hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その7)--(続・続)国家とは--歴史構造主義の立場から(マルクス主義と民主主義の統合)

 昨日の続きです。

 最初に、touitusensenwoさんの問題意識に、違った角度から触れておきたいと思います。

 ここで問題にしているのは、近代国家という近代の国際的国家体制の成立とともに成立した歴史的存在です。

 そこで、touitusensenwoさんのいう「政府否定」ですが、これを「近代国家否定」という意味でいっているとすれば、私は理想の方向として、それに賛成です(柄谷は、歴史的にプルードンアナーキズムを参照したり、目指すべき理想としてカントの「世界共和国」に言及しています)。以下の議論で、私のいいたいことが明らかになるでしょう。

***************

 前回、近代国家の対内的側面が、絶対的支配を意味すると書きました。そしてさらに、この絶対的支配は、緊密的な支配も意味します。緊密的支配とは、国家が中間的な権力を持つ組織・団体を廃止して、直接国民を支配するあり方を指します。そこで、この近代国家による支配の新しいあり方を「絶対的・緊密的支配」というふうに呼びたいと思います。

 この「絶対的・緊密的支配」というものは、絶対主義国家において非常にわかりやすいものとなります。そこでは、主権が君主という一人の人格によって体現され、それ以外のすべての住民は、臣民とされます。

 このような国内支配の絶対・緊密性は、国際体制の持つ、各主権国家間の軍事的・政治的・経済的・社会的な対立・協力や主権国家が持つ主権を前提とするものであると同時に、そうした体制にとっての必要な要件として成立します。

 重要なことは、この支配の絶対・緊密性は、絶対主義国家にのみ存在するのではなく、市民革命後の国家も含め、国際的近代国家体制が続く限り、存在するものである、ということです。

 つまり、この絶対的・緊密的支配の存在(のあり方)は、支配方法の緊密化や柔軟化を通じて、今日まで、進化・深化してきました。

 柄谷の貢献は、近代国家のプロットタイプとして、絶対主義国家の重要性を強調したことにあります。そして、彼はそうした観点から、市民革命(共和的な国民国家誕生)の意義、それによって生じた変化や変化の可能性を低く評価します。

 これに対し、私は、市民革命の意味、意義として次の3つを挙げたいと考えます。

 第1は、ブルジョア革命です。それは、国内的に実力を持ちつつあった階級が国家を支配することを意味します。

 第2は、上記で述べた絶対的・緊密的支配の進化・深化です。国家を支配する階級は変わりましたが、国家が国民を支配するあり方としての絶対的・緊密的支配は、進化・深化しました。

 では市民革命がもたらした国家主権の源泉としての人民主権という考え方、その具現化の方法としての民主的な選挙も、国家による絶対的・緊密的支配の方法的緊密化・柔軟化であり、つまり、その絶対的・緊密的支配の「進化・深化」としてとらえられるのでしょうか?

 私は、基本的にYesと答えます。しかし、次に述べるように、人民主権や民主的選挙には同時に、近代国家の支配を超えていく可能性が含まれていると考えます。

 すなわち、第3に、市民革命は、人権という、近代国家を超えた普遍性を持ったものを価値視する考えを前面に押し出しました。それは、既存の国家主権(国際的近代国家体制)を超えていく可能性を持っています。

 今日、既存の国家主権の本質的に重要なものとして、国家の自衛権があります。これは、個人の生存権に基づくものと解釈されます。それは、国際的近代国家体制は、軍事的な対立を前提とするものであるので、戦争に備えることによってのみ自国の国民の生存権を守れる、という論理があるからです。

 しかし、国民主権や民主主義的な選挙が、既存の絶対的・緊密的な国家権力支配を正当化するもの、柔軟で緊密的な方法として機能するものでなく、国家を超えて、世界中の個人の生存権を本当に優先するものとなるためには、現在国家の自衛権の名の下に許されている、国家(あるいは他の団体)による強大な軍隊の保持自体が禁止されるべきです。詳論は避けますが、これは「国家(政府)否定」「世界共和国」の議論につながります。

 私は、市民革命の思想には、そうした可能性が含まれていると考えます。

 まさに、日本国憲法はそうした個人の生存権のあり方を目指す、その最先端にあるものです。