hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その5)--国家とは--歴史構造主義の立場から

 国家と国民は違う、という議論を続けます。これから行なう議論は、柄谷行人 が、『世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて』(岩波書店)や『世界史の構造』(岩波書店)で述べていることを、私なりに、言いなおしたものです。

 前回の議論は、基本的に国内的な経過に注目しました。今回は、世界システム的な観点からの議論となります。

 一般に、国家とは「主権、領土、国民を有するもの」とされます。領土、国民はなんとなくわかるとして、最初に出てくる主権とは何でしょうか。何で、それが出てくるのでしょうか。

 それを理解するには、歴史的、かつ世界システム的論的な視点が必要です。 

 主権という概念は、私達にとっては日本国憲法に出てくる国民主権という言葉が一番身近ですが、歴史的には、主権の主体は国家です。国家主権という言葉は、現在では、国民主権との関係を述べたりする時に必要となりますが、かつては、国家のみが主権を持つということを強調するために使われた言葉です。つまり、かつては主権とは国家主権を指し、逆に、国家主権とは単に主権のことでした。ですから、主権という概念を理解するためには、主権を担う主体としての「主権国家」がどのようなものであり、どのように現れてきたかを明らかにする必要があります。

 まず主権国家同士は、軍事的・政治的・経済的・その他の形で、互いに争い、あるいは協力するという関係にあります。

 事実としては、主権国家の力は等しくないですが、主権国家間は、互いに、それぞれが次のような権限を持つ主体であることを認め合います。

 互いに交渉(広義の意味で、戦争も交渉の一つの形態とみなします)を行なう権限、当事者以外の国家による干渉を拒否する権限、自国内への干渉を認めない権限、主権国家を超える権力(具体的にはローマ教会、等)を認めない権限です。つまり、主権国家とはこれらの権限、すなわち主権を持った国家のことです。

 上で述べた主権という概念が、対外的な権力に対抗するという意味においてのみ成立していること、従って、主権国家というものが、一国だけではあり得ないものであることは、明らかでしょう。

 つまり、主権国家は、主権国家の集合体制(および主権を持たない地域の集合)としての国際社会が、同時的にあることを前提とします。

 そして同時に、このような国際的な体制の根本的な構成要素--それを超える権限を持つものは存在しないとういう意味で最高の絶対的権限を持つ主体--が主権国家です。

 この国際的な主権国家体制の成立は、通常、ウェストファリア条約(1648)によって始まったとされています。 

 この条約は、近代国家国際体制の誕生として知られますが、基本的に、近代国家とは主権国家のことであり、それは、このような国際的な枠組みを前提とした存在です。

 このことから出てくる第1のインプリケーションは、近代国家国際体制は、歴史的な進歩を表す一つの秩序であって、主権国家間は「ある種の平等な関係」があり、また、そこでの主権国家間の戦争は、その前の時代に比べて、より制御されたものになっていく、ということです。

 また、それが暗黙的に意味するのは、主権国家でないものを主権国家が支配することは、許されるということです。つまり、ある地理的な範囲とそこの住民が一定の政治的なまとまりを持っていても、他の主権国家から、その地域における主権の存在が認められなければ、それは主権国家になりません。そして、そのような地域の住民は、主権国家によって支配されることになりますが、それは、この国際的な主権国家体制によっては、むしろ正当化されるのです。

 従って、様々な主権を持たない地域の住民が、自分達の利益を守るために、この主権国家としての「平等な関係」を求めて、自らが主権国家となるための運動(独立運動)を起こすようになります。このインプリケーションは重要ですが、このシリーズの「民主主義ってなんだ!」とは、直結していないので、ここで論じるのをやめます。

 主権国家が国際的な主権国家体制の存在を前提としていて、そこでの根本的な構成要素であるということから生ずる第2のインプリケーション--このシリーズと直結する論点--は、まずは対外的な関係を意味していた主権という概念が、「対内的には絶対的な支配」を意味することになっていく、という点です。

 長くなってしまいましたので、次回に続けます。