hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

天皇の政治的行為、発言をめぐって(2)--政府による「天皇の公的行為についての見解」

 一昨日国会前の集会に行きました。そこで一参加者として、SEALDsについての意見をテレビのインタビューを受けましたので、放映される(た)かもしれません。TBSのアタックとかいう番組だと思いますが、それだとラジオなので、うろ覚えです。

 隣のおじさんが、横須賀から昨日、今日と続けて来ていると言っていました。これまでそう政治的に活発ではなかったが、今回はまずいと思って、ということでした。こんな感じの人が多いです。

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宣伝をしておきます。

 下記のように、8月30日(日)、大集会があります。戦争法案を廃案とするため、今から心づもり準備をして、皆で参加しましょう。

 

xn--nyqy26a13k.jp

 

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 今日も、天皇の政治的行為、発言の法的側面を続けて議論します。

 少し丁寧に議論をします。目的は、法的整理を丁寧にしておくことで、議論がわかりやすく生産的になると思うからです。

 そしてさらに実は、それを通じて、法的な枠組みで議論することの限界が明らかになり、運動全体の中で考えていく必要がわかってくると思います。

 先に結論を述べておきますと、第1に、天皇の政治的行為という実質に対し批判の立場を明確にしたいと思います。この批判視点は現在だけでなく、長期的に自覚的に維持すべきものです。ただ、現在の戦争法案阻止の運動の中で、照準を合わせるべき最重要課題とは考えません。

 第2に、政府に対する批判は、天皇に助言・承認などを与えるという作業を果たしていない、ということに照準を合わせるのではなく、政府の現在の深刻な違憲行為(立憲主義に対する謀叛、国民に対するクーデター)を行っていることに照準を合わせます。

 では、政府の見解の検討を通じて、法的な議論を少し詳しく行うこととします。ここでの焦点は、天皇の意志の表示の問題、それに内閣がどう関わるか、ということです。

 ここで引用する資料は、2003年に、衆議院憲法調査会事務局が作成した「象徴天皇制に関する基礎的資料」

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi013.pdf/$File/shukenshi013.pdf

です。

 政府見解では、まず天皇の行為が3つに分類されます。

 天皇の御行為としては憲法上の国事行為、それから象徴としての地位を反映しての公的な行為、それから全く純然たる私的な行為、この三種類が挙げられる、私どもこれを三分説というふうに申し上げているわけであります・・・。 p.15

 そして、この公的な行為について次のように述べています。

 天皇の公的行為、今憲法上の位置づけという御質問でございますが、憲法上明文の根拠はないけれども、そういう意味で象徴たる地位にある天皇の行為、こういうことで当然認められるところである、かようにお答えしてきているところでございます。p.17

 つまり、普通の国民の行動とは異なり、憲法で定めた象徴であることからくる公的な行為というものがある、という形で公的行為という範疇に対し、憲法的な根拠を与えています。

 そして、国事行為が内閣の助言と承認を必要とするのに対し、公的行為はそれを必要としない、とします。

 また、天皇の公的行為というのは今申し上げましたように国事行為ではございませんので、国事行為の場合にはいわゆる憲法に言う内閣の助言と承認が必要であるということになっておりますが、天皇の公的行為の場合にはそこで言う内閣の助言と承認は必要ではない。p.17

 となると、天皇の公的行為は天皇が自由にできるか(自らの意志に基づいてできるか)、というと半分そうで半分そうではありません。次のようにいっています。

 また、あくまで天皇の御意思をもととして行われるべきものではございますが、当然内閣としても、これが憲法の趣旨に沿って行われる、かように配慮することがその責任であると考えております。p.17

 つまり、天皇の意志の存在があるが、それが公的行為として表現される時は、内閣の責任で憲法の主旨に沿うようなものとされなければならない、とされるのです。

 国事行為に比べて、わずかでも天皇自身の「意志」の存在があり、「自由度」が高いものとなっています。それは、国事行為がいわば国家機関としての行為であるのに対し、公的行為は自然人としての行為であることから来ている考えられます(p.15)。

 公的行為に課される制限であるところの「憲法の主旨に沿う」とは何かといえば、次のように述べます。

 それから、若干、限界といいますか、そういう意味のことのお尋ねもあったと思いますが、天皇の公的行為というのは、今申し上げましたような立場で、いわゆる象徴というお立場からの公的性格を有する行為でございます。そういう意味では、国事行為におきますと同様に国政に関する権能が含まれてはならない、すなわち政治的な意味を持つとかあるいは政治的な影響を持つものが含まれてはならないということ、これが第一でございます。第二が、その行為が象徴たる性格に反するものであってはならない。第三に、その行為につきましては内閣が責任を負うものでなければならない。かようなことであろうと思います。p.17

 そして、内閣の責任がどのように果たされるのか、については次のように述べています。

 内閣が責任を負うという点につきましては、その行為に係る事務の処理が行政に属すると考えられますので、憲法65条によりまして行政権の主体とされる内閣がそれについて責任を負うべきことであろう、かようにこれまでもお答えしておりますし、お答え申し上げたい、かように思います。p.17

  これはわかりにくいですが、要するに、天皇の公的行為が実現するは、それを行政が準備するのだから、その時に、天皇の公的行為が憲法の主旨に沿っているかどうかをチェックしろ、それが内閣の責任だ、と言っているわけです。

 従来の政府の天皇の公的行為についての見解は以上の通りです。

 そこで、今回天皇側はこの解釈ぎりぎりのところで、行動したということと考えられます。

 下の2つの記事は、このことを示すものです。(他の点からもたいへん興味深いものですので時間があったら読んでください)。

 

安倍晋三首相が戦後70年談話を前に迷走…裏に「天皇のお言葉」か - ライブドアニュース

 

安倍談話 会見3時間前の「官邸vs宮内庁」緊迫攻防の真相 | ガジェット通信

 すでに長くなっているので議論を急ぎます。

 上記の法的な枠組み(憲法解釈)を維持すると、問題は内閣と天皇のそれぞれの行為が、この枠組みに照らし合わせてどうなのか、という議論の仕方になります。

 実際、澤藤氏の議論は、内閣が事後にでもなされるべき「承認」という行為を欠いていることを批判し、また、天皇発言の違憲性を問題としています。

 しかし、ここで重要なのは、実はこうした枠組みは、一見すると憲法の精神を実現するための装置のように見えますが、そこには解決しがたい矛盾が隠されている、ということです。

 この矛盾は、象徴天皇制自体に内在するものであって、そのことを自覚しないと論理的にすっきりとした議論をすることができなくなります。

 次回にこの矛盾を具体的に示しつつ、議論を進めます。