hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その6)--(続)国家とは--歴史構造主義の立場から(マルクス主義と民主主義の統合)

 

 3回前に続き前々回に、次のコメント(質問)をいただきました。

id:touitusensenwo

「民主的選挙による政府であろうと」侵すことのできない人権がある、ということは、「政府」の否定とは違うのですね?直接民主主義を適度に取り入れるということですか?

 

 議論の前に、誤解を避けるために、ブローグのこの部分の表現を次のように訂正しました。

 

 修正前

(民主的選挙による政府であろうと)侵すことのできない人権がある

 

を、

 

 修正後

(民主的選挙による政府であろうと)人権が侵すことのできないものであることは・・・

 

 修正前では、種類によっては、侵すことのできる人権も存在するかの、誤解の余地がありそうだと考えました。国家(政府)は、すべての人権を護らなければなりません。

 その上で、touitusensenwoさんの問題意識を私なりに解釈しますと、「そんなことを言っても、人権と国家は衝突するのではないか」ということではないでしょうか。そういう直観は、重要ですね。多くの大問題は、そういう直観と関係しています。

 ただ、そうした大問題にどのように接近するかということは、多くの場合、何らかの先行的な思索があるので、それを踏まえた方が、議論が整理しやすいですね。私の場合、柄谷の議論を踏まえて、歴史構造主義という枠組みを念頭に置きながら、歴史的な説明をしています。そして、私としては、この説明(あるいはこのシリーズ全体)が、touitusensenwoさんのコメント(質問)に答えるものとなっていることを期待して書いているわけです。

 今回は、前回の続きですが、上記のような観点からの理解を少し助けるために、少し大げさですが、サブタイトルに、(マルクス主義と民主主義の統合)というような表現を加えました。そして同様の目的で、雑談から始めましょう。

 学生時代のことですが、私が民主主義を擁護すると、「ブルジョア民主主義」といって軽蔑する人達がいました。彼らは「マルクス主義」の立場に立って、ブルジョア革命、ブルジョア民主主義を超えなければならない、と主張するのです。

 それから、国家権力の問題を述べると、「古い」と嘲笑する人達もいました。フーコーが流行りで、学校にも、家庭にも権力はある、ということをまずは口にしないと、馬鹿にされるわけです。

 同時代に生きていないとどうしてもわからないことというのがありますね。40歳代、もしかすると50歳代以下の若い人達には、上の話は全然わからないかもしれません。上記の2つのふたつは、理論的にはそれぞれ互いに反対派ともいうべき立場ともいえるのですが、これらの傾向を持つ人達は、かなり重なっていました。あの時代の「知的」雰囲気(流行り)というのは、そういうものでした。あの雰囲気を言葉で再現するのは、ほぼ不可能ではないかと思います。

 しかし、理論や思想を雰囲気のようなものとして消費して満足するのではなく、自分の知的な血肉にしたいと思うなら、自分の頭で考え、理解し、あるいは疑問を改めて持つ、というような作業を必要とします。

 柄谷の議論はそういう性質のものです。それは、マルクス主義における国家論を正面から議論し直したものと言え、様々な面から評価できるでしょう。その一つは、近代社会においては、近代国家(主権国家)の権力が特別に重要な位置を占めていることを示している点です。それは、先に述べたようなフーコーの権力遍在論に対する批判となっています。この点が、前回に引き続き今回議論されます。

 ただ、柄谷の議論では、ブルジョア(市民)革命の意義が、不明確になっています。touitusensenwoさんの問題提起に関連して、この点についても触れたいと思います。

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 さて、前回の続きです。

 主権国家とは、国際的な主権国家体制の存在を前提とする、そこでの根本的な構成要素です。それは、主権というものが、まずは対外的な関係を示すものであることを意味しますが、同時に、それは「対内的には絶対的な支配」を意味することになっていきます。

 それは、何故でしょうか。それは、主権国家同士が交渉の主体であるためには、それぞれの国内では、その国家が絶対的な支配を持つことが前提となるからです。例えば、国家間で和平条約を結んだのに、国内でそれに従わない勢力があるということでは、国家間の交渉は無意味になってしまうでしょう。ここで、絶対的支配というのは、最終的には物理的強制による支配を意味します。

 今回は、また本論の前おきのような内容になってしまいました。次回に本論に入ります。