hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

もっと統一戦線の議論を--澤藤氏のブローグ

 

 少し長くなります。引用がある時は許してください。

 大阪市廃止住民投票に関して、澤藤統一郎氏が次のようにブローグで書いています。

澤藤統一郎の憲法日記(http://article9.jp/wordpress/2015年5月20日) 

 

常識的には、「体制擁護の自民党」と「反体制の共産党」の二極を軸として、いくつかの政党がバラエティをもって並立する。この二極を基軸として、政治課題全般がせめぎ合う。ところが、今回、市民を真っ二つにしたテーマで、自・共が共闘しているのだ。

この共闘現象を「反ファシズム統一戦線」になぞらえて説明してよいのか。実のところ、よくは分からない。橋下的なポピュリズムが不気味で警戒すべきものであることは明らかだが、ファシズムないしはその萌芽と規定できるほどのものであるかは分からない。分からないながらも、指摘できることはいくつかある。

 

  そして、この日の結論は、次のようになっています。 

保守陣営の中での「地方の反乱」の芽は確かに育まれている。はからずも、今回沖縄だけでなく大阪においても、自・共の共闘までもが可能であることが教えられた。このことも、きわめて意義の深い教訓である。

  澤藤氏のブローグは、「改憲への危機感から毎日書き続けています」と説明があります。それで実際毎日、更新、アップされているのですから、驚きです。かなりの長文で非常に分析的で、かつ資料もちゃんと丁寧に書き上げて、私の小学生の感想文のようなものとは全く違います(この表現は私もしくは小学生を卑下するためではなく、氏の文章との対照を強くしようとしたためのものですので、悪しからず)。

 文章を書くことを仕事としている人間ほど、氏の作業がどれだけの時間や能力、努力、さらにこれまでの蓄積といったものを必要としているかわかるはずです。

 氏は、地域でも街頭に立って、改憲憲法破壊)の危険を演説し、ビラをまき、弁護士としての諸活動(法廷での弁護活動、法律家の集会参加、様々な媒体への執筆)前々回の都知事選では宇都宮けんじ候補の選対の事務局長を務める等、とっても実践的な人です。

 一つ一つ、慎重で論理的です。弁護士という職業柄もあるのでしょう。内面が燃えているときほど慎重で論理的であろうとされているように思います。こういう人に弁護士を頼めるなら、勇気百倍ですね。

 私などが連帯というような言い方をするのは口幅ったいのですが、敬意を込めて、一市民として反安倍ファシズムの闘いをご一緒させてください、とお願いします。

 でも、統一戦線の主張に関しては、慎重すぎるというのが私の正直な気持ちです。

 私が友人に、「何故、安倍政権に対する反安倍ファシズム統一戦線がほとんど話題にならないのか」と疑問を述べたら、「ファシズム的なものの崩壊の過程を研究する必要がある」と言われました。彼は物理学者ですが、いかにも研究者らしいですね。

 私は、統一戦線の歴史の研究から学ぶことはおそらくいっぱいあると思います。しかし、今、私が統一戦線ということばを使っているのは、昔の経験に学べ、ということではないのです。 

 むしろ、逆に少しでも近年の成功例を、統一戦線という観点から学ぼうということです。私は、近年のヨーロッパにおける極右政権防止がなされているのは、基本的に、様々な意味での統一戦線にあたるものの形成のおかげだと考えています。

 ところで、すでに長くなっていますが、前回のブローグへのコメントで、橋下市長の大阪都構想とは何か、という質問があります。その答えも、この澤藤氏のブローグの中にあるので引用します。私もそのとおりだと思います。

大阪都構想なるものは、実は新自由主義構造改革にきわめて親和的である。というよりは、財界が求めてやまない道州制実現の橋頭堡として位置づけられたものである。その意味では、中央資本にも政権にも都構想は歓迎すべき政策なのだ。道州制とは、道洲に福祉や教育などの金のかかる住民サービスを押しつけて、国の荷物を軽くしようとするもの。当然に各道州間で大きな住民サービスの格差が生じるが、中央資本にとっての負担軽減策として断然有利になることは明らかなのだ。

 ただ、少しそれるようですが、橋下市長は本質的なところで、大阪都構想に関心はないと思います。石原慎太郎前知事を思い出してください。彼が辞任した時は、もう都政には関心を失っていました。というか本質的なところでもともと都政には関心がなかったのです。ファシストにとって、地方行政は代替的な満足を与えることがあっても、本質的な関心は国政に向かい、国政といってもなかんずく、戦争、軍事、対立的外交、それらに伴う国民の権利剥奪体制整備といった方向に向かうのです。

 橋下市長も、大阪都が実現した場合、個人的権力発揮の機会としては満足が得られたかもしれませんが、行政的な意味で大阪都建設の仕事に邁進し、それを持続したとは思いません。大阪都構想を宣伝している最中に、どこまで自覚あるいは計画があったかはわかりませんが、それは彼にとっては手段であって目的ではなく、ある時点からは、よりはっきりと国政に向かっただろうと想像します。

 最後のことを含め、私の議論を整合的に行なうには、ファシズム、統一戦線、新自由主義、いずれももっと説明が必要です。象徴天皇制論も、その中の重要な一部です。それらの議論は次回以降、というか、このブローグの持続的テーマとします。始めた時は、こんなスタイルになるとは思っていなかったのですが。