hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ファシズム、新自由主義、そしてポストモダニズム(4)--(続)消費社会・情報社会とポストモダニズム--構造主義の「野心」その1:レヴィストロースの場合

 長くなっていますが、この項の議論の目的は、ポストモダニズム

政治的誤りのその2--ポスト産業資本主義を対象化できない

を明らかにすることです。

 書いていて、どんどん長くなるので困りました。しかし、現代思想史の研究書、概説書では、上記のような外在的視点からのまとめは書かれていません。そこで、私なりの論点を、広い視野に位置づけて述べたほうがわかりやすい、と考えるに至りました。ただ、できる限り要点に絞るようにします。

 上記③の課題を明らかにするためには、前回のブローグで述べた消費社会・情報社会の進行の中に、ポストモダニズムの発生、制約を位置づけることが必要です。

 そこで、今回は、ポストモダニズムの発生の背景たる構造主義について述べます。さらに、その背景も少し述べますが、ご容赦ください。

 第2次世界大戦後の世界は、ケインズ主義的な経済政策に代表されるように社会における工学的な需要が高まり、社会工学的な世界観が広がりつつありました。

 ポパーの「哲学の貧困」(原書1957)は、マルクス主義における「歴史主義」を批判しながら、この工学的な世界観を宣言して、思想界に重要な影響を及ぼしました。

 思想や思想史を研究する人の内、このポパーの仕事の重要性を強調する人は必ずしも多くないように思います。何故かといえば、この本の内容は、研究者好みの「深さ」に欠けるからです。

 また確かに、この本が世に現れなかったとしても、資本主義の発展に伴う社会工学的な需要と供給の高まりは必然でした。したがって、遅かれ早かれ、「代わりのポパー」が現れた蓋然性は高いと思います。

 とはいえ、ともかくポパーは、科学哲学の権威による工学的手法の推奨者として、1950年代に著した本書を通じて、科学主義と工学を結びつけ、社会科学における工学的手法を社会科学おける可能性、あるいはさらに「本道」として提唱したのです。

 そうした工学的社会科学の発展や工学的精神は、消費社会・情報社会という形をとって現れる、来るべき資本主義社会の重要な側面を把握し、その活動を支えていくための道具、あるいは準備となりました。

 同時に、より広く社会運動・哲学・認識論・社会科学研究のレベルで、ポパーの提起あるいは「攻撃」は、重要な影響を及ぼしました。

 構造主義と呼ばれる潮流が現れたことも、その影響の一つの現れです。これは、ポパーの科学主義に対応する形で現れた、別の科学主義といえます。

 ただ構造主義の話に移る前に、重要なのはサルトル実存主義でしょう。

 サルトルあるいはポパーの仕事の核になる部分は、第2次世界大戦の前からできていたのですが、1960年代前後(つまり消費社会・情報社会への移行が予感され、開始される頃)から、社会の側での彼らの仕事に対する需要が高まっていきます。

 ポパーの仕事は、消費社会・情報社会の資本の需要に直接対応するようなタイプの知的活動でした。

 これに対しサルトルの仕事は、そうした生じつつある社会変化の中での、高等教育の学生、先生、知識人による自己の位置をめぐる不安や模索を代表する知的活動でした。サルトルは、人間主義を唱え、個人の主体性を極限にまで押し上げたのです。

 構造主義は、先に述べたように一種の科学主義です。この科学主義は、2つの「敵」を持っていました。そしてこれらの「敵」との対抗のために、自らの適切な射程範囲を超えて、奇形的な誇張を行なうようになるのです。

 その第1の「敵」は、もちろん地理的にも現代思想の最先端、センターたるパリに「同じく居住」するサルトルです。

 サルトル人間主義=主体性は、構造主義によって嘲笑されるのです。

 第2の「敵」は、ポパーのピースミール工学的思想です。ポパーは自分の社会思想をピースミール工学と呼びましたが、ピースミール(少しづつ)という形容は、本質的ではありません。その本質は、哲学的にいう経験主義のことです。工学という発想も、経験主義の重要性を予告しています。

