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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その9)--(番外編)国家に対峙する強烈な自我

 前回、柄谷があまり人権について議論していないとして、その理由として、①彼の主張するアソーシエーショニズムという分配様式の議論との接点の欠如、②人権論は、社会契約論、近代国家正当化の根拠として把握されている、ことを述べました。

 私は、これを、『世界史の構造』(岩波書店)を読んだ時の記憶で書いていたので、該当個所を読み直してみましたら、①の接点の欠如、というのは間違いでした。

 彼は、②の問題を、プルードン対ルソーという形で論じています。プルードンは、アナーキズムですが、それは、柄谷のいうアソーシエイショニズムにおいて高い評価が与えられています。つまり、②の問題を論ずる形で、①の議論も行なっているわけです。

 アナーキズムというと、無政府主義=無秩序というイメージがあるかもしれませんが、それは近代国家否定であって、自治的な秩序、組織を提起するものです。

 詳しくは、同書のpp.353-356を読んで頂くとして、今日は、ちょっと横道に逸れます。

 自由な個人という時、そこからさらに「自立した個人」というような表現をすると、急に教科書的な印象がしてきます。

 また、近年国際社会で「人間の安全保障」という議論が、人権論の延長で言われている、ということを述べましたが、これも教科書的で、それから、何か人々は(誰かによって)「安全が保証されるべき」存在という、人々が弱々しい存在であるような印象があります。

 私は、人権論を語る時には、自由でパワーのある人間を前提とすると同時に理想として考えるべきだと思っています。すると確かにそれは、教科書的な人権論よりも、アナーキズムの系統の議論につながるのかもしれません。

 そこで、私自身はまだ読んでいないのですが、たまたま見た面白そうな2つの本の紹介について触れておきます。

 1つ目は、栗原康『村に火をつけ、白痴になれ--伊藤野枝伝』(岩波書店)の紹介(東京新聞5月22日)です。読む前に偏見めいたことをいうのはまずいですが、アナーキズムを紹介する人は、それへの論理を超えた思い入れが強い場合が多いように感じます。

 日本では特にそれを感ずるのですが(柄谷は例外でしょう)、それは、日本の近代国家としての、明治以降の絶対主義的天皇制の過酷さがあることを忘れてはならないでしょう。

 石川達三の『蒼氓』(1935年、第1回芥川賞受賞)という作品がありますが、そこでは、ブラジルに移民していく日本人が厳しい環境に向かっていっているにもかかわらず、近代国家の「緊密的な支配」から解放されていくという感情を味わっているという意味のことが、度々書かれています。

 それだけ、強烈な自我を持った人々が、極少数とはいえ現れ、国家と対峙することとなります。伊藤野枝は、そのような一人だったのだろうと思います。

 もう一つは、石山照明『「行雲流水」-ある大本教信者の数奇な生涯』(エスアイビー・アクセス)の紹介

リベラル212016.05.23)です。

 大本教については私は何も知らないといっていいので、特に解説はしません。ただ大本教信者であった石山喜八郎の破天荒な国家との対峙は、この宗教の天皇制国家を超えた世界連邦主義的な理想と彼の魂の共鳴を意味するものであり、その柄谷がいうところの「普遍宗教的理念」の要素に支えられていたもののであろうと、今のところ想像しています。