hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

民主主義って何だ!(その10)--沖縄で私達は何を見つめるのか(II)--近代国家と民主主義

 6月5日(日)は、14時から国会周辺で、選挙での野党勝利のための大集会(総がかり行動)があります。私も参加するつもりです。皆さんも、是非どうぞ。

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 私達は、沖縄をどのように見てきたのか?このことを議論します。ここでいう私達とは、私達の代表と考えられる人々や政府に批判的であった人達、あるいは私達多くの国民に影響力を及ぼした人々です。

 引き続き古関彰一 『平和憲法の深層』(筑摩書房)に基づいて議論します。

 古関は、「沖縄から見て日本国憲法は、沖縄県民をその出発点から論外の存在としてきた」「その後の沖縄の基地への本土の無関心ぶりの源泉も、この辺にあるのであろうか(p.119)」、と論じています。

 私は、「無関心」ということで1946年と現在を並べることには賛成できませんが、確かに、そこを重要な歴史的時期・歴史的論点として遡るべきものと考えます。

 何故なら、言うまでもなく新憲法の制定という事件は、私達の民主主義にとって重要な画期だったからです。そして、そうでありながら、それが市民革命によってもたらされたものではなく、日本の敗北、事実上勝利者としてのアメリカ軍によってもたらされてのものであったことが、私達の行動や意識に現在まで影響を与えているからです。

 古関はまず、戦後初の衆議院選挙において沖縄住民が選挙権を奪われることに関して、最後の帝国議会(1945年)での議論を指摘しています。沖縄出身の漢那衆議院議員の「政府は県民の代表が帝国議会に於て失われんとするにたりまして、凡ゆる手段を尽し、之を防ぎ止めねばならねと存じます」と断じましたが、これに呼応する本土の議員はいなかった、ということです。

 また、直接、新憲法の制定に関わってはどうでしょうか。そこでは「国民」や天皇のあり方が議論の対象になっていました。したがって当然、沖縄住民の権利、選挙権、の問題と国民の権利の関連等が問題なってしかるべきでした。ところが、そこでも全く議論されなかったのでした。

 貴族院議員であった宮沢俊義南原繁は、憲法学者、政治学者として当時より国民世論、論壇に大きな影響を及ぼした人達であり、「国民」について語りましたが、「沖縄の民」については、黙していました。

 1946年の沖縄住民を参政権を排した選挙で成立した衆議院には、沖縄名護出身の共産党書記長徳田球一がいました。彼もまた、沖縄のことを憲法との関連で論じていないのです。

 私は、この時期にあった感覚は、沖縄に対する「無関心」というよりも、敗者としての日本、圧倒的な勝者としての占領軍米国という「リアル・ポリティーク」だったと思います。この感覚によって、日本の支配層もそれ以外の日本国民も覆われていました。

 この感覚は、勝利者としての市民の力強い権利感覚とは異なるものでした。つまり、それは新憲法が市民革命の結果として生まれつつあったならば存在したであろうものと異なっていました。

 私は先に、市民革命が3つの意味を書きました。そこで第3番目に「人権という、近代国家を超えた普遍性を持ったものを価値視する考えを前面に押し出した」ことを挙げました。

 このような普遍性は、矛盾するようですが、歴史的には、人権とネーション(ひとつの国民共同体)が強く結びつく形で現れました。この人権とネーションの幸福な「結婚」は、アメリカの独立、フランス革命を典型とするものです。 

 日本における新憲法の制定は、市民革命に比すべきものであり、こうした人権とネーションの問題を正視すべき重要な画期、機会だったのですが、それは失われてしまいました。

 日本の支配層は、沖縄についても、朝鮮や中国の領土・人々への植民地支配の場合と同様に、自らの都合に合わせた国家帰属・国籍処理を行ないました。

 彼らのリアル・ポリティークの中では、沖縄は、米軍、米国に差し出すべき「人身御供」となりました。それは、さらに江戸時代にまで遡る沖縄に対する支配者の感覚につながるものです。

 他方、一般国民を代表したり、それに影響を与える人々の中でも、人権の問題(すなわち憲法の問題)とネーションの問題(すなわち沖縄の主権の問題)をつなげて理解し、問題提起する努力がありませんでした。特に一度新憲法が成立してしまうと、そうした契機は大きく失われてしまいました。新憲法を持った新日本という「別のリアル・ポリティーク」が前提となりました。

 この後、1951年のサンフランシスコ条約、安保条約の成立をめぐって、全面講和を求める国民的な運動が展開されます。この運動自体は、重要な意義を持つものと考えますが、そこでの議論は、沖縄の住民が持つ権利を根底においたものというよりも、「日本」の主権・平和という国家的な枠組みを前提とするものとなっていきました。

 沖縄の住民が持つ権利を根底におくならば、当然、沖縄住民の「自己決定権」が最優先の原理として掲げられるはずでした。*1

 私の学生時代に、日米沖縄返還協定(1972年)が結ばれました。この時私も、核付き、基地付きではない、真の返還を求める運動に参加しました。しかし、私自身もこの時は、沖縄の人々の人権の問題と、国家帰属(主権)の問題を深く結びつけて捉えてはいませんでした。

 この問題を重く、苦しい課題として抱え続けてきたのは、沖縄における運動です。現在のオール沖縄の闘いは、ファシズムの反民主主義、ファシズムご都合主義によるネーション幻想のバラマキを、その残酷さとともに、私達に暴き立てて見せてくれています。

*1:「自己決定権」の問題は、帝国主義や大国による傀儡政権の設立を正当化するものになる、としてそれに反対する主張があります。こうした主張は、それがその地域住民に完全に平等な権利の実現をもたらす努力と一緒になされるものでないならば、その主張者自らが、帝国主義や大国の代わりとなる者であることを、ただ示すだけです。