学校での組体操事故への対応--「個人の尊厳」から程遠い日本社会
手違いで公開していなかった、「反ファシズム統一戦線」と「野党共闘」--その6(終)--ファシズム下の選挙を「いつも」の選挙にするなを公開しました。どうぞ、お読みください。
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私は、北海道5区補選の池田まき(市民・野党共闘)候補を応援します。
一方、京都3区の状況は、上記のシリーズで述べてきた「野党共闘」という戦略、スローガンの問題の側面をよく表している状況となっています。このことは、広原氏のブローグ(2016-04-14)を読むとよく分かります。
この問題の根本は、統一戦線を考える時に、どのように上記シリーズで論じた民主党(民進党)の性格、それを極端なものとしている小選挙区制の問題を扱うのか、という難問に関わります。
それについては、別の機会に論じます。
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ところで、今日も前から気になっていたことを書きます。学校の組体操のことです。1971-96年度に、9人の死者、2011-14年度には、毎年8千件以上の事故を出しています。3月25日に、国が「安全が確保できない場合は危険な技の実施を見合わせるよう、各都道府県の教育委員会に求めた」という指針を出したといいます(東京新聞2016・03・26)。
東京新聞は、千葉市などの教育委員会が、学校の組体操禁止を打ち出したことを報道してきました。国の対応を「それで十分なのか」というふうに批判的に書いています。
これは、各地の教育委員会が、「学校の判断を尊重する」といって下に責任を投げて自分の責任逃れをしているのと同様に、国も下に責任を投げて逃れている、といってよいと思います。
その意味では、東京新聞の姿勢は適切なところがあります。
しかし、私は、問題の扱い方の基本に大きな違和感を覚えます。
この種の問題で簡単な解決はいつもありません。だから、教育としてのプラス面とマイナス面を冷静に議論して決めよう、というのにも、賛成できません。そういう研究や議論も一部にはあってもいいし、あるいは必要かもしれませんが、それを問題解決方法の主流にしてしまうことには反対です。
組体操による事故が発生していることを知った保護者や生徒本人が、明確に組体操に参加しない、という最終判断を下した場合、それを尊重する、というのが私の提案(思想)です。
これは、「私の提案(思想)」と書きましたが、憲法に書いてあることであり、近代社会のスタンダードだといった方がいいでしょう。
ところが、日本社会では、こうしたスタンダードの実践が、有形無形の圧力によって忌避されるようになっています。学校のような場で、「皆が参加している」組体操に参加したくないという意思表明は、多くの親、生徒にとって崖から飛び下りるような勇気が必要かもしれません。
しかし、少し違うケースですが、学校の場でも本人等の強い意志(宗教の自由や良心の自由)は、守られなければならない、ということは、日本の最高裁でも認めているのです。それは、神戸高専剣道実技拒否事件の1996年判決です。
「エホバの証人」を信仰する生徒達が、闘争を意味する剣道の授業を拒否したために、進級を認めなかった神戸高専を訴えて、勝訴しているのです。
自分の身体の安全に対する強い危惧を持ったのであるなら、それ故、組体操を拒否することは、当然の権利です。
個人の尊厳というのはそういうことです。物事を真面目に考えるという作業は、様々な材料や基準や方法を外から持って来ますが、最終的には個人の内部で行なわれる作業です。そして真面目に考えるということは行動につながります。
学校でそれぞれが勝手な考えで勝手な行動したら、教育なんて成り立たないよ、という意見があるでしょう。
しかし、本当にそれぞれにとって大事なことを大切にしないと、つまり、「個人の尊厳」を大切にしないと、近代社会の教育は成立しないのです。