歴史のすばらしい贈り物--日本国憲法(III)--(続)保身の宮沢俊義教授「8月革命」論
歴史を語る時、しばしば必然と偶然ということが議論されます。
敗戦から1950年代までは、この必然と偶然が交錯する政治の季節であり、様々な人々、勢力がその中で動く様、それによって大きな流れや制度が形成されていく様がわかってくると、胸がわくわくしてきます。
このブローグにおける「歴史的」というような表現は、単に昔のことという意味ではなく、この濃密な時間における決定的なできごとを捉えたい、という気持ちが入っています。
前回、ポツダム宣言について議論しました。実は、それを調べている過程で、アカデミックな研究は別として、いわゆる「論壇」というようなところ、あるいはネット空間では、右派の方が、ポツダム宣言に言及し、利用しているという印象を受けました。
何故そのようなことが起きるのか、それは、日本では
への強い衝動、探究心の欠ける文化が根強くあるからのように思われます。
アカデミックな歴史研究者を除き、歴史は自分の都合の良いように振り返り、それを都合よく解釈し、利用するもの、という態度が広範に見られます。
今日の歴史修正主義者--権力者の権力に依れば、歴史でもなんでも塗り替えられる--に通ずる精神や文化の「伝統」があり、もちろん、それに抗するもう一つの「伝統」もあるのですが、後者が決定的な勝利を得て、歴史の中に覆し得ない刻印を残した経験(つまり、革命ですね)を持ったことがない、というのも重要な点です。
このような文化的背景の下で、アカデミックな研究者も、歴史修正主義者の妄言と闘うのではなく、それに関わらないで、狭いアカデミックな世界の中で、「真理を追究する」ということになりがちなようです。
また、前置きが長くなりそうなので、急いで本論に入ります。
右派の論客として知られる江藤淳は、新憲法の制定過程を論ずる中で、ポツダム宣言について、次のように述べています(江藤淳[1989]「解説」(江藤淳編『占領史録3 憲法制定経過』講談社 378ページ)。
)。
①
ここで「日本國國民ノ間に於ケル民主主義的傾向ノ復活強化」というからには、連合国側は、帝国憲法下にあっても日本には本来「民主主義的傾向」が存在していたことを、黙示的に認めていたと解釈することが可能である。
②
もともと存在していたからこそ「復活」が可能なのであり、帝国憲法と「民主主義的傾向」は、決して相互矛盾的価値関係にあるものではない、と解し得るのである。
③
この解釈にしたがえば、日本の「軍国主義」なるものは一時的かつ偶然的なもので、かならずしも帝国憲法の必然的所産ではないことになる。
④
したがって、ポツダム宣言履行のために特に帝国憲法を改正する必要は認められず、単に「軍国主義」を助長したと考えられる諸法令の改廃を行えば充分であり、あとは運用によって対処し得るはずだ、とする見解が成立可能である。
江藤の解釈は、歴史修正主義の原点のようなものですね。
上記①は、その通りです。それどころか、これまで見てきた通りに、ポツダム宣言では、民主的傾向の存在が「黙示的」ではなく、「明示的」に、重要な存在として言及されているというべきでしょう。
ところが、②となると、インチキが始まります。「帝国憲法と『民主主義的傾向』は、決して相互矛盾的価値関係にあるものではない、と解し得るのである。」
こんな論理は子供だましです。
例えば、「ナチス体制の支配下でも民主主義的傾向は存在した。だから、ナチス体制も民主主義的傾向と相互矛盾的価値関係にあるものではない」といったとしたならば、こんな言い分が「無理筋」であり、相手にされないことは明らかでしょう。
ところが、この「無理筋」の②をもとにして、③④とインチキの議論を「可能性」としてもっともらしく述べていきます。
もちろん、それは江藤にとっては論理的可能性ではなく、実現してほしかったことであり、今日なおその可能性を追求したい事を表しています。
ただこのような「無理筋」は、当然のことながら、当時の占領軍によって一蹴されたというわけです。
さて、ここで宮沢俊義の役割の問題を議論します。江藤の「無理筋」の議論が有効性を持つような雰囲気を漂わせる一つの理由には、宮沢の歴史的役割についての不明朗さがあるからです。
長くなりましたので今回はここで止めます。次回こそ、本当にこの本論に入ります。