ファシズム下の日常--私達に何が必要か
少しお休みと思っていましたが、仕事が思うとおりに進まず、ずいぶん経ってしまいました。
これからは、特に新しいことが書けなくても、なるべく少しでも、反ファシズムの連帯の言葉を掲げることにします。
いきなりですが、東京に空襲が行なわれたのは1944年末からです。それまでは東京住民のどれだけが、戦争を「実感」したのでしょうか。
そしてこの空襲によって、東京住民の10万人以上が死んでいるのですが、戦争が終わってしまえば、遺族等の関係者以外、どれだけの東京住民がそのことを記憶しようとしたでしょうか。
私が言いたいのは、今私達がファシズム下にいること、しかしそのことを9割以上の人が意識していない、ということです。大多数の人にとって、いつもの日常が続いているだけです。
・沖縄辺野古基地建設を強行するために、特別機動隊を本土から派遣
・年金基金の10兆円近い損失、
・国会議員の4分の1による臨時国会召集要求無視(憲法違反)、
これらは全部、新聞の一面トップで取り上げるべき重大な事柄です。
しかし実際には、それぞれが「日常」の一つといった感じですまされていて、毎日が過ぎて行っています。
こうした時、私達は何をしたら良いのでしょうか。確かに私達にも日常があり、やらなければならない仕事もあります。また、政府批判の声を上げてもそれが広がっていかない、ということを見たり、考えたりするのはつらいことです。
しかし、私は極単純に、素朴な連帯の言葉を大切にして続けたいと思います。こういう状況の時は、「新しい」ことや「効果的」なことを求めたくなりますが、静かにじっと今までどおり、仲間の声を聞き、仲間に声をかけて、そして心を広げて仲間を待つことです。
斎藤美奈子氏が、11月11日の東京新聞のコラムで、「平和のための新9条論」が「敵に塩を送る」ものだと書いています。私も同感です。
ファシズム下では、反ファシズムの志を持つ者の強い連帯が運動の核になります。
私はある時期まで、安倍首相や政権に対し、上から目線の物言いで「勝利」しているような錯覚をもたらそうとしたり、自己欺瞞をしている傾向があることを指摘し、それに対し批判をしてきました。今度は、頭のよさそうな人の「理屈」による「理論的解決」へも批判をする必要を感じます。
私達が勝利するには、現実に連帯を実現していく以外に他の道はないのです。