hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

日本の「統一戦線運動」前史--戦争法反対運動の弁証法的総括2

 10月2日(金)夜の日比谷公園戦争法反対の集会に参加してきました。

 参加人数は一万五千人ということですが、なかなか皆さん気合が入っていました。私自身も「アベを倒せ」とコールしていても、法案が通る前とまた違った、本気かつ落ち着いた気持ちで声が出ていることに気づきました。ライブ感覚は、こういうところが不思議です。

 前回のブローグで、統一戦線というものが下からの盛り上がりによって形成されていく、ということを言いました。

 日本の昔はどうだったのでしょうか。

 「ぼっくい理論」というのがあります。誰が言ったのか、思い出せなくて調べましたがわかりません。鶴見俊輔丸山真男か、あるいは江口朴郎でしょうか。誰かわかったら教えてください。

 「ぼっくい理論」とは、日本の戦前の反戦運動共産党の運動は、大弾圧を受けたために、大衆の支持を得るような運動を組織することができず、したがって大衆の支持を得ることができず、ただ「ぼっくいにしがみつくように」ひたすら理論の正しさを信じて闘うことしかできなかった、というものです。

 大衆の支持が無くても、正しいという信念で闘う--こういう姿勢は、尊敬すべきところもありますが、私はちょっと無理・・・・

 っというか、私達が歴史に学ぶということは、社会の大きな流れを理解しながら、私達自身の願いがどのような共通性を持つのか、どうすれば、連帯しながらそれを実現していけるのか、ということを追求するためです。

 ファシズムのような巨大な危険に対し、すべての勢力が一緒になって闘おうという統一戦線は、根底において、大衆的な本能とでも言うべきものが接着剤、推進力として働きます。

 今日の世界において、統一戦線的なものがどのような形をとるかは、柔軟に理解する必要があるでしょう。

 例えば、フランスでルペン極右に対抗するために、大統領選の決戦投票において、社会党支持者が保守党派候補に投票あるいは保守党派支持者が社会党候補者に投票したりすることが普通に行なわれています。それは、両党で話し合いを行なったり、協定を結んだりすることなくなされます。

 私はこれも統一戦線的なものと考えています。同種のことは、ヨーロッパの他国でも見られます。多くの人々の間で「当然のこと」として考えられているのです。

 戦後日本の場合は、60年安保闘争が統一戦線形成への潜在的可能性を持っていただろうと推察します。しかし、この点については、そうした視点からの研究や議論を聞いたことがなく、私自身もよくわかっていません。市民革命(開発独裁政権の阻止)という角度からの研究や議論もないようです。

 しかし、いずれにせよ、社会党共産党も安保条約廃棄という政策を掲げていましたが、非武装中立か中立自衛かといった大きな相違が存在し、また、その後もその安保廃棄という政策実現のための統一戦線を求める声は、大衆的なものとして強まることはなかったように思います。

 安保闘争の結果として、岸内閣は退陣し、佐藤政権が開発独裁とは異なる、民主主義を維持しながら経済成長を主軸とする政治を始めました。

 戦後、1970年代までは、先進国は基本的に経済成長が続きました。ソ連の存在は、冷戦体制と同時に、そうした経済条件の下での国際的な福祉競争をもたらしました。先進国各国の政治運動、政治史は、この福祉政策を要求し、実現していく様々なあり方という流れの中で理解されるものです。

 日本では、福祉国家の形成は、ヨーロッパやアメリカの社民的な政権によるものと異なり、佐藤政権を始めとする代々の自民党政権の下で進められてきました。

 野党としての社会党共産党の存在・主張は、この福祉国家形成への重要なプレッシャーを政権にもたらしました。

 特に地方レベルでは、両党の統一行動が、東京や大阪等の知事選で行なわれ、1967年には都知事選において美濃部知事が誕生しました。こうした運動は、市民運動や労働運動、国民的な福祉への要求を基礎として、日本で福祉国家的なものを形成していく動きの重要な一部をなしていました。両党の統一行動は、福祉的な要求を、実現し、推進していき、場合によっては先取りする革新自治体を誕生させてきたのです。

 それは大衆的な要求に基づいた統一行動でした。特に美濃部都知事の第2期への選挙戦では、「ストップ・ザ・サトウ」というスローガンが掲げられ、ベトナム戦争に加担することへの拒否の都民、国民感情が表出されました。

 しかし、1980年代以降、アメリカの突出した経済支配は後退し、世界はより厳しい国際競争が顕著となりました。それに伴って、新自由主義が支配的な傾向となり、労働運動は退潮しました。

 このころ日本では、ボーゲルの『ジャパン・アズ・No.1』(1979)が評判となり、村上泰亮が『新中間大衆の時代』(1984)で描いたような、経済成長による一億総中流化の結果・内実としての人々の保守化が進み、さらにバブル景気(1986-91)があり、「世に倦む日々」氏が鼓腹禅譲と呼んだような脱政治の現象が顕著となる中で、人々の意識の右傾化が進みました。

 このように、1980年代は国際経済の中で日本は強い位置につくことになりますが、国内政治は、新自由主義が中曽根政権によって推進され、特に国鉄の民営化等によって、労働組合運動が大きく退潮することとなります。

 さらに1990年代には、バブルもはじけ、日本経済も急速に悪化し、その中での新自由主義的政策は、労働者の所得や国民の生活を悪化し、階層間の格差広げるものとなっていきました。

 しかし、重要なことですが、現在でも「新自由主義が現在の諸問題の根源にある」という認識は、少数派に止まってきています。それには、1989年のベルリンの壁の崩壊によって決定的となった社会主義の理念的輝きの喪失も大きな影響があるでしょう。

 そうした中での1996年の小選挙区制の実施は、統一戦線の必要性が客観的にあったとしても、それが認識され、表現されるための重要な手段、条件を奪ってしまいました。

 それを大きく変える可能性を持ったのが、近年の反原発運動、秘密保護法反対運動、そして戦争法反対運動です。それらは、問題の大きさ、深刻さ故に、統一戦線的なものを不可欠とする方向へ、人々の意識を変え、既存の政治勢力図式を変えていくインパクトを持つものだったと私は思います。

 安倍政権が秘密保護法を提案、強行した時に、そのファシズム的性格は明らかになったのであり、早急に統一戦線形成の声が上がるべきであったでしょう。実際少しはあったと思います。*1しかし、その声は広がらなかったように見えます。

 続く戦争法は、基本的に1960年の安保闘争において問題化されたテーマ(安保体制か憲法体制かの選択)を、より鋭い形で緊急性を持って提起することとなりました。

 安倍政権ファシズム的性格と合わせて、運動の中で、統一戦線を求める声は強まりつつあったのではないでしょうか。

 私は、SEALDs自体が、そうした統一戦線的なものを志向したものであり、それを実現するのに具体的な役割を果たしたのではないか、と推測しています。

 現在の「統一戦線」の性格と課題について、次回に議論します。

 

*1:都知事選をめぐって、鎌田慧氏は、はっきりとディミトロフの統一戦線論、「国共合作」に触れながら、自らの細川陣営の応援を位置づけていました。