横道へ少し散歩--教育政策とポストモダーン、新自由主義
少し前のブローグに、touitusensenwoさんから、次のコメントを頂きました。
現在の教育政策の進む方向を批判するために、私はポストモダンの主体性批判が有効なのでは?と思っていたのですが、どうもそうではなさそうです。
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話が、ポストモダーンのところで長引いています。
議論のもともとの目的は、ポストモダーン思想のアカデミックな議論ではなく、どうしたら戦争法反対の運動を広げることができるのか、という観点から、現在の社会意識状況を把握することです。
そのことを私は、前のブローグ「好きなチームを選ぶサッカーファンのように」--戦争法反対運動の弁証法的総括4 - hajimetenoblogid’s diaryで、ポストモダーンという言葉は使っていないのですが、書きました。
そこで述べたような状況は、ポストモダーンな(ポスト産業資本主義社会の)社会意識状況であり、それを意識的に分析、把握しながら戦術をたて、結果を見ながら、またそうした意識的なやり方を展開していく必要があると思っています。
私自身、単純な形で示せる結論を出していないので、分析的な書き方になっています。
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そこに、上記のtouitusensenwoさんからのコメントがありました。いかに、ポストモダニズムの影響が「広がっている」かを示すものですね。
やはり、ジャーナリズムとアカデミズムの中間くらいのレベルでの、きちんとしたわかりやすいポストモダニズム批判が必要だと感じます。
このブローグは、前にも書いたように、友人の友人の範囲で、反ファシズムのための言論を広げていきたいと思っていますので、いただいたコメントをもとに、少し文献を紹介します。
私は時々、柄谷行人氏の著作について彼の仕事を支持する形で触れています。
教育の分野で柄谷氏に照合するような論文を書いているのが、アンディ・グリーンです。
グリーンの仕事は、教育史家であり、理論的な視角を持って議論しているものの、柄谷氏のような普遍性がないと、私は感ずることが多いです。
しかし、二人ともマルクス主義的な枠組み、視角がしっかりしていて、安心して読めます。
グリーンは、「ポストモダニズムと国民教育」
(グリーン,アンディ [2000]『教育・グローバリゼーション・国民国家』(大田直子訳) 東京都立大学出版会(原書Andy Green, Education, Globalization and the Nation State, MacMillan Press Ltd., 1997.)第1章)
という論文を書いています。
アカデミックで読みにくいものですが、結論だけを先に少し見ておくと、興味がわいて、理解がしやすくなるかもしれません。
まず、ポストモダニズムと新自由主義の親近性です。(P.36)
[教育において]ポストモダニズムはほとんど何の価値ももってはおらず、逆に、多くの危険性をもつものである。それらの危険性の中の最大のものは、ポストモダニズムの議論が内包する論理がニューライトの自由市場賛美者によって唱道されていることに表れているように、多くの点で個人主義的な教育消費者主義(individualistic educational consumerism)を指向しているということである。ジルーのような一部のポストモダニストは自由市場賛美者に抵抗するだろうが、アメリカの教育哲学者ローティ(Richard Rorty)のように、明確に自由市場主義右派と同盟するポストモダニストも存在する。教育界でもっとも一般的な対応は、多分、例えばケンウェイ(Jane Kenway) が表明するような、率直な二律背反的なものであろう。彼女は「教育における急速な市場形態の興隆は、ポストモダニズムの現象としてもっともよく理解することができるであろうと述べ、「教育におけるポストモダニズム的な市場の内部で、あるいはこれに対抗することによって、教育の可能性と対立的な政治」が発展することを求めている(Kenway,1992,p.12)。
(上記で、「率直な二律背反」といっているのは、グリーンの皮肉で、「よくわからないまま矛盾したことをいっている」、というようなことのように思われます。私は原書を読んでいないので確言はできませんが)
では、ポストモダニズムでありポストマルクス主義である、ジルー(Giroux)はどのようなことをいっているのでしょうか。同じく、グリーンからの引用です。(P.35)
ジルーの「ボーダー教育学」は、民衆文化の研究、「脱中心化されるべきであり、歴史的社会構築的なものとして理解されるべきテキスト」、自分自身のテキストを創造すべき学生、そして支配的な文化が恐怖と不平等と強制的排除によって飽和させた境界を造り出した諸方法についての組織立った分析(pp.31-33)を含んでいる。彼の理想とするポストモダン高校には、学生と教師の交渉コースがあり、いく種類もの教授方法があり、オープンラーニングがあり、組織の民主主義的形態がある。言葉は違っているが、そこにあるものは、すべて1970 年代のリベラル進歩主義の中で提唱されていたものである。学校における民主主義と批判的および文脈化された学習の重要性を改めて主張することは疑いもなく必要なことではあるが、ジルーは、過去20 年間の主な教育学論争を支配した進歩主義に対する広範な、そして時には辛らつな批判をまったく媒介にしていない。そこには1990年代に書かれた研究としては印象的なほどの素朴さがある。学生主導の、そして批判的な教育学というものは、学校における効果的な学習の必要条件ではあっても、十分条件ではないし、それ自身、教育の平等を拡大する保障ともならないのである。
ここで、グリーンが述べているのは、ポストモダーンの教育方法が、ちっとも新しくなく、「1970 年代のリベラル進歩主義の中で提唱されていたもの」ということです。*1
そこで造られるかに見える主体性というものがいかに社会的(階級的)な拘束を受けているか、というtouitusensenwoさんの問題意識でいえば、それについては、上記でいう「辛辣な批判」がすでになされている、ということです。
近年の教育社会学の階級的な拘束に関する研究は、その延長線上にあるもので、その意味では、それも新しくない感じがします。
歴史は繰り返すので、源流を辿れば、さらにデューイ、戦前の日本の自由教育、その他にも同じことがいえると思います・・・・・ *2
長くなっていますので、最後に、グリーンがポストモダーンな研究のプラスの事例を指摘していることも述べておきます。(pp.33-34)
イギリス、アメリカ、オーストラリアの多くの教育理論家は実りあるポストモダニズムの内部の、あるいは周辺の一部の理論的要素から学ぶものがあることをはっきりと認めている。フーコー派のディスコース分析は時にイデオロギー、政治、ミクロとミクロのレベルにおける権力の諸関係を解読するために柔軟で、有用な道具を提供している(Ball,1990a) 。それはまた、ジエンダーと人種・民族の諸関係を分析する者に、教育における主体および主体間の関係について考えるための概念的空間を与える(Rattansi,1992)。ポストフォーディストの分析は社会と経済の変化について考えるための新しい言語を提供するものであり、教育と経済システムの問の関係についての革新的で、説得力のある理論へと導くものである(Brown and Lauder,1992)。
私自身はここで示されている文献を読んでいません。
フーコーについては、今後少し触れます。
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ポストモダニズムは、このグリーンの議論をわずかに見ただけでも、面倒なことがわかります。
私としては、冒頭に述べた目的を目指して、構造主義から、ポスト構造主義、ポストモダニズムと順を追っていきたいと思います。
次回は、すでに予告したように、構造主義のソシュールとアルチュセールを議論します。