hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

志位委員長と知的誠実さ--歴史を直視し、対米従属を確証し、その意味を純朴に語ること

 共産党の志位委員長の党首討論(5月20日)でのポツダム宣言、国会質疑(26日、27日、28日)での戦後史における対米従属史を扱った議論がネット上で話題となっています。

 「世に倦む日々」氏が28日の質疑を30日付のブローグで以下のように絶賛しています。

 

私も、録画を見ました。すばらしかったですね。

www.youtube.com

 

 歴史の重みと、彼の指摘する政府の対米従属の深さを証する議論は、違和感なくビビッドに、かつ冷静に、溶け合って、もう一度私達の目の前にある政府の従属性、政府の提出している戦争法制案の対米従属性を、疑いようのないものとして提示しました。

 政治的闘争において、味方の指導者が敵方の指導者と一対一で対決する場が与えられた時、理性、論理、言葉による勝利が極めて重要であることは言うまでもありません。

 志位氏の圧勝です。安倍首相の卑小さと比べられるようなものではありませんでした。

 是非皆さんも、少し長いですが、上記のビデオをごらんください。

 関連して、研究者として述べておきたいことがあります。

 このブローグのメインタイトルである、「知的誠実さ--歴史を直視し、対米従属を確証し、その意味を純朴に語ること」です。

 「世に倦む日々」氏は、別の日(22日)のブローグで、志位氏が誠実に議論しているということと、志位氏の知的、政治的優位性とは一体的な関係にある、ということも指摘していて、私ははっとさせられました。

 では、もし、政治家にとってその知的、政治的優位性が、誠実な議論と一体のものであるなら、社会科学研究者にとって誠実な研究とは何だろうか、ということです。

 誰でも研究者なら、私は誠実に研究しているというでしょう。それは、研究対象とか研究分野を限定した後、先生が教えてくれた研究方法やその分野の学界で認知された分析方法の約束事を忠実に守る、という手続き論的な意味です。

 私は違うと思います。もっと根源において、個々人の研究者が研究対象や研究分野を超えて存在する事実の重さ、歴史の重さに対する謙虚さを持ち、それらの追究を行なうことこそが研究者の知的誠実さだと思います。

 研究対象とか研究分野の限定や、先生の教えてくれる研究方法や、学界での分析方法の約束事は、そうした個々人による研究者の根源的な事実や歴史の追究のための手段であり、また同時にそうした追究による成果、蓄積です。

 形式的に先生の教えに忠実であるから、学界の約束事に忠実であるから知的に誠実であるわけではありません。手続き的な誠実さは、知的誠実の本質を表しているわけではないのです。

 対米従属という現実、対米従属の戦後史、これは、日本の社会科学者が方法、分野を超えて向き合うべき事実であり、歴史であると思います。

 「世に倦む日々」氏が時々指摘していることですが、今の「反体制的」アカデミズムのスタイルとなっているポストモダーン派の人々は、そもそも歴史を志位氏が行なったように率直に直視する、ということをしません。そういう率直さを馬鹿にするのが高尚なポストモダーン主義者の特権(?)のようです。

 歴史研究者も、細々としたことを「実証」するのが仕事と考えている人が少なくないように見えます。

 政治学者はどうでしょうか。彼らの多数は、必ず「対米従属」の定義を問題にして、議論を煙にまいてしまうでしょう。

 対米従属という事実は、官僚、政治家、さらに一般国民も含め、多くの者にとって見たくない事実であり、したがって見えないことにしたい事実です。それを、今の多くの研究者の状況は反映しているのです。

 しかし、やはり、事実や歴史そのものの重みに対し謙虚さを持つことなしに、社会科学は軽薄なものにならざるを得ないように思います。