 つまり、ポパーは出身はオーストリアですが、社会思想としてはイギリス経験論を継いでいます。

 そこで、構造主義の科学主義は、経験主義に対抗して、合理主義を目指すものになります。それは社会科学の分野において、大陸の伝統を担った合理主義を掲げる、という野心的で、しかし実現困難なものとなりました。

 私は先に、構造主義が、「自らの適切な射程範囲を超えて、奇形的な誇張を行なうようになる」と述べました。

 構造主義の重要な「成果」とされるものを実例として、具体的に議論します。今日は、レヴィストロースを取り上げます。

 レヴィストロース構造主義として知られる有名な研究では、「深遠」なる数学的構造、すなわち「クラインの4元群の構造」によって、カリエラ族の婚姻行動が説明できる、とされました。

 つまり、人間の行動は、自らが意識しない「構造」によって支配されている、主体性なんて当てにならない、というわけです。

 この主張、解釈は正しいのでしょうか。私は正しくないと思います。  

 確かに、郡構造の説明自体は間違いではありません。しかし、カリエラ族の婚姻規則は非常に特殊な例であって、たまたまそのような群構造を「形成」することになった、と私は解釈しています。

 ここでいう「たまたま」というのは2つの意味があります。

 第1は、進化論的な意味です。

 いわゆる近親タブーは、非常に多くの社会に見られる普遍的な規則です。カリエラ族の場合は、この規則を満たすように、社会メンバーの4セクションへの分類方法、セクション間の婚姻規則が形成されました。

 それが、群構造をもたらしたわけですが、ほとんどの社会では、このような4セクションへの分類やセクション間の婚姻規則は見出されていません。何らかの理由、プロセスで、カリエラ族は、このような近親タブー規則を満たす方法を「発明」「採用」するに至ったと考えられます。それが、たまたま群構造をなすような婚姻規則となったのです。

 第2は、このような郡構造の発見は、社会科学的な知見に貢献しない(一般的な社会構造の中で特殊な社会構造を位置づけること、あるいは、郡構造という視点から必然性をもって引き出されるインプリケーションが社会科学的な意味での一般性を持って理解すること、に貢献しない)という意味で、社会科学的な意義を有しない、しかし数学パズル的な面白さを有したたまたまの発見ということです。*1

 繰り返しますが、カリエラ族の婚姻規則は、特殊で、極めて少数の事例です。カリエラ族にとっても、他の社会でも一貫性を持つ重要な条件は、近親タブー規則です。そして、カリエラ族の特殊性は、4セクションへの所属とその婚姻規則です。この一般的な条件を満たす形で形成された特殊性が、カリエラ族の場合の郡構造をたまたま作り出しているのです。 

 この意味で、近親タブー規則が群構造から説明される、というのは順序を間違えています。逆が正しく、近親タブーという比較的普遍性をもって見られる条件の下で、カリエラ族のような婚姻行動が形成されると、そこに「たまたま」郡構造が、「形成」されるのです。

 私のような説明は、進化論的立場からいえば、常識的なものでしょう。私はそうした研究史的なことを調べていませんが、おそらく、当時のレヴィストロース批判に、私と同様の批判はすでにあったろうと思います。

 しかし、当時は「構造主義」フィーバーの時代でした。変化しつつある社会背景を前提に、2つの「敵」との闘いが、大陸の知的風土の中で闘われていたのです。

 次回は、ソシュールアルチュセール構造主義を取り上げます。

 

*1:数学的な立場からいえば、兄妹間近親タブーを前提とした4セクションへの分類という条件で婚姻規則を作るとすれば、カリエラ族の規則はおそらく最も単純なものの部類に属するといえるでしょう。一般に、このような単純な規則で示されることがらの背後に数学的な群構造のようなものがあり得ます。ここで例えば、5セクションあるい6セクションへの分類ではどうなるか、郡構造をなす数学的なあり方が存在するか、他方、実際の婚姻規則で5セクションあるい6セクションへの分類というようなものがあるか、という形で「研究」を進めることができます。ここで、郡構造をなすということが形式的な分類上の意義を持つことを想定できます。私は、こうした方向は、社会科学的に有意義な方向とは思えません。