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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「反ファシズム統一戦線」と「野党共闘」--その4--地道な市民運動の「野党共闘」

 では、市民運動から見て「野党共闘」は、どのような意味を持っているのでしょうか。

 「野党共闘」は、市民運動が言い出したわけですから、それを歓迎しているのはもちろんでしょう。

 「野党共闘」の具体的な姿、形成の過程は、地域レベルで追求されるので、それがどのようになっているのか知りたいと思ったのですが、ネットではそれをわかりやすく教えてくれるものは、意外と少ないです。

 それらを見て私なりにまとめます。まずその前に、各地でこのような市民運動をたゆまずに進めてきている方々に、敬意を表します。

 第一に、市民運動にとって「野党共闘」とは、共産党が「必ず独自候補を立てる」という固定的、既定の条件が無くなった、あるいは少なくともその条件が緩んだ、ということを意味します。

 それは、これまでの市民運動から見た大きな「障害」の除去を意味しており、その意味で「野党共闘」は、歓迎されるのは当然です。

 第二に、しかし、戦争法反対という本来の目的と関係なく、誰でもいいから野党共闘候補を立てようとしているのではなく、市民運動戦争法反対という本来の目的に沿った候補を立てようとしている、ということです。

 この二つの意味を満たすことを目指した市民の運動によって成立した共闘を、「野党・市民共闘」と呼ぶことができるでしょう。

 この第二の点は、運動関係者にとっては当たり前のことで、何をいまさら言っているんだ、と言われるかもしれません。「野党共闘」というスローガン、キーワードは、「戦争法反対のための野党共闘」という意味であって、それはスローガン、キーワードとしては長すぎるので短くしただけ、あるいは、先に述べた「野党・市民共闘」を短くしただけ、ということでしょう。

 しかし、実際問題として、マスメディアや世間一般で、そのような限定を持って受け止められ、使われているでしょうか。そうではありません。「野党共闘」というスローガンは、先に述べたような市民運動の観点からは、並べることは全く不可能なものも、同列におくことを許すことになってしまっています。

 例えば、広原盛明氏は、広原盛明のつれづれ日記で次のように批判しています。

 

日経(3月20日、2面上段)は、「来月の衆院2補選、共産票に自民やきもき、『民共協力』瀬踏み」という見出しで、両補選を自公与党 vs 民主+共参という同質選挙の2つの局面と見ている。民主、共産など野党の支援する無所属候補がたつ北海道5区と、民主候補の出馬を踏まえ共産が擁立を見送った京都3区は『民共協力』の代表的な構図とみる 

 

この見方は、・・・新聞社としてはいささか見識に欠ける。なぜかというと、北海道5区と京都3区とではまったく選挙構図が異なり、日経の言うような「民共協力」の代表的な構図ではないからだ。

北海道では自民候補と対峙する無所属候補を民主社民などが推薦し、共産は擁立候補を取り下げて野党共闘が実現した。野党統一候補は2月に民主、共産の地元組織や市民団体と政策協定を結び、その後も連携を強めている。しかし、京都ではそんな条件は何一つない。民主が徹底的に共産との共闘を拒否し、共産は「自主投票」を表明しただけで「民共協力」など影も形もないのである。日経がこれを「民共協力」の代表的構図の言うのであれば事実誤認も甚だしいし、あえて言えば意図的な「ミスリード」だと言える

  ここでは、共産党が候補者を取り下げると、それだけで「共闘」扱いをする日経の記事の間違いが指摘されています。

 さらに広原盛明氏は、メディアが十把一絡げにする「野党共闘」の重要な違いをもたらす要素として、市民の運動の存在を指摘しています。

 4月に入って、広原氏は同じブローグの中で朝日の記者、曽我氏の記事を次のように批判しています。

 

まず「北海道首相が力説する通り『自公対民共』という与野党の主軸が全面対決する闘い」だという見方についてはどうか。・・・・この見方だと野党統一候補が政党間の協議(だけ)で決まったような印象を与えることになり、単なる与野党対決型選挙に矮小化されてしまう。しかしこれまでの経過を見る限り、野党統一候補は安保法に反対する国民運動を反映した成果であり、「野党共闘=選挙協力」を求める市民団体の力強い働きかけがなくては絶対に成立しなかった。

つまり、北海道5区の衆院補選は単なる「与野党対決」ではなくて、その背後には野党統一候補を応援する広範な市民が選挙戦に加わっているのであり、安倍首相が最も恐れる「野党・市民共闘」が成立しているのである。曽我氏は、北海道衆院補選の本質(キモ)である「野党・市民共闘」を意図的に「自公対民共」の政党対決に矮小化する(すり替える)ことで、野党と市民が共闘する選挙戦の広がりを食い止めようとする安倍首相の「走狗」としての役割を見事果たしているのである。

  私が、最初に「野党・市民共闘」という言葉づかいをしたのは、この広原氏の言葉づかいによったものです。

 ここで広原氏が批判している曽我記者の論調では、「野党共闘」は、共闘組織を政党(野党)のみに限定する意味を持たされています。

 さらに広原氏は、曽我記者の京都の衆院補選の位置づけを、次のように批判しています。

京都民進党とおおさか維新の会の対決が前面に出る野党の主軸を争う闘い」だという見方についてはどうか。これなどは、地元有権者の私ならずとも呆れてものが言えないほどの噴飯物の珍説だ。まず第1に、おおさか維新の会が「野党」などとは誰もが思っていない。第2に民進党とおおさか維新の会が選挙戦で「対決」しているなどとも思っていない。曽我氏がもし本気でそう思っているのなら政治記者の肩書は直ちに返上しなければならないし、意図的にミスリードしているのであれば事実を伝える新聞記者としては完全失格だ。

 曽我記者の論調は、「野党共闘」という言葉にある「野党」の意味を形式的に利用して、ミスリードを行なおうとするものであって、広原氏の批判は当を得たものです。

 しかし重要なのは、マスメディアがこのような論調を張る時に、各地での地味で地道な市民運動の主張、各地の違いが、どうしたら伝わるのか、ということです。あるいは、「野党共闘」に短縮されたスローガン、「旗」は、端的で簡明というわかりやすさのプラス面と同時に、悪用される可能性を有しており、少なくともそれだけではまずいのではないか、という気がします。

 特に、今日の政治運動、選挙では、いわゆる「浮動票」や潜在的な棄権者への働きかけも重要性を持ちます。まじめな運動家だけが当然のこととしてわかっている、というようなことではだめです。だからこそ、広原氏のようにブローグを通じた発信があるのでしょう。

 私は、広原氏のような市民運動に対し敬意を表するものです。同時に、そうした運動を適切に表現するスローガン、「旗」、戦略、組織(名)が、必要であると考えます。少なくとも、「野党共闘」だけが用いられる現状は疑問です。

 次回に続けます。