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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

永続市民革命(1)

 「世に倦む日々」氏が、60年代安保闘争を、市民革命として評価する議論をしています(「岸内閣を倒した60年安保 - 突如として起きた市民の大爆発(丸山真男)」)。

 実に鋭い提起です。同年4月、韓国の李承晩政権が退陣デモによって倒壊、ハワイに亡命、といった事実が並べられています。

 質が異なるとはいえ、前年の1959年には、キューバ革命が起きています。

 この1959年には、米軍基地測量をめぐる砂川事件の地裁判決と最高裁判決が出されています。最高裁判決前に、最高裁長官がマッカーサー米駐日大使とこの判決について会談していたことも知られています。 

 1960年に爆発した日本における反政府運動を目の前にした時、日本の政治に直接関与してきたアメリカが、極度に神経質になっていたことは明らかです。

 安保条約法案自体は、1960年6月自然成立します。アメリカにとって、特別な理由がなければ、安保成立という、与えた任務を果たした政権を続けて支持するのが当然であったでしょう。岸首相は、右翼的強権的で、アメリカにとって好都合な人物であったのです。

 しかし、自然成立後に、岸内閣は退陣します。 

 国会の周りに何十万と集まった市民達は、日米の支配層の意図と対峙するものでした。そして右翼強権的政権の持続をあきらめさせるという、重要な成果を勝ち取ったのです。

 この年の末に、アメリカでケネディ大統領が誕生します。彼は、「反共」政策、冷戦構造を保持しながら、政治・軍事面だけではなく、ソ連との経済成長競争、福祉国家主義的な競争を意識した、国際的な政策を掲げるようになります。

 その著書『経済成長の諸段階』で、「非共産主義宣言」を行なった経済学者ロストーがケネディの顧問となり、世界で「開発独裁」が横行します。

 少し前後しますが、日本で「もはや戦後ではない」という経済白書が出されたのが1957年です。東京新聞の記事によると、このフレーズは、「すでに経済回復した」という意味よりも、「経済回復の動因としての、従来技術による経済成長の余地は尽きつつある」「新たな経済成長は、イノベーションが必要だ」ということだったそうです(「甦る経済秘史」2015.6.2)。

 また、安保闘争の直後、日米の学者達による「日本の近代化について」国際会議(いわゆる「箱根会議」)が開かれて、日本の近代化が発展途上国の開発のモデルとなる可能性について議論されています。

 私が、安保闘争に直結しないようないくつかの事件を挙げているのは、「世に倦む日々」氏に触発されて、安保闘争の意味を当時の国際的、国内的な政治的文脈の中で、捉えてみたいからです。

 もし、岸首相のデモ隊に対する自衛隊出動の要請が実行されたとしたら、もし、安保成立後も岸政権が続いていたとしたら、確かに日本でも、それが開発独裁政権として君臨していた可能性は否定できないように思えます。

 今日私達は、戦後史を当然の流れのように受け止め、1960年代の経済成長というフレーズをお約束のように受け止めますが、考えてみますと、1950年代は松本清張が『日本の黒い霧』で描いたような、国家が関与する大きな政治的事件が、いくつもありました。いわば、発展途上国と同様の権力犯罪が時々勃発し、そうした暗部を抱える政治環境が目に見えるものとしてあったのです。

 1960年の日本は、安保条約の中身に積極的に協力し、改憲を目指すことになったであろう開発独裁への道へ行くのか、安保条約の下といえども、民主主義と平和に志向した道を選ぶのか、実はこうした岐路に立たされていたのです。

 アメリカもまた、日本を開発独裁国として従属させるのか、民主主義を求める日本の市民に譲歩するのか、選択を迫られたのです。

 「コロンブスの卵」です。「世に倦む日々」氏の提起は、とても自然に思えます。

 1960年の市民革命は、民主主義と平和の道の選択、アメリカの譲歩を決定したわけです。1960年代の経済高度成長は、こうした選択の下で行なわれてきたという事実を見逃してはならないでしょう。

 今私達の戦争法案反対、ファシズム政権打倒の闘いは、この市民革命を継ぐものです。

 次回以降に議論を続けます。