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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「反ファシズム統一戦線」と「野党共闘」--その6(終)--ファシズム下の選挙を「いつも」の選挙にするな

 前回、「保守勢力との共同の見える化」の必要性をを訴えました。今回、この点を敷衍して、このシリーズを終えます。

 このシリーズのその2で、ファシズム下の議員の「日常」を論じました。

 ファシズム下でも、「日常」の外見はほとんど変わりません。むしろ、権力がいけだかとなるのに対応して、人々は「日常」にしがみつきます。

 NHKを始めてとして、メディアの多くがファシズムの現実に目を閉じて、日常を演じます。

 今度の選挙は、ファシズムに「正当性」を与えるのか、それを拒むのかが問われている決定的に重要な選挙です。

 市民運動はそれだからこそ、「野党共闘」を追求し、共産党も独自候補を下ろすことをしているのでしょう。

 しかし、多くのマスメディアは選挙関連の報道をする時、「野党共闘」は、そのような重要な意味を持つものとしてではなく、「いつも」の選挙の一種、その延長線にあるようなものとして扱います。ここでも「日常」が支配するのです。そして、「野党共闘」が成立しても、あるいはしなくても、いつのまにか、「いつものように」2大政党制を是、前提とした観点からの論評をします。

 市民が「野党共闘」を言う時は、政党(野党も含めて)が市民や国民の「言うことを聞け」ということを主張しているのですが、いつのまにか、マスメディアは、市民や国民をどこかにやってしまい、政党間の野合による議席獲得競争のような報道を始めます。

 何故そうなるかというと、第1に、事実にそういう側面があって、民主党民進党)にとっては、市民や国民の声よりも議席が第一であり、そのための野合をしているからですが、同時に第2に、メディア自身が、ジャーナリズムとしてのべき論、民主政治の基礎的なべき論といった規範的な判断を避けようとするからです。規範的な判断を避けることは、現実を冷静に把握することを意味するのでしょうか。逆です。メディア自身がファシズムの現実と向き合うことを避けようとする心理を持っており、それが規範的な判断からの逃避をもたらしています。

 現在、世論調査にも表れているように、選挙民の中からも、成立してしまった戦争法に対する問題意識、反対意識は薄らぎつつあるように見えます。こうした状況の中で、野合的な「事実」を含め、「いつものように」2大政党制を是、前提とした観点からの論評をすれば、争点はぼやかされたまま、有権者は今度の選挙を基本的に「いつもの選挙」と同じもの、と捉えるでしょう。

 「野党共闘」は、その報道のされ方によって「ファシズムとの対決という重要な要素」が一般有権者からは非常に見えにくいものとなっており、今後もそうした状況が続くように思います。もちろんそれは、民主党民進党)のせいであり、マスメディアのせいですが、運動の戦略、スローガンとしての「野党共闘」自体が、そうした民主党民進党)やマスメディアの対応を許すものだからでもあります。

 仮に前回(その5)で述べたよう、戦争法反対のための保守勢力と共産党の共同が目に見える形で成立していれば、それは一見して、有権者にとっても「新規の要素」であり、マスメディアがいやでも取り上げなくてはならないものとなります。そして、そうした共同が成立する理由がファシズムとの対決にあることは、より容易に有権者の間に浸透させることができ、また、当然、民主党民進党)にも市民、国民の声を聞く方向に影響をもたらすものとなったでしょう。

 私の言っていることは、政治の素人の話ですし、さらに、今時点ではあまりに今更の、遅すぎることかもしれません。しかし、政治は願望どおりに動くことはまずないとはいえ、偶然とも必然とも言い兼ねる思いがけない形で、展開することもあります。それが願望と重なるものになるには、願望を明確化し、共同のものにしていくことしかないでしょう。