hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

世界平和の基準としての護憲

 戦争法反対運動の総括が途中になっていますが、特にそうタイトルをつけずに、随時論ずるスタイルに変えます。

 戦争法反対運動を進めた人々の中に、憲法9条を変えようという「新9条派」というような人達がいます。私はこれに反対です。現在の9条を静かに粘り強く守っていくことが、反ファシズム運動の発展、統一のために必要です。

 先にブローグで、運動を進めた3つのグループがあるといいました。①平和運動的なグループで、「9条を守れ」を掲げた人々、比較的年配の人々が多かった、②自由とまともな民主主義を求めるグループで、若い人や海外経験のある人、大学の先生達で、日本の閉塞状況に対し、自由と民主主義の欧米スタンダードを対置し、当然視しました、③理論的なパワーを持つ、立憲主義を唱えた主に法学者グループです。

 私は、マスコミが③②をとりあげた状況で、③の影響力の下、さらに②の影響力が急速に広がっていくことを期待しました。

 しかしその期待は外れました。②は、閉塞状況に風穴をあけてくれたと思いました。しかし、大学では教員と学生の連帯という未曾有の状況が生まれたにも関わらず、どうも残念ながら、まだ針の穴程度という感じです。

 結局のところ、最もパワーのある揺るぎなく信頼できるグループは、「9条を守れ」のプラカードを自然に当然のこととして掲げた人々でした。

 私の経験では、彼らは一人で来たり、数人できたり、あるいは団体であったり多様でした。年配の人が多かったですが、子供連れの若い夫婦もこのグループの系列をなしていると見てよいのではないでしょうか。

 私自身もこのグループに属するのですが、このグループの多くは、戦争体験を直接しているわけではありませんが、体験世代の感情、実感、理想をすなおに受け継いでいる者達です。

  これに対し、「新9条派」は、②のグループの中の一部ですが、マスコミで目立つような人、学者がいます。

 私は、それらの人々とこれからも戦争法反対の運動を一緒にやっていくべきであると考えていますが、その特徴や問題点を指摘しておくことは、一緒に運動を進めていくためにも必要なことと思います。

 彼らの主張の背景には、3つのレベルのことがあります。

 第1に、護憲派の「60年一日」の変わらぬ主張が、現実の前に「無力」であったし、「無力」であるように見えて、何か「有力」な「新しい理論」が欲しい、という社会の要求です。

 第2に、先に述べたような事情に加わえ、常に「新しいもの」を求めるマスコミの性向があります。

 第3に、学界においても「新しいもの」評価があります。少し単純化した言い方をしますが、学界では新しいものだけが、「学問的生産」であって、いくら高い評価が確立しているものでも、そのことを繰り返すのは何の評価も受けません。そして、その人の業績として、論文の評価が最も重要視されます。そこでは議論の新しさが評価され、その社会的意義や社会的正しさは視野の外におかれる傾向があります。

 その上、丸山真男が指摘したように、「知識人は既成事実に屈伏しやすい」傾向を持っています(この点は、「世に倦む日々」氏が引用・指摘していて、また、水島朝穂氏も引用しています)。

 以上の事情から、「新9条派」の議論は社会に受け入れられがちで、マスコミに登場しやすく、目立ちやすいものとなります。 

 しかし、「新9条派」の議論は要するに、今までの改憲派が言ってきたことと同じで、実は新しいことは全くといっていいほどありません。

 何よりも私達が自覚すべきなのは、憲法9条は無力だったどころか、70年近くどこの国とも武力紛争をしてこなかった日本、安倍首相が中東でIS対策発言をする前までは、最も安全な旅行者であれた日本人を作り出した事です。

 私達は、市民革命、社会民主主義革命という点では欧米に遅れをとっていますが(これについては別の機会に改めて議論します)、平和主義という点では、世界の最先端にいます。だからこそ、9条は改憲派の目の敵とされているのです。

 ベイルート、パリのテロによって、憲法はますますその意義を新たにしていると思います。

 私達は、「60年一日」ではなく、100年も200年も平和憲法9条を掲げ、世界に広げていくことが必要です。