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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

何故、ファシズム下での率直な言葉、感情の表出に意味があるか--権力の恣意的で暴力的な運用・行使に抗して

 前回、「ファシズム下での率直な言葉、感情の表出に意味がある」と書きましたが、それは何故でしょう。

 ファシズム下では、権力の恣意的で暴力的な運用・行使がどうどうと行なわれるようになります。

 最近、朝鮮籍の人に対する、この恣意的、暴力的な権力行使が目立っています。文科省が、朝鮮学校への補助を行なう地方自治体に圧力をかけています。

文部科学省は自治体が朝鮮学校に交付している補助金の見直しを迫る通知

を出した。自治体の権限に公然と介入を試みる異例で異様な措置。馳浩文科相は「減額や自粛、停止を指示するものではなく、留意点を示したもの」と説明するが、朝鮮学校を財政面から追い込みたい政権の意図がのぞく。その意味で異様さは一貫しており、エスカレートしてさえいる。

 

 これはこどもの教育権を否定するものであり、民族教育を受ける権利を保証する「こどもの権利条約」にも明白に違反しています。

 それは、次のように述べています。

第29条 (教育の目的)

1. 締約国は、子どもの教育が次の目的で行われることに同意する。

a. ・・・。

b. ・・・。
c. 子どもの親、子ども自身の文化的アイデンティティ、言語および価値の尊重、子どもが居住している国および子どもの出身国の国民的価値の尊重、ならびに自己の文明と異なる文明の尊重を発展させること。

d. すべての諸人民間、民族的、国民的および宗教的集団ならびに先住民間の理解、平和、寛容、性の平等および友好の精神の下で、子どもが自由な社会において責任ある生活を送れるようにすること。

e. ・・・。

2. ・・・。


第30条 (少数者・先住民の子どもの権利)

民族上、宗教上もしくは言語上の少数者、または先住民が存在する国においては、当該少数者または先住民に属する子どもは、自己の集団の他の構成員とともに、自己の文化を享受し、自己の宗教を信仰しかつ実践し、または自己の言語を使用する権利を否定されない。

 私は、国際教育援助についても研究していますが、国内における差別的な「反」援助、事実上の弾圧は、教育援助およびその研究の精神、倫理から見て、限度を越したものだと指摘せざるを得ません。  

 また、北朝鮮に対する制裁の強化と称して、朝鮮籍者のみに「私は北朝鮮には渡航しません。仮に北朝鮮に渡航したことが確認された場合には再度上陸が認められないことを承知した上で出国します」という誓約書へのサインが求められる、といいます(東京新聞、2016年4月13日)。

 このような措置を直接基礎づける法律は存在しません。制裁のための閣議決定が根拠とされていますが、閣議決定は「在日外国人の核・ミサイル技術者の再入国の禁止」を述べていました。 そこから、入国管理局は、「朝鮮籍者に一律、署名を求め」、「署名無しの宿国は原則認められない」という措置をとっているのです。

 逆にいえば、こうした措置をとることを前提に、閣議決定を行なっているのでしょう。しかし、これはとても法治国家とはいえません。法治国家の体裁を取りながら、いかに恣意的、暴力的(再入国禁止はまさに暴力ですね)権力行使を行なうかを狙ったものです。

 私がいつも強調していることですが、こうしたファシズム的な国家運営は、政治家の主導によるものとはいえ、高いレベルの官僚の積極的協力がなければ不可能です。

 しかし、今日焦点を当てたいのはそこではありません。

 ファシズム下では、人々の間にある暴力的な権力への欲望が「開放」されます。不合理で不条理な権力が露骨になるほど、人々は無力感にさいなまれます。この無力感は、次に、人々に自らが得られるならどのような権力であっても、それを渇望するようにさせます。自分が得て発揮できる権力であるならば、むしろ不条理で暴力的なものであるほど、権力保持の実感、快感を得られるものとするのです。

 入国管理局の末端の職員は、ただ上からの命令に対し、いやいや、あるいは単に職務として機械的に対応して、この措置を実施している人が多いかもしれません。

 しかし中には、こうした権力行使と一体化し、「解放感」を得るような性向を持つ人がいることは疑いないでしょう。

 ファシズムは、公務員の中でも、警察や入国管理といった、国家権力の直接的行使に関わる部門でこのような恣意的、暴力的傾向を目に見える形で高めますが、それは民間においても連続します。

 母親の抱っこひもにまで目を光らせてケチをつけ、あわよくば火祭りにあげようとする暴力的なツウィートは、このような「解放感」を求める人々が、ファシズム下ではより公然化していくことを示しています。

 しかし、私達の感性、コミュニケーションの方法は、それと全く異なったものであることを、どうどうと主張しましょう。私達の率直な言葉、率直な感情の表出は、まさにそれです。