hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

空爆の「論理」とダブルスタンダード

 ベイルートでのテロとパリでのテロ、それらに対する世界の反応のダブルスタンダードが批判されています。

 これまでの、そして現在の空爆(空襲)を正当化する「論理」にも、同じくダブルスタンダードがあります。

 東京新聞(2015-11-07)で、福田真悟氏、早川由紀美氏という記者が「空襲(和解と愛国シリーズ②)」という記事を書いています。そこでは、1945年以前の3つのケースが出てきます。

 最初は、1945年のアメリカによる東京の空襲です。この時に、レーモンド氏という日本での近代建築に貢献した建築家が、同時に、自分が持つ日本木造家屋に関する知識を米軍に提供し、焼夷弾が「効果的」に働くための実験に協力しました。10万人以上の死者が出ました。

 レーモンド氏は、協力した心境を、自伝で「日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させることだという結論に達した」と書いているそうです。

 原爆投下と同じタイプの正当化の論理ですね。

 次のケースは、1938年から1941年にかけての日本による重慶(当時、中国国民党政府首都)空襲です。一万人以上の死者が出たと言われています。記事では、「泥沼化した戦争を終わらせようと」して行なわれた空襲であるとされています。

 最後は、1938年イタリアによるスペインのバルセロナ空襲のケースです。これは、スペイン統一戦線政府に対するフランコ反乱軍支援の話です。普通、ピカソが描いた「ゲルニカ」が有名なので、ゲルニカへの空襲が知られていますが、死者はバルセローナの方が多く、そこでは1000人以上が亡くなったといいます。

 イタリアの軍人ジュリオ・ドゥーエ(Giulio Dohet)は、『制空』(1921)という本の中で、空軍の重要性を強調し、その一つの役割として敵国民に対する空襲によってパニックを引き起こして、意志を破滅的に喪失させ、それが自国の政府にたいする暴動を引起す、というようなことを主張したそうです(奥山真司)。

 これら3つのケースのいずれも、空襲の標的として敵国の市民を対象としており、その命の価値は、自国の軍人や市民の命の価値に劣るものであることが当然のこととされていて、そうした前提の下で、空襲の必要性や「効果」が語られています。

 現在の「テロとの闘い」と称するものの中で行なわれている空爆も、実際には市民を巻き込みます。そして空爆されている側の市民の命と空爆している国の市民の命の価値は、全く別ものであり、ダブルスタンダードとなっています。

 テロとの闘いでどうしても空爆が必要であるというのであれば、「誤爆」によって生じた市民の被害に対し、謝罪と補償を行なうことが最低限要求されます。それが大前提ではないでしょうか。

 私は、追悼に関わるダブルスタンダード空爆による命を含めた被害に関するダブルスタンダードは本質的に同じものであり、いずれも認められるものではないと主張します。