hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ある敗軍兵士の中国農村での体験

 今日はやや私的な文献を紹介します。

 私の父のおそらく叔父にあたる米村義雄が出版した 『人間の探求』誠信書房[1969]の73-78ページで、「母情無限」というタイトルの章の前半です。

 ほとんど入手困難だと思いますので、そのまま転載します。

 大学の先生(倫理学を担当?)をしていたので、当時の全共闘の世相に対する彼なりの回答を書こうとしたもののようです。

 当時、バリケードの中にいる学生に対し、母親が何かをいい、それだけには学生も反応する、というような、よく語られるストーリーがありました。

 私のキライなストーリーですが、この文章もタイトルからわかるようにそうした文脈で書かれています。後半も、読めばそのことははっきりします。

 私としては、そういう「日本的」な意味づけから離れて、こんな事実があったということを、まずはより広くの人々に知ってほしいと思って取り上げました。

 解釈、位置づけは色々だと思いますが、私の感想は、ともかく中国は広いな、ということです。

 国家と民衆が「一心同体」となるのは、教育やマスコミの力、そうしてできていく社会の力です。

 そうなる以前の社会や個人のあり方を示唆してくれている一つの事実のように思います。

 

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母情無限」 

                                       米村義雄

 

 わたくしが過ぐる太平洋戦争に応召従軍して、中国の奥地で敗戦にあったことはさきに述べた。武装解除をうけて洞庭湖畔の山中の農家に八ヶ月の軟禁生活をすごしたことがあった。中国は大家族主義である。譚という名のつく一族四、五十人の老幼男女が、数多い房にわかれて住んでいたが、わたくしどもはそのなかの三、四の部屋を空けてもらって、中隊の生きのこり三、四十名がそこで暮らすことになった。部屋といっても土間のきたない農具置場のようなところで、わずかに藁を敷いたりむしろでかこったりして恰好をつくっただけのものである。ちかくの山上には中国軍の小部隊がいて、それとなく保護・看視の役にあたり、たまに将校が巡察にくる程度で、さしてきびしい監禁ではなかった。その一族のなかに、ひとりの寡婦と三人の子どもの一家がいた。その寡婦はまだ中年、色がくろく、つねに一まいの野良着にはだしといった程度の貧窮状態であった。きけば前年の日本軍の侵入のさい主人を殺され、十五、六歳の長男は畑仕事のまま投致されて行方不明、それからというものは農民でありながら、あすの米にも、こと欠くありさま。そのうえ自分の名さえ書けない文亡の農婦である。末の子はまだ乳をのんでいた。

 ところがこの泥にまみれた貧農の寡婦が、敗残の日本軍にたいしてじつに親切である。わかい兵隊達が軒端に雨をさけながら、遠慮がちの心ぼそい飯盒のめしをたいていると、いつでも自分の土間のへっついをあけてここを使えと貸してくれる。畑の大根を無断失敬して班長にみつかり、こっびどく叱られている初年兵を見るととんできて、困るときはいつでも食べろと、自分がかねてから呉れている野菜だと、トッサの気転をきかしてかばってくれる。チヨットひまがあると洗濯物を手つだってくれる。とにかくこのようなこまかい心づかいと、暖い思いやりに中隊の全員は深く心をうたれたが同時に小首をかしげた。かりにも敵軍の生きのこりではないか。しかも現在、主人と息子のかたきである。どんな冷たい仕打や意地わるい仕返しをされても、文句のないところである。現にほかの農民たちの示す冷たい目先や態度が、この際いえば当然なことである。それが却ってあべこべのこの暖い同情、思いやりに兵隊たちはすっかり戸まどい、面くらってしまった。当然のことである。

 あるとき、わたくしはひとりの通訳の下士官とともに穴倉のようにうす暗いかの女の部屋をたずねて、かねての厚意を謝するとともに、その心境をたずねてみた。――あだに酬いるに恩をもってするその心持を聞きたかったのである――するとかの女の答はこうであった。

 

 仰せのとおり自分も弱いひとりの女、夜の寝ざめなどには、主人さえ生きていてくれたら、せめて息子だけでも傍にいてくれたら、こんなみじめな思いを子供たちにさせずにすむものをと思うと、つくづく情なく涙にくれることもあるし、グチの出る時もないではない。

 しかしそれだからといってあなた方を憾むいわれはない。また、憾んだからといって、いまさら主人が、息子が帰ってくるはずもない。すべては戦争というまったく手の屈かぬ大事のために起きた不幸であって、誰がわるい彼がわるいというものではない。まったく没法子メイファーズ<仕方がないの意>というほかない。

 それよりも自分としては、息子のような若い年頃の兵隊さんたちが、遠く故郷の両親のもとを離れて、この知らない敵地でいくさに負け、今のようなみじめな毎日をすごしておられる様子を見ると、まことに気の毒でたまらない。親ごたちの心配はもとよりのこと、わが伴(せがれ)を思うにつけても、なんとかして上げたいと思う心がさきにたつけれども、ごらんの通りの恥ずかしい今のありさまでは、なに一つして上げることは出来ない。それが一番の心苦しいことです。どうかみなさんも心おきなく、なんでも自分にいってほしい。自分でかなうことなら、なんでもお手伝させてほしい――。

 

 答の大要は右のようなものであった。わたくしが強いショックを受けたのは当然としても、これを聞く中隊の全員がひとしく頭をたれて言葉がなかった。なかには従軍八年というベテランの下士官もいたが、鬼の自にも涙である。われわれはこの時はじめて敗けた!という実感を味わった。心のそこから「これでは敗けだ――」「敗けたが当然――」の実感を得た。

 若い諸君は戦争を知らない。いわんや敗戦の経験をやである。敵地でいくさに敗ける。これほどみじめなことがあろうか。いわゆる生殺与奪の権をにぎられた敵の前に、敗者のすがたがどんなにみじめなものであるか。所詮は経験なきものには風馬牛である。その冷厳な敵地のなかで、目に一丁字なき文盲の農婦、おまけに主人と息子をとられたかたきの立場に立つこの婦人から、聖人君子も難しとするこの高いすぐれた答を得ようとは、文字どおりのおどろきであった。わたくしとても、それまでの浮生、すこしはものも考え、本も読み、多少はひとの世のために奉仕の歳月もすごしてきたつもりであった。その半生の「つもり」が、多少の「ほこり」が、いまこの婦人のまえに脚もとから崩れ落ちる音をきくようなおもいであった。この中国の山中で「人生」はおよそ既往一切の残滓を洗いおとして、新しい鉱脈のように燦嫡たる光輝のなかにその真相を露呈してくれた。ここにおいて「人生」は論理や理知の対象でなく、ただ真実一路の行路上にあることを知った。

 今日のわたくしはもはや古代人ではないから、かつての砂漠の民のごとく、電光雷鳴のなかに神を発見することはできない。しかし、人生の羈旅の中にたまたま遭遇する「真実」のまえに神の姿を発見することができる。わたくしは幼時から神を教えられて育った。しかし成人し老齢に達した現在は、前述したとおり全能全知の神を必要としない。もしここに脆拝すべき神ありとするならば、人の世の「真実」と「母情」のなかに現われる神のみであることを信じてうたがわない。

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