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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その4)--「民主的選挙による政府」でも、国民と違うのか?

 2つ前のブローグに対して、次のコメント(質問)を頂きました。 

id:touitusensenwo

国民と政府は違うということは、資本主義の世界では結局一部の資本家のための政府になってしまうということですか?それとも、そういうことを抜きにしても、選挙を経て選ばれた政府は国民とは違うということですか?

 

 結論を先に言うと、「そういうことを抜きにしても、選挙を経て選ばれた政府は国民とは違う」ということです。

 国民の人権は、選挙を経て選ばれた政府、どのような政府でも、侵す事はできません。このことを明確にする必要があります。このためにも、政府と国民を明確に区別する事が必要です。

 このような事は、議論するのが退屈なぐらい明確なことに見えますが、歴史的に見るとそう単純明快なことではありません。

 しかし、歴史的な視点を持ちながら問題を整理してみましょう。

 人権思想には、3つの局面があります。第1は、人権思想が、中世の王や絶対主義国家(君主)の支配に対する貴族・諸侯・人民の権利を擁護する局面であり、第2は、市民革命による市民権力(共和制的権力)を根拠付ける局面です。そして、第3は、市民革命が成就し、安定的な共和制国家が持続する局面です。

 第1の局面では、国家(支配者)による国民(被支配者)への統治関係が前提にあり、そうした統治においても、人権は守られなければならない、ということです。このような人権思想が明確に含まれた事件、文書として挙げられるのは、まずマグナカルタでしょう。日本では不思議なほど話題になりませんでしたが、去年2015年は、マグナ・カルタ成立800年でした。これは、立憲主義の原点ともいえるもので、立憲主義には、上記の第1の局面での人権思想が重要なものとして含まれています。

 第2の局面では、市民革命という行動を正当化する人権思想、市民革命によって生まれる権力を正当化する人権思想、さらに市民革命によって成立する体制・制度を正当化する人権思想が現れてきます。それは、第1の局面の人権思想を含みながら発展させられているものです。ロックの人権思想は、抵抗権、財産権、議会主権、等で知られますが、この第2の局面に対応するものです。

 ここで重要なのは、第2の局面では、第1の局面で現れてきた人権思想が廃棄されたのではなく、それをそのまま含んだ上で、さらに人民主権の思想が加わったことです。つまり、絶対君主による国家であろうと、人民主権による国家であろうと(つまり民主的選挙による政府であろうと)、人権が侵すことのできないものであることは、引き続き欠かせないものとされていることです。

 第3の局面では、欧米では特に変化が無く、第2の局面と同じ状態と考えられます(いわゆる社会権の登場はここでの議論とは別のことです)。

 マグナカルタ成立や市民革命のような歴史的経験を経てきた欧米において、こうした人権の3つの局面のあり方は、当然のものとして理解されているといってもよいでしょう。その意味では、 第3の局面を加える必要はなかったのです。

 何故、第3の局面を加えたかというと、日本のように第1、第2の局面の歴史的経験が欠けたまま第3の局面を迎えた場合、「国民自身が主権者(支配者)なんだから、人権思想によって国家の行動を制限する必要はない」というような、とんでもない議論が出てくる、ということをわかりやすく示したかったからです。これは、去年の国会で安倍首相が答弁したことですね。「立憲主義的な発想は、古い絶対主義国家の時代のものだ」という旨のことを述べていました。

 繰り返しますが、政府が国民によって選ばれたものであっても、国民の人権を侵すことはできません。

 今回は、人権思想の歴史的展開(局面)の観点から書きましたが、次回は、やはり歴史的観点から、国際的近代国家体制と国家の関係を考察し、そこから国家と国民が違ったものとならざるを得ないことを説明します。