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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

(続)学校での組体操事故への対応--文科大臣あての生徒の手紙をどう読むか

 昨日、学校での組体操の強要が「個人の尊厳」に反することを指摘しました。今日はそのことを別の角度から論じます。

 その前に、私の議論の背景を少し述べておきます(詳論は別の機会にしますが)。

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 私は、このブローグで、ポストモダーン理論に対する政治的な役割について、批判を述べてきました。しかし、今一番の問題として感じるのは、ポストモダーンへの批判を理論的にして来なかったことよりも(それも問題ですが)、日本社会にある解決していない「古典的な問題」を、繰り返し語り、論じることを怠ってきたことです。

 私は、ポストモダーン派の議論に批判的で、相手にする必要もないお遊びのようなものと思っていましたし、今でも基本的にそのように思っています。しかし、ポストモダーン派が、日本に昔からあり指摘されてきた問題--集団主義や無原理な権力への迎合--は、すでに問題ではなくなったかのように言う時に、そうした問題が「ポストモダーン」とされる社会において、どのように通底しているかの分析をしてこなかったことは、こちら側の政治的な誤りでした。

 つまり、少なくとも日本におけるポストモダーン派の議論の役割は、彼らの議論が説得的であったというよりも、本来なすべき分析をさせて来なかったことにある、というように、今は反省的に考えるのです。

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 昨日のブローグで、組体操事故の報道を見ていて強い違和感を覚える、ということを書きました。この違和感は、事故被害者である生徒や親の意見表明が非常に痛々しいものであり、私に苦痛を与えることから出発しています。

 

 ネット上では、上記の記事があります。

 重大な傷害を負った被害者の証言が痛々しいのは当然ですが、それに加えて、被害者の学校内における位置(発言力)の弱さを随所で感じさせられること、やりきれない気持ちにさせます。

 上記の記事は、学校や教育委員会が事実隠しに走ったことや国会内の動きについて、全文掲載された生徒の手紙を軸とした構成によって論じた、良心的で詳しい内容のものです。

 しかし、私が感じる違和感は、記事を書く側、報道する側のこの手紙の位置づけ、問題把握の基本的立場の問題からも来ています。報道者は、被害者、親の側が弱い位置にあることを知っているだけでなく、それを「暴露」して弱い者の味方になろうとするわけです。ではどのように味方になるのでしょうか。この記事は、生徒の手紙について、「学校設置者に対して『中止』の指示や指導を明言できない国の態度に対して、子どもながらの疑念が込められている」というように論評しています。

 つまり--自分の言として明示していないところも今時の「ジャーナリズム」らしいですが--国が禁止しろ、というのです。事実論として、生徒と親は無力で、べき論としては、国が規制しろということです。生徒の手紙は国が規制をするための根拠となります。

 私は、この記事を読む前に、新聞でこの生徒の手紙の一部について知っていました。そこでも基調は同様でした。

 しかし、そのような生徒の手紙の扱いは、手紙の痛々しさを増すばかりです。私は、無力な生徒、親が「お上」に直訴する、というイメージを浮かべます。このようなイメージを少しでも防ぐものとして、記事の冒頭に「怒り」という言葉があるのは、救いではありますが。

 本来的に、生徒や親の深く考えたり、重要な経験を経た上での一人一人の意見は、「パワー」でなければなりません。事実として無力であったとしても、少なくともべき論としては、「パワー」、権力の発する大元です。「個人の尊厳」とは、集団的なパワーとして結実する以前の段階において、一人一人にパワー(表層的な力ではない、絶対的なものとしての力--今風には、フォースと呼ぶものかもしれません--)が存在するということです。

 この生徒の手紙は、すでに深刻な被害を負った者としての意見表明ですが、私のように「個人の尊厳」という立場からは、それは、奪われた尊厳を回復しようとする、それ自体力強い「個人の尊厳」宣言である、と理解されます。

 そしてこのような立場からは、この宣言は同時に、組体操の強要に反対する意志を明確に持つ親や生徒が共有するものであり、彼らによる組体操拒否という直接的な行動を支え、力づけるものになります。

 私の議論はひどくラディカルに聞こえるかもしれません。そうではありません。これは、近代国家の標準です。私はメキシコの教育の研究をしていますが、メキシコでこのような組体操を学校で強要すれば、それを否とする親や生徒達が直接に組体操拒否に出ることは、論を待たないと考えます。したがって、そもそも強要などできません。

 他の比較教育の研究者達にも質問してみたらいいでしょう。

 前のブローグで、宗教の自由と関わらせて議論しました。近代国家では信仰の自由の問題は重要性を持つので、宗教教育を行なう多くの国では、教育の中で少数派が異なった宗教教育を代替的に認める制度を作っています。

 日本でも、「エホバの証人」を信仰する原告が勝利した背景には、こうした近代国家の国際的標準があったことがあるのでしょう。

 マスメディアや「政治通」あるいは世間の人々は、メディア、ひいては国会に取り上げられることによって、この問題やこの手紙の「パワー」が発生、発揮するように捉えて、そのように扱っているのです。

 しかしそのような扱いは、この手紙が本来的に持つ力を、痛々しく、弱々しいものとしてしまう側面を持ちます。

 私のいうべき論は、私の頭の中にだけある空虚なものでしょうか。--そうではない、ということを次回にも論じます。