hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「敗北」が生むもの--戦争法反対運動の弁証法的総括1

 私達は、今崖っぷちにいます。戦争法が通った以上、「戦争ができる国」ではなく、「戦争する国」「戦争している国」へと早ければ1年以内に、遅くとも数年内になると考えています。

 そして、民主主義の外観を保っていても、戦争準備や戦争が始まると、政治、社会の実質は、急速にファシズム政治、ファシズム社会としての姿を露わにしていきます。

 ファシズムは、直接的な権力的・暴力的表現への志向や衝動を強く持つ運動です。

 このことは、私達が今経験しつつあることです。

 だから私達の戦争法反対の運動は、絶対に勝たなければならない運動だったのです。戦争法を、ファシズムを「絶対止める」闘いだったのです。

 私はこのブローグで、敗北した場合に運動は困難になり、その展望は狭まると書いてきました。

 自衛隊が戦争やPKOに参加し、日本がテロの対象となり、隊員や日本人に死者が出る時、日本人、メディアや政党はどのように反応するでしょうか。私が心苦しいのは、ここで日本人の死者だけを書いて外国人の死者を含めて書かなかったことです。でも日本のメディアで実際に問題となるのは、日本人の死者だけとなるでしょう。

 しかし、多くの人々が希望について語っています。確かに、「希」という字は、「まれ」という意味があります。つまり「希望」とは、「狭い展望」で「まれ」だけれど、これからに「のぞみ」をかけて見えてくる世界という意味です。

 崖っぷちにいるからと言って、慌てふためけば、かえって谷底に落っこちてしまうでしょう。私も希望を持って、この総括を書いています。

 運動の実力という面からは、かなりそれが弱かったという事実を認め、運動の方法という面からは、統一戦線という戦略・戦術の不足、必要性を述べました。

 運動は、敗北し客観情勢が困難になった時に弱まっていきます。しかし、それはまた次の運動の高まりを用意します。それがどのようなきっかけでいつ目に見えるものとなるかは、事後的にしかわかりませんが。

 2013年の秘密保護法成立、2014年の総選挙、解釈改憲閣議決定に続き、今年の衆院での戦争法案審議が開始された時、運動は弱いものでした。

 特に、秘密保護法反対運動の時と比べ、大新聞の中で、戦争法賛成の立場を明確にとる読売、産経、賛成に近い日経があり、メディアの姿勢は、政府によるNHK支配のせいもあり、戦争法反対を自ら表明したり、運動を積極的に報道する姿勢ではありませんでした。

 また、2014年の都知事選、総選挙や一斉地方選は、沖縄を除けば「普段の選挙」のように行なわれ、共産党議席は倍増しましたが、広範な人々が参加した秘密保護法反対運動の経験の意味は消失していました。

 こうして、戦争法反対の運動の側でも、当初は、秘密保護法反対運動の時と同様に敗北に終わるのではないか、共産党議席増を用意するかもしれないが、戦争法そのものを止めるものとはならないのではないか、という悲観的な気分が漂っていたように思います。

 しかし、戦争法そのものの重大性が、この困難な情勢に抗して、再び運動を盛り上げるものとなりました。その契機となったのが、衆院での与党推薦者であった長谷部氏を含む3人の参考人違憲」発言とSEALDsの登場です。

 この2つのことがらの影響力の大きさは、まず何よりも戦争法が持つ、客観的な歴史的、世界史的な深刻さ、日本の政治・社会への破壊的な性格を基礎としています。

 このような客観的基礎が、保守的な傾向を持つ人でも、あるいはこれまで「中立性」のために意見表明を控える傾向のあった研究者、大学人に戦争法案にはっきりと反対表明をもたらすように働いたのです。

 またSEALDsも、この客観的基礎の中から生まれていますが、さらに、困難な情勢だからこそ、それを引き受け、困難に正面から抗していく(「絶対に止める」)と宣言する彼らが生まれてきたともいえるでしょう。そして、私達も社会もその宣言を感動的に受け止めたのです。

