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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その8)--国家とは(終)--歴史構造主義の立場から(マルクス主義と民主主義の統合)

 今回で、touitusensenwoさんのコメント(質問)に対する答としての「国家--歴史構造主義の立場から(マルクス主義と民主主義の統合)」とはという大げさなサブタイトルの議論の締めを行ないます。

 前回、市民革命には3つの意味、すなわち、①ブルジョア革命、②近代国家としての絶対的・緊密的支配の進化・深化、③人権という、近代国家を超えた普遍性を持ったものを価値視、があると指摘しました。

 従来、マルクス主義では、①②の面を強調する議論があり、③を主張するマルクス主義者もいましたが、理論的根拠が曖昧で、①②とどのような関係にあるかがうまく議論できていませんでした。

 そして、かなりの論者が、②をブルジョア(資本家階級の支配する)国家の問題として考え、近代国家一般の問題ととらえない立場でした。このことの「論理的帰結」として、社会主義革命が起きて、社会主義国家が成立すれば、②の問題は、「自動的」に「解決」する(問題が生じない)とする主張につながりました。すると、当然③の人権問題も、「自動的」に「解決」(問題が生じない)ということになります。

 しかし現実はどうでしょう。むしろ社会主義国家で、人民主権の名の下に、一党独裁が進み人権問題が深刻化します。

 国家による支配の廃止、人権問題の発生の除去が社会主義によって「自動的」に実現するという考えは、実際には、こうした現実を正当化する役割を果たすものとなってきました。

 柄谷の国家論の貢献は、こうした議論を、国際的な近代国家体制の成立を世界史の重要なエポックとして位置づけ、すべての国家(社会主義国家も含め)が、この体制の枠組みの中から逃れ得ないということを明らかにしたことです。

 ただ、柄谷の議論で明確にされていないのは、③の人権思想の意義の問題です。私は、この問題に関して、従来の議論を一歩進めるためのヒントを、柄谷の議論自体が持っていると思います。

 柄谷は、目指すべき方向をアソーシエイショニズムと呼びます。それは、交換様式の一つであり、「市場的交換(交換C)」と「国家による略取と再配分という交換(交換B)」の支配によって消えていきつつある「共同体の中での互酬的交換(交換A)」を高次のレベルで復活した、「理想の交換(交換D)」とします。この高次の「理想の互酬的交換(交換D)」は、普遍宗教によって開示され、あるいは、カントによって「他者を手段とせず、目的とする」という道徳律として示されたというのです。

 アソーシエーショニズム(交換D)は、国家に依存することなく直接に交換における正義を実現します。つまり、市場的交換(交換C)がもたらす格差の発生を、事後的に国家が再配分(交換B)によって是正するのではなく、アソーシエーション間およびアソーシエーション内で、「他者を手段とせず、目的とする」ような交換Dが行なわれるようになるのです。

 国家の廃止は、「略取と再配分という交換(交換B)」の重要性がある社会では不可能です。柄谷は、アソーシエーショニズムこそ、国家の廃止を目指した運動の「正解」であるとするのです。

 柄谷によると、初期の社会主義や革命における大衆的運動は、宗教的な色彩を帯びているのは、こうした普遍宗教によって開示された理想を体現しているものであるからです。

 また柄谷は、カントによりながら、国際機関がアソーシエーショニズムを実現するために鍵的な位置を占めることを議論しています。

 他方柄谷の議論の中では、ほとんど人権論的なものは取り上げられません。何故人権論が重要性を持たないかといえば、2つの理由があると思います。

 第1は、彼の主張するアソーシエーショニズムという分配様式の議論との接点が、人権論には見出せないことがあります。

 第2は、人権論は、社会契約論との関係で取り上げられるものであり、それは結局のところ、近代国家正当化の根拠をなすものとして捉えられているからです。

 確かに、ロック、ルソー、ホッブス等の議論は、世界システム的論的な視点が欠けており、柄谷のいう「国内の側から国家を説明する」ものです。この意味で、「万人の万人に対する闘争」は、一国の範囲で捉えられています。

 これに対し、カントの永久平和論を読みますと、実質的に、基本的な闘争状態は、「隣国と隣国」の間にあるという現実に則した、世界システム論的な把握に基づいた議論になっています。その上で、国内の体制の問題も議論されています。 

 しかし私は、柄谷の議論に加え、人権論の意義を改めて歴史的な深さを持って考えるべきだと思います。

 カントの永久平和論は、国家間の関係をテーマにしているから世界システム論的視点となった、ということではありません。彼の「人々が平和を得るためには、どうすべきなのか」という問題関心が、国家間の関係に焦点を当てた議論が必要であることを悟らせたのです。 

 カントの議論を見ますと、自由で理性的な個人、自立した個人を基礎としています。それは、市民革命や人権論的な議論を踏まえて、出てきているものと理解すべきではないでしょうか。そしてそれがまさに、国家を超える議論を可能としています。

 また、私のこのシリーズの(その4)において、人権思想の3つの局面を、①支配に対する貴族・諸侯・人民の権利を擁護する局面、②市民革命およびそれによって成立する市民権力(共和制的権力)を根拠付け、正当化する局面、③市民革命が成就し、安定的な共和制国家が持続する局面、から考察しました。

 ①②の局面では、人権思想には、近代国家を正当化する意味はないか希薄であって、人々の自由やパワーを肯定することが主眼でした。社会契約論は、国家を造るための議論とされますが、それは壊すための議論(ロックの抵抗権論)でもあります。人々の自由やパワーを妨げるような国家は、必然的に壊されるというものです。

 柄谷の言う高次で互酬的交換を回復する「交換 D」は、自由な都市に出自があり、自由な個人を前提としているものであり、古い共同体的な規制の中にある個人を前提としていないはずです。柄谷のアソーシエーショニズムという議論では、それを支えるはずの自由な個人という契機が必要なはずですが、それを見出す作業が、まだなされていないのです。

 自由な個人、自立した個人、等というと、また古い議論だと思われるかもしれませんが、私は、特に2011年の原発事故以来、この古典的なテーマが日本社会にとって非常に切実な問題となってきているのを感じます。

 私の浅い知識ではこれ以上進めませんが、こうした観点から、人権思想と柄谷の言うアソーシエーショニズムとの関連を見直すことができるのではないでしょうか。

 なお現在、国際社会では、生存権、平和に生きる権利というものを、国家の問題(国家間の安全保障)を介して捉えるのではなく、国家を超えた、直接人々のレベルでの権利として考え、「人間の安全保障」として捉える動きがあります。こうした動きを「流行」に終わらせないためには、問題意識の明確さとともに、以上述べてきたようにことについての歴史的な深さを持った研究が必要だと思います。