hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

皇室の慰安、慰霊の意味--反安倍ファシズム

 少ししつこいですが、前回の議論、分かりにくかったかもしれないので、次のようにまとめておきます。

 

従来の憲法第1条の解釈

「この憲法が規定する天皇は、国家権力の淵源を模するという意味で、国家の象徴であり、古来からの国民共同体の絆を強化するパワーの淵源を模するという意味で、国民統合の象徴である。これは、前文で述べた国民の意志と矛盾すると見えるかもしれないが、主権を有する国民があくまで「模する」という範囲で許可・要請したものであり、天皇の職務が実質的なパワーにならないように、主権を有する国民は、自らの主権を実質的に保持するための制度・装置を、この象徴天皇制の中に組み込んでおく。」

 

私の憲法第1条の解釈

「この憲法が規定する天皇は、前文で表明した国民の意志(国民主権と平和権・平和主義)に基づく国家の象徴としての役割をはたすものであり、同じく前文で表明した国民の意志に基づく国民統合の象徴としての役割をはたすものでなければならない。このことは、この地位にあるための必要条件である。以下の条項で述べるように、この象徴天皇制の具体的な内容は、前文で述べた国民の意志によって成立する国家権力や国民統合を超えるような権力を模する要素を含んでいるので、本条自体が矛盾を含んでいると見えるかもしれない。しかし、まず矛盾を含まない領域は広くあり、そこでは、象徴天皇は、この新しい憲法の原理(前文で宣言された国民の意志)の象徴でなければならない。また、この矛盾した部分については、主権を有する国民があくまで「模する」という範囲で許可・要請したものであり、天皇の職務が実質的なパワーにならないように、主権を有する国民は、自らの主権を実質的に保持するための制度・装置を、この象徴天皇制の中に組み込んでおく。」

 

 ところで、私が、この「象徴天皇=国家公務員」論を始めたのは、「世に倦む日々」氏が「天皇護憲勢力の拡大・維持に貢献している」旨の指摘をしたことに触発されて、このことを、統一戦線形成の視点からどのように理論化できるか、という問題意識からでした。

 私としては、もともと統一戦線というのは「うるさいことはいわずに一緒にやろうや」という感覚で行きたいと思っていました。前にも述べましたが、ネットを見ると厳格な議論をする人が多いのですが、それは、「一緒にやらない」理由付けの強化につながっているのを感じたからです。

 しかし、「一緒にやらない」理由付けに対し、「うるさいことはいわずに一緒にやろうや」という言い方は、有効ではないことも多そうです。確かに私自身も、他人から「うるさいことはいわずに一緒にやろうや」といわれても、何か、根拠に欠ける気がして、一緒にやろうという確信に至らない気がします。

 必要なのは、異なる様々な意見を、統一戦線という観点から位置づけられる理論的な視点であり、そのような中に位置づけられたものであれば、異なる意見の持ち主同士が、確信を持って一緒に行動できるようになるでしょう。つまり、このように、「一緒にやる」ための理論的作業というものの必要性を感じるようになりました。

 私自身、私の今回の理論化(「象徴天皇=国家公務員」論)によって、皇室の行為の意味について、すっきりしてきたことがあります。

 天皇と皇后が、福島に慰問に出かけ被害者と向き合う時、あるいはサイパンに慰霊に出かけ平和を語る時、それは、国策の犠牲者に対する慰撫であって、それを通じて、さらに国策を容易に推進することに貢献するものである、とか、結局のところ、天皇の反人民的「超権力」を含めた体制の権力を強化することにつながるもの、とかいった批判は、理屈上は可能だろうと思います。

 しかし実は、彼らの言動がテレビで映し出されることをもっとも嫌っているのは、安倍ファシズム勢力ではないでしょうか。つまり、天皇・皇后が福島における原発による犠牲者を含めた被害者達と膝を交える姿は、原発再稼働を告発する強力なメッセージであり、太平洋に花を捧げ、平和を語る二人の姿は、やはり、強力な護憲のメッセージとなっているのではないでしょうか。

 それは何故でしょうか。彼らのメッセージが、一般的な慰安、慰霊ではなく、そして安倍が進めようとしている国策称揚ではなくその批判へと向かっているように見える(おそらく実際にそうした批判の効果を発している)のは何故でしょうか。それは、私が提起したような、彼らが憲法原理を積極的に表現するところの象徴天皇(制)であろうとしたことに起因しているといえるのではないでしょうか。

 以上の理解が、統一戦線(護憲)の運動において、天皇をどのように位置づけるか、その影響をどのように位置づけるか、ということを考える上での重要な一部を構成しているを思います。

 議論がどんどん展開していき、次回以降に論ずべきことが、山積みとなってきました。