hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

危機が生み出す「市民」--理論的メモ (2)

 この理論的メモでは、①西欧で見られる意思表示する「市民」が何故、日本では多数とならなかったか、という歴史的条件、②そうした中で、現在起きている運動が、そうした条件を乗り越えようとする「革命」的な意味を持っていること、これら2点を議論したいと思います。

 今日は、上記の①日本でデモに参加するような市民が育ってこなかった歴史的条件についてです。

 

 柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」での議論は、次のようにまとめることができます。

 ・日本のポストモダンは、むしろ近代の欠落の結果ではないのか。では、こんなところで近代批判をする意味があるのか。・・・そのとき、・・・私は丸山が立っていた場所に気づいた。それは、日本でものを考えようとしたら避けることのできない場所であった。

 私も非常に共感します。

 ・丸山真男がいうように、日本は「その意味では大衆社会のいちばんの先進国」・・・和辻が、日本人が公共的なものに無関心であり、その意味で「私的」であるというのは、鋭い指摘である。

 では、どのような歴史的過程がこうした特徴を導いたのでしょうか。 

 

・「強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院などの国家権力にたいする社会的なバリケード」を意味するのである。このような社会的次元の抵抗がなかったために、日本では、統一国家の形成が速く、産業化も速かった。・・・そのようなバリケードがなかった日本では、急速な資本主義化が進行した。しかし、それを可能にしたのは、日本に国家とは異なる「社会」という次元が無化されていたことである。

 

 

・明治十年代の自由民権運動は、基本的に、徳川時代にも保持された農村の自治的コンミューンに依拠するものであった。しかし、それが壊滅させられたとき、人々は政治的現実を斥ける「私化」に向かった。

 

 私の子供時代から高校生時代くらいまでは、前近代的=伝統的=非民主主義的= 封建的というイメージが世間的、一般マスコミ的に強くありました。

 ところが、ここで指摘されているのは、封建制時代の国家以外の国家に隷従しない中間的集団(社会的バリケード)の重要性です。

 明治維新による集権的国家形成とそれに基づく資本主義的発展にとっては、そうした社会的バリケードがなかった(容易に破壊できた)ことが好都合でした。

 しかしそれは、維新後も、自主的な結社形成の機会を奪い、人々を「私化」します。

 

・自立化した個人のタイプは、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合その他の種々のアソシエーションに属しているから、逆に、個人としても強いのである。結社形成的な個人はむしろ、結社の中で形成されるものだ。一方、私化した個人は、政治的には脆弱であるほかない。

 以上が、柄谷の議論です。

 この議論の特徴は、先に自立した個人ありき、では無く、歴史的な社会のあり方から個人のあり方を捉えようということです。

 そしてそうした視点から、非近代的社会にあった自律性を持った中間的諸団体が積極的に評価されます。

 非常に重要な指摘だと考えます。

 しかし、私は、別の要因の重要性、あるいは別の角度から考えることの重要性も指摘したいと思います。

 「日本に意思表示する市民が少ない」こと、「西ヨーロッパスタンダードの民主主義から見て、日本の民主主義が『遅れている』」のは、重要な歴史的経験の欠如という要因があります。

 それは、2つの革命の欠如です。

 第1は、市民革命の欠如です。イギリスのピューリタン革命、名誉革命、アメリカの独立革命フランス革命が典型です。それらでは、人民(市民)のパワーが最高のものとして発揮され、記録されました。

 第2は、西ヨーロッパで見られた第2次世界大戦後の社会民主主義「革命」です。これについては、おそらく私しか言っていないことなので説明が必要です。

 これは、ソビエト革命に対する「対応革命」であって、時期は特定できませんし、市民的な革命的運動の直接的結果でもありません。

 西ヨーロッパは、第2次世界大戦後、ソ連との福祉競争と政治的自由競争を強いられました。同じ大陸において、思想、情報が飛び交い、それらは政治的な意味を大きく持っていました。

 ソ連に負けない失業のない経済、労働・生活条件の改善、ソ連の政治的不自由に対する、自由と民主主義の喧伝は、西側諸国家にとっては、最大命題であり、全力で実行したことです。

 それは西側社会において、市民革命の遺産を確固たるものにするための重要な条件となりました。

 それは、社会民主主義を唱える政党が政権を執ることによって推進されましたが、保守党的政権においても、後退することができない「スタンダード」を形成しました。

 私が、こうした「スタンダード」の形成を「革命」と呼ぶのは、3つの理由があります。第1は、それが市民革命の民主主義的な伝統を継ぎ発展させる内容を持つこと、第2に、それがソビエト革命に対する「対応革命」的な性格を持つこと、第3に、この「スタンダード」自体、「新しい」ものであり、社会民主主義的な思想に支えられて現実化したものだからです。

 ただ、政治的な大変動が一時期に集中したわけではないために、その「革命」性は、意識されないものとなりました。

 日本でも、福祉国家の形成は進みました。しかし、今日の極端な福祉破壊政策に見られるように、権利としての福祉の意識は定着せず、また、「福祉スタンダード」の形成も極端に脆弱なものに終わりました。

 その理由としては、日本が市民革命を経験しなかったこと、その上で、社会民主主義の政党が政権を執ることのないまま、自民党政権の下での社会的意義付けの不明確なままの「なし崩し的な」福祉の改善が進められたこと、が大きいでしょう。

 同じように、政治面でも、日本では、ソ連等の社会主義との競争においても、民主主義をより実質化していくことによって優位を示すことが不可欠となるような状況は生まれませんでした。民主主義を進めようとする政治勢力が政権を執ることは無いまま、自民党政権は、ただソ連は政治的に不自由だといっていればよい状況が続きました。

 

 ①日本に、意思表示する市民が少ない歴史的条件についての議論は、ここまでです。

 次回に、②現在の私達の運動がそれを乗り越えようとするものであることを議論します。

 

 

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