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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

反安倍ファシズムのすべての人々の連帯を--SEALDsの評価をめぐって

 このブローグの目的は、「反安倍ファシズムのすべての人々の連帯」です。私は、連帯すべき、連帯できる人々の間に、対立的な状況が起きたら、「それは、ケンカするようなことではないよ。一緒にやろう」と言います。

 現在の戦争法案が参院特別委で不法強行採決されたことが、どのような状況を生み出すかは予断を許しません。

 困難な状況の中でほど、運動の内部では分裂への「誘惑」が高まりますが、本当は逆に連帯を探し求めるべきです。

 このブローグで、私はしばしば「世に倦む日々」氏のツウィートやブローグの鋭い分析、政治判断に賛意を示してきました。

 氏は、最近SEALDsについて批判的な評価をしています。それは、運動全体のあり方とも関係しています。

 私は、連帯を広め、深めることを強く願う立場から発言します。

 第1に、SEALDsに限らず、若い人たちの言動については、基本的に対等であると同時に、時にはやさしく見守るという態度が必要だ、と思います。右翼の若者に対しても、対面的な場でゆっくり話せるなら同じです。まして、仲間であるなら、自由に話せる、行動できる(当然、間違いを犯すことを含めて)という雰囲気をお互いに大切にすべきです。

 上野千鶴子氏がSEALDsの学生のスピーチに関連して、批判を行なう、ということがあり、それに対する反批判というようなことがありました。*1

 それから周りもどちらが正しいか、というようなことではなく、参加したい、発言したいという学生がいた時に、仮に、男女平等についても、あるいは戦争法案についてすら、不十分な知識しかなかったとしても、若者の自由な発言を擁護する、あるいは間違いを犯す権利を擁護する、というやさしい包容力のある態度が望まれるのではないでしょうか。

 第2に、SEALDsの役割は、政治文化論的なものと政治の現実との両面があり、両方を考慮して捉えるべきで、両者を対立的に捉え、後者のみを強調するのは、かえって政治の現実から離れてしまうということです。

 今回の戦争法案反対闘争でのSEALDsの役割で一番大きかったのは、彼らが、事実上政治を語ることが「完全抑圧」されていた日本社会に風穴を開けたことです。

 この抑圧は、一番若者に強くかかっています。が、中年にも高年にも、労働者にも専業主婦にも、強くかかっているのです。

 最も抑圧された若者が立ち上がってくれたことが、日本社会のすべての人々に勇気をくれているのです。

 現在なお、運動への参加者が相対的に若者が少ないのは、SEALDsの力不足のせいではなく、あるいは運動の進め方が稚拙だからではなく、若者が現在なお、最も抑圧されているからです。

 「世に倦む日々」氏は、しばしば小熊英二氏のデモ文化論に言及しています。仮に小熊英二氏の議論が多方面に影響を持っているならば、それは彼がカリスマでからではなく、彼の議論がこの強い抑圧状況に抗する効果的なイデオロギー(見方、用語)を提供しているからです。

 第3に、SEALDsは、運動の知性および未来を象徴する希望の存在となったことです。べき論から見ると、若い知性と活力の源泉であるべき大学が、大きな政治運動から離れて久しい状況にありました。それがやっと、という感じです。

 以上の第2と第3は、研究者や憲法学者が声を上げたことと重なります。研究者や憲法学者達も、学生と同様の役割を果たしているといえます。ただ学生の若さは、何といっても、運動の未来であり希望です。学者達と異なる輝きを持っています。ちょっと違いますが、こどもや赤ちゃんを連れたお母さん達も別の未来の輝きがありますね。

 さて、問題はSEALDsを以上のように肯定的に評価して、それでいいのか、運動はどうなっているのか、ということです。

 反戦争法案の運動は、2つの課題を抱えていました。第1は、日本社会の政治を語ること、それ自体を抑圧する雰囲気を破ることでした。政治を皆が自由に語ることは、欧米スタンダードから言えば当然のことですが、日本の運動はそれから始めなければならなかったのです。この課題は、かなり高い水準で達成しつつあると思います。犠牲的な精神でその達成に貢献したすべての人々に感謝します。

 第2は、本来の戦争法案阻止、ファシズム阻止の闘いです。この点については、私は「世に倦む日々」氏が指摘しているように、ますます困難な状況に直面している事実を認めざるを得ません。この課題に関する闘いは時間との競争なのです。無限に時間があるわけではなく、失敗したらリセットしてやり直せばいいわけでもありません。

 この困難な状況を直視することを避けることはすべきではないでしょう。「世に倦む日々」氏は、次のように言っています。

 

9時間

石川健治憲法学からのクーデター論を政治学に焼き直して、どうすればよいか方向性を出せば、それはストレートに革命論ということになる。「デモ=民主主義」「日常生活の延長のデモで民主主義」という小熊英二社会学の方向には行かない。社会学で政治を考える習慣と性癖をやめることだ。

 

 ただ私は、視点や論点をはっきりと自覚している人々がいるならば、全体として仲間は多様で、言葉も多様なほうがいいと思います。その方が効果的に闘いが進められるからです。

 わずかなチャンスでも捉えて、連帯してファシズムを止めよう、そう真剣に考えている人は、この運動を通じて、飛躍的に増えていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

*1:やはり、まず上野氏には若い人との友好関係を作りながら、その上で持論を投げてみる、というやり方をしてほしかったと思います。

 上野氏が次のようにツウィートしたことがきっかけで議論がなされたようです。

「お母さんがご飯を用意してくれている幸せ」発言への違和感を表明した女性が叩かれたとか。発言した本人にとってはかけがえのない平和の実感だろう。だが「(毎日)ご飯をつくって待ってくれているお母さん」の立場ならどうだろうか。そういう想像力も必要では。 

事実確認もできない学者-SEALDsの足を引っ張る上野千鶴子 1(松沢呉一) -2,122文字- | 松沢呉一のビバノン・ライフ