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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

戦争法反対運動の総括3--「因果性の視点」と「独立性の視点」仮説

 個々の政策が支持されていないのに、何故、安倍内閣の支持率が高止まりなのでしょうか。

 私は、運動者の「(切実な)因果性の視点」と通常時の国民の「(通常生活の)独立性の視点」という仮説を提出したいと思います。

 運動に参加する人は、

 悲惨な戦争←戦争法←安倍内閣←自公←「日本会議」(極右)

の因果的な結びつきが当然のものと感じています。

 つまり、「因果性の視点」を強く持つ人々です。

 他方、かなりの人々は、これらの因果的な関連をあまり意識せず、感じていません。つまり、「独立性の視点」を持っています。

 このような「因果性の視点」「独立性の視点」は、まず、実際の世論調査の結果をただ、事実として認めたものにすぎないものです。

  次に、このような視点の違いはどのようにして生まれるかを考えます。

 例えば、「悲惨な戦争」は未来のことですが、切実さを持って感じる人は、「因果性の視点」を持ちます。そして、「悲惨な戦争」と戦争法」との結びつきを強く感じます。家族に自衛隊員のいる人は、このような例に当てはまると思います。

 この例から、次のように一般化することができるでしょう。

 「悲惨な戦争」「戦争法」「安倍内閣」「自公」「日本会議(極右)」といったそれぞれの事柄の間について因果性の強さに関する視点の差は、それぞれの人が感じているそれぞれの事柄の間の「主観的な近さ(距離)」によって決まります。そのそれぞれの事柄の間の「主観的な近さ(距離)」は、その人の経験、想像力、身近な人の体験、知識、政治信条、家族構成や職業(社会的な立場)、等によって違ってきます。

 社会問題についての切実感や危機感が強い人は、事柄の間の「主観的な距離」が近いものとなります。解決を求める実践的な気持ちが高まるため、そして因果的な関連をより意識的に追い求めるために、上記の事柄間の「主観的な距離」がすべて近くなり、それらの事柄(質問項目)についての意見の結果に強い連関が現れることとなります。

 他方、一般に日常生活の中では、それぞれの事柄は結びつきが弱いものなっています。何故なら、日常生活では、それらの結びつきは、「実際に」見えていないし、「現実的も」感じられないからです。それらの事柄の間の「主観的な距離」は遠くなり、つまり、「主観的には視野に入らない」ものとなります。

 ある政策とその政策の結果は、結びついているのは当然だろう、と運動に参加している人は考えます。しかし、その結びつきは、それほどわかりやすいもの、実感されるものでありません。この場合、それぞれの事柄は、「独立的なものとして認識される」、つまり「独立性の視点」によって見られるのが当然となるのです。

 例えば、「戦争法に反対」の人でも、その人の「主観的近さ」の範囲内には、「悲惨な戦争」ということがらが入っていない、ということがしばしば起きます。何故なら、実際に目の前で「自分のものとしての」戦争が起きていないからです。

 自分が基本的に通常時にいるという感覚にあり、悲惨な戦争を自分の可能性として切実に感じていない人は、これらの因果的な結びつきは失われ、一つ一つについて独立的に評価を加えます。

 世論調査での質問には、真面目に考え、答えているのですが、一つ一つが独立的なテーマとなります。

 以上で、「独立性の視点」とは、「主観的近さ」の範囲内にあるものしか目に入っていない(「主観的には遠く」にあり、見えないものとされる)視点であることを説明してきました。

 次に重要な点ですが、さらに、この「主観的近さ」の範囲しか目に入らないということは、他項目との関連を失わせるだけでなく、それぞれの項目の中での選択肢をも、「主観的近さ」の範囲に限定していることを意味します。

 日常生活的状況では、「主観的に近いもの」とは、しばしばその人にとって「現実的に実現可能性のあるものやそのそばにあると意識されているもの」ということです。

 ある意味では、日常生活では、「現実に実現可能性のあるものやそのそばにあると意識されているもの」以外は、「主観的には遠く」にあり、見えないものとされるのは当然のことでしょう。そうでなければ、日常生活は不必要なこと(実現不可能なこと)をいっぱい考えながら送ることとなってしまいます。

 つまり、日常生活では、「主観的に近くにあるもの」=「実現可能性が高いものやそのそばにあるもの」ということです。

 以上の議論を、冒頭の疑問、「個々の政策が支持されていないのに、何故、安倍内閣の支持率が高止まりなのか」について当てはめます。

 第1に、かなりの人々が戦争法についての強い危機感を抱くというほどではなく、まだこれまでの日常生活の意識を抱いています。そういう人々は、「独立性の視点」を維持しており、個々の政策と安倍内閣支持との結びつきは弱くしか意識していません(政策と内閣支持の「主観的距離は遠い」)。

 第2に、そうした人々にとって、内閣支持の問題において、「主観的距離の近い」選択肢として視野に入るのは、「実現可能あるいはその近くにある」リーダーのみです。安倍内閣支持の理由付けの第1位に、「他に適当な人がいない」ということが上がっているのは、そうした人々が最初から選択肢として「実現可能あるいはその近くにある」リーダーに限定して考えていることを反映していると考えられます。

 私は、前回のブローグで、「悲惨な戦争」を意識している人々(集会に参加した12万人)や「戦争法」に反対している人の割合(約6割)を運動の力量の現状を反映しているものとして上で、内閣支持率については動かし得るもの、という見解を述べました。

 すでに長くなったので、次回にそれを今回の枠組みに基づいて説明します。