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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

(終)学校での組体操事故への対応--「1人の『勝手』も許さない」日本社会

 今の日本でも、親の多数が組体操に反対なら、それを学校が続けることは不可能でしょう。多くの親が、運動会での組体操の「感動」を求めて、それを支持していることが現状を支えています。

 このような時、つまり、多数が支持し、少数が深刻な反対を唱える時、どうしたらいいでしょうか。私は、多数は組体操をやり、少数は代替的な活動(体操)をやればいいと思います。「個人の尊厳」は、そういう形で実現します。

 ところが、多くの先生の「教育者としての満足」や多数の親や子供の「感動」は、組体操をやりたくなかった子供や親の存在や「多少の怪我」等の困難を「乗り越えて」、運動会という晴れの舞台で子供達のすばらしいタワーがプレゼンテーションされるところにあります。

 私が、こうした「満足」や「感動」を悪い意味で日本的だと思うのは、それが例外を許さない、ということです。この「満足」や「感動」を求める人々は、一人でも組体操への不参加者がいると、そのすばらしさが薄められてしまうように感ずるようです。そして、「一人の勝手も許さない」ということになります。

 一人の例外を許さないためには、例えば道徳の授業が役割を果たします。私もこの道徳教材をネットで見た時びっくりしましたが、すごいですね。

 この教材は、組体操事故の被害者を扱ったものです。

ぼくはそのまま病院に運ばれた。骨折だった。
ぼくは、目の前がまっ暗になったようで何も考えられなかった。

事故の原因は、わたる君がバランスを崩したことだった。わたる君はごめんと謝るが、つよし君は許すことが出来ない。そんなつよし君に、お母さんが次のように語る。

「一番つらい思いをしているのは、つよしじゃなくてわたるくんだと思うよ。母さんだって、つよしがあんなにはりきっていたのを知っているから、運動会に出られないのはくやしいし、残念でたまらない。でも、つよしが他の人にけがさせていた方だったらもっとつらい。つよしがわたるくんを許せるのなら、体育祭に出るよりも、もっといい勉強をしたと思うよ」

つよし君の心に、「今一番つらいのはわたるくん」という言葉が強く残る。そして、「その夜、ぼくは、わたる君に電話しようと受話器をとった」という一文でこの教材は終わる。

  上記のサイトは、木村草太氏が、この道徳授業材料を法的観点から検討しています。本来ならば、学校の法的責任が問われる骨折事故をスルーしていると批判しています。

 木村氏は、法を学校道徳より普遍性を持った規範として説明します。確かに、学校を超えた規範としての法の下では、「一番つらいのはわたるくん」等という論理が通ずるわけがありません。

 木村氏は、生徒側が持つ権利に対応して、学校(教育)が安全性を考慮する義務があるという視角から論じています。事故が起きてしまった以上、法廷では、民事上、刑事上、そこが論点となるでしょう。そしてその時、昨日のブローグで触れた事故被害者生徒の手紙(発言)の類は、やはり(原告者)証言としてそれ自体がパワフルなものとなります。

 ここでは、一見すると私が主張した「個人の尊厳」と異なった視角があるように見えます。しかし、被害者としての生徒個人の権利から出発していることが重要です。この出発点において、多数者の他の親、生徒、教員の意見や道徳観が入り込んでくることはあり得ないのです。

 本来近代社会では、個人の尊厳、個人の尊重、個人の権利は、本質的に区別しがたくつながっています。そして、日本社会でも一応、法的世界、法廷の場では、そうした近代的な価値論理が一貫していることとなっています。

 私は前回、私の主張がたんに机上の空論ではないとい言いました。組体操の被害者や拒否者(拒否による不利益を受けた者)が実際に裁判を起こし、勝訴する可能性は十分あるのです。

 しかし問題は、多くの人々にとってそのような学校を超えた規範としての法の規範性がなく、少数者が法に訴えようとすると、まさに崖から飛び下りるような勇気が必要とされることです。