hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「好きなチームを選ぶサッカーファンのように」--戦争法反対運動の弁証法的総括4

 touitusensenwoさんから、次のようなコメントをいただきました。

 ・・・シールズのメンバーのような、社会のことに関心を持ち学びしっかりした考えをもって発言できる若者に、多く出会うようになりました。・・・一方に、ちゃんとした知識を与えられず、判断力も育っていない若者がいます。そしてニートフリーター等の、社会の中で一番苦しい位置に立たされているのは彼等です。彼らをも巻き込めなければ統一戦線は成功しないだろうと思います。

 

 その通りです。どうしたらいいでしょうか。経済的不満や社会的閉塞感を中国嫌いのようなナショナリスティックの方向に向けて発散している若者を、直接にすぐ変える方策は思いつきません。

 確答があるわけではありませんが、少し一般化して考えてみます。

 前のブローグで、「因果性の視点」と「独立性の視点」ということを書きましたが、多くの人々は日々の生活を「独立性の視点」によって過ごしています。「独立性の視点」とは、言い方を変えると、ある事柄とある事柄、教わった理論と起きている事柄の関係性を意識的に捉えようとしない立場です。それはよく「日本人は忘れっぽい」と呼ばれているような特徴に対応します。

 その場合、一つ一つの事柄をどのように評価するのでしょうか。それは、その事柄自体が今自分に及ぼしている直接的なインパクトと同時に、事柄に対する気分やイメージによります。そして、その気分やイメージは、各人が所属するコミュニティとマスメディアによる説明に大きく影響されます。

  読売と共同通信の10月の世論調査では、安倍内閣支持率がそれぞれ46%、45%とそれぞれ5、6ポイント上昇しています。

 これは、少なくとも5、6ポイント相当の人々にとっては、もう戦争法の問題は視野に入っていないことを意味していると思います。つまり、もう「時の話題」では無くなりつつあります。

 戦争法はまだ施行されていないので、多くの人々にとって、直接的なインパクトを及ぼしていません。他方、人々の属するコミュニティ(身の周りの人々)はもうそういう重い話題は避けようとするムードが強まり、またマスメディアも報道を止め、あるいは避けようとする傾向に迎合する態度や情報を流します。

 少し角度を変えて、「時の話題」になることの重要性を見ましょう。

 戦争法案反対運動の中で、ホリエモンが「SEALDsの学生は採用しない」と発言することがありました。あるいは、法案の成立後、為末大という元アスリートのタレント・マネジメント社の社長が「SEALDsは、廃案にできなかったことの総括を」と発言し、「炎上」するということがありました。

 こうしたことは、社会において戦争法の重要性の認識が高まったからこそ生じてくる現象です。つまり、普段は話題にすることがなかったような「コミュニティ(集団)」にまで、戦争法は「時の話題」となっていったのです。

 このようなコミュニティでは、戦争法を自分の問題として深く考えるというよりも、「時の話題」として消費する(いじる)というような傾向が強く見られます。そして、賞味期限が切れると、まだ話題にしようとするメンバーは無視、排除されることになります。

 このような傾向は、実は世界中に見られますが、日本は市民革命がなかったことによって、それが極端となっています。*1

 誤解を恐れずに言えば、統一戦線運動は、こうした傾向に対する挑戦であると同時に、そうした傾向と大胆に妥協するものでもあります。妥協があったにせよ、目的を明確にして勝利することができるならば、運動や運動が目指すものが、一時的な消費物でないことは自ずから明らかになっていくでしょう。

 賛成を得られないかもしれませんが、具体的に話した方がよいと思いますので、2014年の都知事選を例としましょう。

 私は、絶対に勝利するということから逆算して、細川護煕氏を統一候補とすべきだったと考える者です。反原発の社会的ムード、細川氏のイメージや知名度、小泉元首相の応援という話題性、等のチャンスを生かすことが可能であり、重要でした。

 このまぼろしとなった統一戦線のあるべき目的は、反安倍ファシズム政権、反原発福祉回復でした。それらをどのように統一政策として一致させていけたのかについては、多くの活動家あるいは共産党は否定的なようですが。

 統一戦線とは、前にも書いたように、勝つためには「気に食わないこともがまんする」ということでもあります。しかし、宇都宮健二候補の陣営は、負けてもいいから「私達の」候補ということにこだわりました。そして、そうした選択の正当性を、得票数において、細川陣営を上回ったことに置きました。

 残念ながらまだあの時は、統一戦線の必要性という認識が一部の人々に止まっていたのです。

  少し話が飛びますが、私の学生時代、科学哲学を勉強しているとても頭のいい友人がいました。様々なことで、彼の言ったことは、現在も正しかったと思うことが多いのですが、その一つが次の発言です。

 「これからの政治への参加は、好きなチームを選ぶサッカーファンのようになる」

 これをどのように解釈するか。

 サッカー試合の目的とは何か(このゲームに私達の命がかかっているか、たんに遊びにすぎないのか)について私は私の意見があったとしても、それを他人に話すことはできますが、押し付けることはできません。好きなチームについても同様です。

 多様なサッカーファンがいるということを前提に、必勝すべく統一戦線チームを結成し、存在感を高め、多様で効果的な宣伝をすることが必要です。

 このサッカーファンの中に、社会において一番苦しい位置に立たされている若者達もいるわけです。彼らの感じ方や見方は、SEALDsの学生達とかなり異なり、戦争法に関わる運動を、むしろつまらないゲーム程度にしか見ていないことが多いのではないでしょうか。

 現段階では、まだ統一戦線チームが結成されていず、本来それをより必要としている人々の視野にそれが入ってこない、という状況だと思います。

 

 

 

 

*1:市民革命のことについては今後論じます。