空襲とテロ--逃げ場のない恐怖、苦痛
第1次世界大戦以来、戦争は全国民を巻き込む大規模で近代的なものになりました。空襲も開始されます。
水島朝穂氏が書いていましたが(出典はそのホームページだったと思います)、「空爆」という表現は攻撃する側の視点であるのに対し、「空襲」という表現は、攻撃される側の視点です。
空襲を受けたら、防空壕に逃げたりしますが、直撃されたら防空壕は役立たないでしょう。逃げ場のない恐怖に襲われます。
本来市民に対する空襲は国際法違反ですが、無人飛行機による爆撃など、現在も行なわれ、市民や被災者の支援者を多数殺害しています。
私は、空襲ほど、国境を超えて圧倒的な強者が無力な弱者を一方的に殺していくことを具象化した暴力はないと思っています。アメリカの作家ソンターグは、イラク戦争でのアメリカの空爆を「卑怯だ」と批判していました。
確かに、兵士であっても空爆に晒される身と空からの攻撃では差がありすぎます。まして市民、子供、救援者が殺される時、どうしたら良いのでしょうか。
空襲に対する怒りをどのように表現したら良いのでしょうか。
テロは、それぞれ特定の政治勢力の意図が働いていますが、それが実施されるために必要な強いエネルギーは、この空襲に表現されている圧倒的な暴力、力の差に対する、自暴的な気持ちの蓄積から得ているといって良いでしょう。
テロは、今度はバグダッドの人々を、ベイルートの人々を、パリの人々を逃げ場のない恐怖、苦痛の底に陥れました。
話が飛躍しますが、私が連想することがあります。沖縄の人達は何回も選挙という形で米軍基地の建設拒否の意志を表しました。沖縄の人達にとっては、事実上逃げ場のない危険、恐怖、苦痛を強いる施設ですが、安倍政権は権力的にその建設を強行しつつあります。
沖縄の翁長知事は、現在法的手段等によって闘っていますが、「万策つきたら、夫婦で(辺古野に)座り込む」と言われているそうです。もちろん、座り込みは平和的な手段ですが、私達は、沖縄の人々が万策つきるまで放っておいていいのでしょうか。
第1次大戦が始まった100年前から、本当に世界は一つになってきました。ある人々が感ずる逃げ場のない恐怖、苦痛は、私達に無関係ではない、ということを改めて感じています。