hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

天皇の政治的行為、発言をめぐって(4)--その具体的な場面(b)--そして、どう考えるべきか(1)

 天皇の政治的発言は、事実上止めようもないということで、先に昭和天皇の例を挙げました。彼の場合、戦前からの統治者意識が憲法に反して戦後もずっと続いていたことが明らかにされています。

 現天皇の場合はどうでしょうか。国事行為の場合、事前に発言がチェックされ政治的行為、発言は制限できます。しかし、公的行為の中での発言は、公的行為の範囲が非常に広く、その内容を事前にチェックすることが不可能な範囲にあるものが非常に多いと考えられます。

 例えば、2004年10月28日園遊会での発言例です。澤藤氏のブローグからの引用です。

澤藤統一郎の憲法日記 » 天皇制

 

 

2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する  
以下は、朝日の報道。
天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」

共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」

問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。・・・

問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。

・・・天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。

 

  その他、誕生日のメッセージ、今回の終戦追悼式典でのメッセージ、等--改めて引用はしませんが--があります。

 そして事前にチェックがある得る場合でも、国事行為の場合、内閣に「助言と承認」という権限があるのに対し、公的行為では、天皇の人格性(発意)を認めた上で、内閣が「責任を持つ」という弱い権限(つまり、内閣が「責任を持てない」と判断した場合、事前にせよ事後にせよ、それを公的行為・発言と認めない権限)しかありません。

 さらに、天皇自身ではありませんが、このブローグでも議論したような皇后や他の皇室による発言もあるでしょう。

 こうした事例から明らかなのは、天皇の政治的発言は、昭和天皇の場合であれ、現天皇の場合であれ、事実上止めることはできないという現実がある、ということです。それは、象徴天皇制に内在する、人格を以て国家と国民の象徴とするということ、その基本的な矛盾から現象していることです。

 ではこの現実を前にして、天皇制の廃止を目指す共和主義者は、どのようにあるべき論を語り、運動を進めたら良いのでしょうか。

 一つのやり方は、止められないとわかっていても、そうした政治的発言がある毎に、その内容がいかなるものであっても、政治的発言として批判することです。澤藤氏の議論がそれですね。「天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ」。

 このやり方は、約70年前の原点に戻った感じがあります。象徴天皇制は、天皇制維持勢力と共和主義勢力がぶつかりあった時の妥協の産物です。共和主義側としては、絶対に政治的発言はしない(国政に関する権能を有しない)ということで象徴天皇制を認めたのだから、ということです。この主張を曲げることなく、主張しているのが澤藤氏の論理だと思います。

 そして、昭和天皇の意識と行動は、ある意味でこうした「黙れ」という論理の正しさを証明したものといえます。仮に現天皇の意識が異なるとしても、制度として象徴天皇制がある限り、天皇の政治的発言をストップするようにしなければならない、という主張は正しいと思います。

 天皇制的なものは、潜在的に政治的危険を常に持っています。例えば、しばしばタイの王制は、政治的対立がある場合、それを超えて正義を体現してくれるというような、国民の期待(幻想)を担うように機能しています。

 ただ私は、そうした危険を常に忘れずに意識する必要があると考えますが、共和主義者にとって別の対応もあると思います。

 すでに長くなっているので、次回でそれを述べて完結することにします。