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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ファシズム、新自由主義、そしてポストモダニズム(1)--序論

 最初に標題の件とは別ですが、戦争法憲法問題や最近のベイルートやパリでのテロの件について、すぐれた見識を示されている水島朝穂氏のホームページを推奨したいと思います。例えば、今回のテロの前の2015年1月の「シャルリー・エブド」襲撃の時からぶれない視点を提供してくれています。

 確かな学問的蓄積を持った知識、論理、視点という点で参考になることが詰まっていて、私は過去の記事に遡ったりしながら、信頼感を持って勉強させてもらっています。

 さて、標題の件です。私は以前から、ファシズム新自由主義、そしてポストモダニズムが親近関係を持つと考えてきました。この問題意識は、漠然とした文明批評ではなく、反ファシズムという立場からの実践的なものです。

 私は、新自由主義やポストモダーンを支持する人でも、政治的に反ファシズムであれば、連帯するつもりなので、先に述べた親近関係がどのようなものかを明らかにする必要があると考えます。

 それから、選挙戦術という点でも、ポストモダーンの提起している問題を意識的に考える必要があります。このことを少し先に説明しておきます。

 私は、前のブローグ2015-11-24 - hajimetenoblogid’s diaryで、大阪ダブル選挙敗北の一つの原因を、橋下陣営と反橋下陣営の対立の構図の本来の意味が有権者に伝わらず、橋下「改革者」陣営と、それに反対する既存野合勢力という印象づけに、橋下陣営が成功したと述べました。そして、それを打ち破るには、反橋下陣営の側が、候補者選択において、新鮮で魅力的な人物を立てることが有効であるとしました。

 これに対し、内田樹氏は、大阪ダブル選、内田樹さん寄稿「一枚岩を選んだ有権者」:朝日新聞デジタルで、次のように述べています。

 

大阪の有権者が選択を求められたのは政策の「中身(コンテンツ)」ではなく、候補者の人間性あるいは手法という「容(い)れ物(コンテナー)」だったと私は理解している。維新・非維新候補の際立った違いは何よりも「一枚岩の政党」の候補者か「寄り合い所帯」の候補者かという点にあった。

 有権者たちはその違いに最も敏感に反応した。「街の声」でも、SNSに流れた感想でも、大阪維新のアドバンテージとして「話がわかりやすい」「言うことに一貫性がある」を挙げたものが多かったし、逆に、自民党民主党共産党が推した候補者たちはまさに国政において対立している政党の支援を基盤にしたゆえに、いったいどのような立場を代表しているのか「わからない」という批判に終始さらされた。有権者は「一枚岩組織」のもたらす「わかりやすさ」を選好し、「寄り合い所帯」の「わかりにくさ」を退けたのである。

  この大阪維新勝利、反対陣営敗北の分析は、概ね、私のいう「改革者」イメージと「野合集団」イメージと対応しています。

 ところが実践的に、ではどうするか、というところで、私と内田樹氏は違ってきます。

「なかなかものごとが決まらずにいるうちに、歴史の負荷に耐え得ない空疎な政策や組織が淘汰(とうた)され、生き残るべきものが生き残る」という歴史の判定力を人々は信じようとした。一夜ではことの良否はわからない、吟味のためには時間がかかる。でも、その代価としてどのような致命的失政があっても、それについて「私には責任がない」「ほら見たことか」と言うような市民ができるだけ出ないように設計された仕組みである。全員が恩恵も責任も等しく分かち合う仕組みである。

 

  上記のような制度を内田氏は、「共和政」としていますが、実質性、実効性を持った民主制といってもよいでしょう。

 彼はこの制度を推奨しているのですが、そこでは、それを実現するために何ができるかを示さずに、ただ、「そのような仕組みに価値を見いだす人は次第に少数派になりつつある」と嘆くに止まっています。

 私もそのような民主制を支持するものですが、そのような民主制支持者を増やし、多数派となるために、「新鮮で魅力的な」候補者選定が必要だ、と主張します。

 ファシズムと闘うためには、ポストモダーンの時代におけるイメージ戦といったことが切実な問題なってきているのです。

 次回以降に詳論します。