hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

共感する素敵な言葉

 今日は、運動のあり方、自分が参加する時の気持ち、運動の根拠等について、ツウィートの中から共感したものを紹介します。

 まず、あかりちゃんの言葉、素敵ですね。

 これを見ただけで、自分がこっちの陣営にいて良かった、という気持ちになります。

 

【あかりからのお願い】 終盤戦だからこそ、 内向きの盛り上がりに酔わないで。 自分たちの外側にいる人たちに語りかけて。 感動するのは後でいい。 感慨は5秒で捨てて、冷静に。 あなたの言葉は「いまやっと気付いた遠くの誰か」のためにある。 言葉を外へ。 丁寧に。丁寧に。

 

 
 

 

 次の山崎氏の倫理観にも共感します。

 

「自分たちの番」「幸か不幸か2015年に生きてるんだから」という奥田さんの言葉は、私が抗議行動に参加したりツイッターで何かを書く時の感覚にかなり近い。戦史や紛争史に関連して他国や他時代の非民主的な圧政や独裁制を原稿で分析的に書く人間が、自分の番が来た時に黙るというのは恥ずかしい。

 

 

 私の場合何でデモに参加するかといえば、直接ファシズムや政治の勉強をしてきたわけではないし、そうした研究発表をしたわけではないけれど、社会科学を勉強し、社会科学的分析を発表してきた者として、そしてそのようなことに携わることを職業とした市民としての責任を感じます。また自分が何を勉強してきたか、その重みということについての自分に対する問いかけへの解答、という気持ちも強いですね。
 山崎氏が書いていることとほぼ同じでしょうか。
 ただ、山崎氏は別の時に、他の人に対する責任、未来の世代に対する責任や、平和で面白い人生をくれた過去の世代への感謝の気持ちについても述べています。私は、そういう気持ちは比較的強くないように思います。
 

 最後は、言葉というより思想、あるべき学問像の話です。

 

 

  

憲法学者たちが立憲主義論を講義してくれたときは、心がビンビンというか、踊るように共鳴・昂奮した。大学で学んだことを思い出した。あれはまさに伝統的な公法・政治コースの学問の復権で、社会学じゃだめだよというプレゼンテーションだった。もっと続いて欲しかったが、すぐに社会学方向に堕した。

 

 

 私は、共鳴・昂奮というほどまでは行きませんが、彼の言う学問像にかなり賛成です。

 同じことといってもいいように思いますが、彼は、ポストモダーン(脱構築)に対し非常に批判的ですが、私も同様です。

 ただこれらについては、きちんと議論するだけ整理できていませんので、別の機会に論じます。