の宮沢俊義教授「8月革命」論

 かなりしつこく、宮澤「八月革命論」を続けています。 

 私の基本的意図は、この間および今後も、安倍政権、ファッショ勢力が壊憲のための行動を続けることは明らかなので、それにきちんと抗する護憲の構えを構築しておきたい、ということです。

 この護憲の運動は、今なお続いている「未完」の市民革命という性格を持っていると考えます。

 そして、その運動が前進するためには、当然その主体がしっかりしたもの、主体としてしっかり意識されたものでなければなりません。

 こうした角度から敗戦時に市民革命があり得たのか、という問いについて考えることも必要だと思います。

 そうした観点からいうと、宮澤の「八月革命論」は、この市民革命の主体の問題を理論のレベルでも、現実政治のレベルでも、うやむやにしてしまうものでした。

 そのことを、今回は論じます。彼のいう革命とは、

(D-1)敗戦という事実の力で国民主権主義が採用された。これは神の政治から民の政治へという革命(「八月革命」)である。

 ということでした。ここには、革命の主体が存在しません。あえて言えば、「敗戦という事実」が革命の主体です。

 でも、これはウソですね。「敗戦という事実」などというものが革命の主体になれるわけがありません。

 まず、主権ということについていえば、ポツダム宣言を受諾した時に、日本の主権は失われたのです。このことをあいまいにしてはいけません。

 ここで同時に強調しておくべきことは、日本の主権が失われるに至った根本責任が、絶対主義的天皇制政権、それを支えたファシズム勢力にあることです。

 そして、さらに同時に強調すべきは、ポツダム宣言を受諾し、その後の占領軍の統治を受け入れ、あるいは占領軍と交渉した責任主体も、この昭和天皇自身を頂点とする絶対主義的天皇制政権の構成者達であったことです。

 よく「戦争責任」という言葉が使われます。それはもちろん大切ですが、「主権喪失責任」「新憲法発効時までの占領軍に対する従属責任」の問題も劣らず重要です。それは、まず天皇を頂点とする絶対主義的天皇制政権の構成者に帰せられなければならない、ということを強調しておきたいと思います。

 宮澤の「八月革命」だと、こうした責任の主体も消えてしまいます。

 そしてまた、国民主権を唱え、実現する主体も消えてしまうのです。

 「革命」等といういさましい言葉が使われているために、実際には全く逆の効果が、その時も今も発揮されているのが隠されてしまいます。

 新しい憲法を帝国憲法の改正手続きによるべきか否か、という問題は、一見テクニカルに見えるかもしれません。

 しかし、この単なる手続き問題のように見えるところに、民主主義のあり方、敗戦後という歴史の新たに出発点のあり方における重要な論点があったことを、宮澤や当時の政府官僚たちは知っていたのです。

 彼らは、レトリックは別として、国民に対し、国民主権の新憲法の「革命性」を実感させたくない、主権者としての国民の本当の革命につながるパワーを実感させてはならない、と考えたのです。

 もし、新憲法を帝国憲法改正によらず、直接それ自体として誕生するという形をとることになったとすれば、何が生じたでしょうか。

 1946年の衆議院選挙は、帝国憲法下のものではなく、憲法制定議会(いわゆる制憲議会)選挙として、実施されることとなったでしょう。

 しかし、この選挙を通じて成立する新議会は、新憲法制定を主要な任務とするものですが、それに止まらず、占領軍権力を除けば、民意を代表する日本における最高権力として、貴族院を廃止し、天皇制を停止し、既存の政府をコントロールし、改革し、それまでの(特に、さしあたっては、ポツダム宣言受諾後の)政府の統治行為の正当性を吟味する役割を持つものとなっていたでしょう。

 国民や議員候補者の中に、もともとどの程度こうした自覚が存在したかは別として、理論的には、そういうことになる、従って、選挙の前にそのように説明せざるを得なくなる、説明すれば、そうした自覚が少しでも高まってしまうこととなる、それを、体制内の人々は恐れたのです。

 これは実は、「革命議会のようなもの」ですね。私が、「ようなもの」というのは、「革命議会」は、革命が起きた後、あるいは革命の中でできてくるものですが、この場合は、革命がないのに、理論的に想定された議会の役割が革命的だからです。

 次回に続きます。