 秘密保護法反対運動の敗北が、今回の戦争法反対運動の高まりをもたらしました。そしてこの戦争法反対運動の高まりは、統一戦線の問題と深く関連しています。

 私は、秘密保護法反対運動が持っていた潜在的な統一戦線運動性を、戦争法反対運動はより強く持っていたし、それは3人の違憲発言、それをきっかけとする憲法学者達の態度表明、立憲デモクラシーの会、研究者の会の結成、さらにSEALDsの登場によって、顕在的なものになっていく必然性を持っていたと思います。

 このブローグは、反安倍ファシズム運動のすべての人々と連帯するためのものですが、当然、それは統一戦線運動を含意するものです。

 私は、今回の運動の弁証法的総括では、統一戦線運動という角度と新しい市民革命という角度からの議論が必要と考えています。

 統一戦線運動という点からいうと、その発展は、反安倍ファシズム運動に要請されていた速度からいえば、あまりに遅いものだと思いますが、共産党の提起した「国民連合政府」は、その一歩と評価します。

 私のこうした見方を支えるものとして、歴史家江口朴郎の議論を引いておきます。

 彼は、「運動の新段階としての統ー戦線」(江口朴郎 [1980]『世界史における現在』)という視角から、次のように述べています。

 フランスの場合は、1934年に社会党共産党の統一行動協定が結ばれます。

 いずれにしても、社会党共産党の問題が指導する側の理論・政策のちがいよりも、現実に行動する大衆そのものの側から反省されはじめたことを意味していると思われる。

 中国の場合についても、次のように述べています。

一九三一年九月にはじまる日本からの満州侵略にたいして、とうぜん中国の側からも、民族闘争と階級闘争との統一の問題がすすんでいた。はじめ一九三一年当時には、中国共産党は日本にたいする抵抗を主張しつつも、抗日と国民党打倒とを結合することを強調していたが、一九三三年には東北地方にかぎって全民族が反日統一戦線を強調し、しだいに「下からの統一戦線」の方向にむかつた。一九三五年の「八・一宣言」なるものは、コミンンテルンで人民戦線戦術を採用した第七回大会と時間的に一致する点で重要視されるものであるが、そこでは全国的抗日民族統一戦線がよびかけられてはいるものの、いぜんとして将介石を売国奴とよぶ「反蒋抗日」の時期であった。そして一九三六年「五・五通電」で、時間介石にたいしても内戦の停止と一致抗日をよびかけ、「民主共和国」の構想を打ちだして、ここに援蒋抗日の気運となった。その年一二月の西安事件で事実上内戦が停止され、翌年の七月七日の盧溝橋事件による日華事変のはじまりによって、この一九三七年九月に統一戦線が成立することとなった。

 

  あるいは、人民戦線戦術(=統一戦線戦術)について、このようにまとめています。

 

コミンテルンが人民戦線を支持したことについて、人民戦線戦術というふうに表現されたものであるが、その後の歴史の現実の発展は、それが一時的な戦術の問題ではなくて、むしろ階級闘争一般がそのようなかたちをとらざるをえないような段階がはじまったことをしめすともいえるであろう。つまり、 このころから以後は、ゆきづまった世界の状況が諸経験によって広範な人民に認識され、人民の意識が多様なかたちで表現されるような時代であり、社会主義もまた、たんに原則からではなく、そのような現実の人民のうごきに応じて方向をしめさなければならなくなった。

 

  つまり、統一戦線運動は、党派的あるいは理論的なものとしてではなく人々の現実の運動によって現実化していきます。

 今回の共産党の提唱(従来の戦略・戦術からの大きな転換)も、基本的には先に述べたような戦争法反対運動の展開がもたらしたものでしょう。

 仮に、この闘争の後も、これまでと同様に「普段と同じ」方針で参院選挙に臨むとしたならば、それは共産党員や党支持者を含む、大多数の戦争法反対運動参加者の強い願望に背を向けるものと受けとられ、とても支持されるようなものとはなっていなかったのではないでしょうか。