永続市民革命(3)--「市民」への道
昨日のブローグで、私は、自分の感性で感じ、考えようとする人間を市民の「原型」と言いましたが、「原型」というよりも、出発点、あるいは「素材」と呼ぶのがふさわしいかもしれません。
私達は、誰もが市民の「素材」であり、実際に自分の感性で感じ、考え、そして行動することによって、市民へと「移行」するのです。
このような「移行」、行動の選択は、多くの場合容易ではありません。行動の選択も、意識した冷静な「選択」というものではなく、選ばざるを得ないものとして突きつけられる、というものかもしれません。
秘密保護法反対の中で、一人の男性が抗議の焼身自殺を図ったことを思い起こします。
私達は、市民として連帯し合って集会を催し、集会に参加し、政府に抗議します。
これに対し、彼の行動は、一人だけのものでした。
でも、彼の行動が市民としてのものであったことは明らかです。秘密保護法に強い危機感を感じ、その意味となすべき行動を考え、決断してあの行動を選んだのです。それは、市民としての強烈な抗議行動でした。
60年代安保闘争の時に、樺美智子という学生が警官との衝突の際、警官によって殺されるという事態が生じました。
今日、市民革命という視点から考える時、彼女のいた隊列の学生組織がどのような戦術をとっていたかというようなことは、第一に考慮すべきことではないでしょう。
様々なセクトが自らの正統性を争う中で、安保という国の命運をかけた問題を感じ、考えた一人一人の無数の行動、無数の選択があったのです。
およそ、古今東西すべての革命が、ここで述べているような市民革命という視点から捉えられるのか、といえば私には自信がありません。
というか、おそらくそれは違うでしょう。戦後日本、あるいは今の私達のように、民主主義という課題が切実となっている時、この視点は特別に重要な意味を持つように思えます。