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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!その1(序)--「新しい」市民運動=パワーの源泉としての個人

 日本では政治を語ること自体を忌避する雰囲気があり、現在は、そうした雰囲気を権力が巧妙に強化、促進し、同時に迎合する自治体やその末端機関が呼応していて、例えば9条を歌った句が、市民会館の広報誌から削除されるという状況です。

 他方で、それを打ち破る運動が市民や若者によって力強く展開するようになってきました。まだ少数ですが、高校生もそうした運動の担い手として現れてきたことに、私は感動します。

 私は、戦争法に反対する勢力の中で、この市民、若者の運動は、個人の尊重を基調とする、古典的な市民革命の精神に立つものであり、日本では「新しい」ものと捉えます。

 ここで「新しい」と「」をつけたのは、過去になかったのではなく、新しく再生してきた、という意味です。

 公共の場である市民会館の活動において、「政治を語ること自体を忌避する」というようなことは、市民革命が勝利した経験のある国では、あり得ないことです。しかし、近年はそうした雰囲気が権力者側によって極端に強化されようとしているのです。

 では、何故そうした動きに抗して、新しく、個人の尊重を基調とする、古典的な市民革命の精神に立つ運動が再生してきているのでしょうか。

 私は2つの要因があると思います。第1は、日本においても、直接間接に、市民革命の精神をスタンダードとする世界の社会運動、政治文化に接して、それに共感する人々が増大してきたことです。

 そして第2は、まさに上で述べた権力の動き(パワーの根源としての個人を無力化)が極端化していること自体が、逆にそれに抵抗する個人を生み出していることです。

 一方、私は、戦争法反対の運動は、こうした市民運動だけではなく、ずっと幅広い、国民感情、保守的な人々の参加によっても支えられており、支えられるべきである、と考えています。

 「新しい」市民運動とより広い保守を含む平和を望む人々の連帯が、私が願う統一戦線です。

 それはさておき、このシリーズでは、「新しい」市民運動の意義を自覚的に捉えておきたいと思います。

 日本では、政治を語る時の合意となる価値は、民主主義です。では民主主義とは何でしょうか。日本では、それは多数決のことです。政治学の議論でも、言論の自由があることろでの選挙、という形で集約的に表現しています。後者では、言論の自由という個人の権利の存在を前提としていますが、やはり話は多数決に行き着きます。

 民主主義という言葉が、集団決定の方法、政府などの権力を持った組織の生成の方法として理解されているのです。 

 「いや、多数決の前の話し合いが重要だ」という意見も少なくなく、民主主義という価値には、決定の前に話し合いを十分行なうべきとする価値も含まれている、との主張も、確かに少なくないでしょう。

 しかし、この場合も基本的には、民主主義が集団の意思決定方式として捉えられていて、「いつまでも議論していられませんから、最後は多数決」という論理に対して、十分な有効な抵抗の論理を含んでいないと思います。

 民主主義とは、基本的に集団意思決定の方法を意味するのでしょうか。それだけなら、一言でいえば、やはり民主主義とは多数決のことで、多数決自体が価値がある(他に挙げるべき価値はない)、ということになります。

 日本のこうした状況は、学校での状況と対応しています。学校では、民主主義の教育、憲法教育などがなされています。そこでは、市民革命、個人の権利といったことも教えています。しかし、教えられる生徒の側からは、特に頭に残るもの、言葉として出せるほど残ったものは、民主主義であり、それは何かといえば、多数決のことです。それ以上の説明としては、先に触れたような「まず十分な話し合いが必要だ」ということが付け加わるぐらいではないでしょうか。

 私は、民主主義の価値には、多数決では犯すことのできない価値が含まれていること、それが人権(個人の尊厳)であること、人権を侵すような多数決(ナチス政権がこれでした)とは対決する必要があることを、積極的に学校で教える必要があると思います。

 「新しい」市民運動は、上記の私の主張に照応しています。それは、パワーの源泉としての個人に起点をおく運動であり、そのことが、SEALDsの「民主主義って何だ」というコールに集約されていたと考えます。

 このシリーズ、続きます。