hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その2)--憲法の「キモ」を見逃すな

 個人の権利(パワー)は、集団的な決定や政府によって犯すことのできないものです。個人の権利(パワー)は、集団的な決定や政府組織に先行し、前者があって初めて後者が存在し得るものです。個人の権利を侵すものならば、多数決による決定や政府に対し、個人はそのような決定や政府を拒否する権利(パワー)を持ちます。

 これが民主主義の「キモ」です。このことをきちんと教えないならば、民主主義の教育、憲法教育は、今日のように大事な時に、確たるパワーを発揮できなくなります。

 上記の「キモ」と重なりますが、国民と政府は別物だ、ということをはっきり教えることも重要です。政府が多数決(選挙)でできたとしても、それは国民とは別物です。

 でも、私達はそういう教育を受けていませんね。おそらく、私のいうことはラディカルだという人が多いでしょう。

 しかし、繰り返しますが、私のいうことは世界のスタンダードです。こうしたスタンダードから離れた日本社会の集団主義的な性格は、40年前には批判的に論じられてきたのですが、ポストモダーン派の議論が流行するに連れ、問題や議論が「解決」したというか、そういうことをいうこと自体が、馬鹿にされるような「知的」雰囲気が作られてきました。

 さて、私が言っていることは、ちゃんと憲法にそのように書いてあります。私達の憲法はちゃんと世界スタンダードで、しかも当時の最先端として書かれたものだから当然です。でも教育がしっかりしていなくて、読む視点がしっかりしていないと、見過ごしてしまいます。

 このことは前にもこのブローグで書いたことがありますが、大事な点なので、もう一度引用します。

 憲法前文

日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 

と述べています。ところが、日本国憲法口語訳として広く知られているものをみると次のように「訳」されています。

 

俺らは、・・・また戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて、国の基本は国民にあることを声を大にして言うぜ。それがこの憲法だ。 

 

 この2つは、全く違います。前者では、国民と政府がと截然と区別され、「戦争の惨禍を起こす」のは政府です。それに対し、後者では、俺らの決意として戦争を起こさない、というのです。

 もしかしたら、後者の方がわかりやすく、「俺らの決意」がどうどうと歌われていて口語らしくていい、という意見が多いかもしれませんね。少なくとも、そういう感覚で作られた口語訳ですね。護憲派の人の善意で作られたものと思います。

 しかし、憲法というのは個人の権利と政府の権限の関係を規定したもの、個人の権利を出発点として、政府の権限の範囲を制限したものです。

 多くの国の憲法において、個人の権利を出発点としながらも、軍隊を持つ権限や他国に対し宣戦布告したり、戦争行動を起こす権限を、政府のみが持つ固有の権限と規定しています。

 ですから、日本国憲法で重要なのは、日本国民が政府に戦争行動をする権限を与えない、といっている点なのです。

 また、「再び」という言葉があることから明らかなように、戦前のような明らかに非民主主義的な体制の下だけでなく、民主主義的な政府でも戦争行動の権限があれば、それを用いて再び災禍をもたらすから、そのような権限は与えない、と言っているのです。 

 もし、第2次世界大戦の敗戦という事態の中で、市民が革命によって政府を倒して新しい民主主義政府と憲法を作り上げていたならば、様々な権利を侵してきた政府に対する勝利者としての経験を通じて、政府権限の決定者としての自覚が格段に強まっただろうと思います。そして、市民が政府に対し戦争行動の権限を与えない、という憲法上の宣言は、正しく私達の間に受け止められ、教育され、継承されてきただろうと思います。

 第2次世界大戦を経験した日本国民は、強い被害者意識を持ちました。そしてそうした被害は多分に政府が引き起こしたものだ、ということも同意事項でした。ただ、市民と政府(国家)の厳しい対決とその対決における勝利という体験を得ることはありませんでした。そうした体験を通じてなれたであろう、権利の主体、権利擁護のために闘う者となることはできなかったのです。

 憲法における個人の権利のことを書こうとする前に、国民と政府は違うということを少しだけ述べようと始めましたが、長くなってしまいました。

 次回、個人の権利の問題に続けます。