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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

歴史のすばらしい贈り物--日本国憲法(V)--(続・続・続)保身の宮沢俊義教授「8月革命」論

 

 1946年3月6日、日本政府は、「憲法改正草案要綱」を発表します。4月10日は、戦後初めての衆議院選挙(女性も参政権を得た)です。宮澤は、5月に、『世界文化』に「八月革命と國民主権主義」という論文を発表しました。宮澤によるとその原題は「八月革命の憲法史的意味」であったとされています。

 私は、この『世界文化』の論文を探したのですが、入手できませんでした。そこで、この論文が再録されているとされている

 

宮澤俊義コンメンタール 日本國憲法 別冊附録』(日本評論社1955年)の中の「日本國憲法生誕の法理(pp.308-327)」

 

を利用することとします。この論文の内、「八月革命の理論」とされた部分が、『世界文化』に掲載されたものと考えられます。

 

 それは、次のように構成されています。言葉は、分かりやすく言い換え、簡潔な文に換えていますが、ニュアンス等も含め、できる限り、本文の論理を忠実に再現したつもりです。

 

(A)今回の政府の「憲法改正草案要綱」は、国民主権主義を述べており、従来の帝国憲法天皇主権主義(究極的にはその政治的権威を神に由来するものとする神権主義)とは根本的に異なる。

(B)このような根本的に異なるものへの転換を、帝国憲法の改正規定に従って、憲法改定の形で行なうことが許されるか?

(C)普通なら許されない。何故なら、改正手続きそのものが憲法の根本的建前によって効力の基礎を与えられているから、その手続きでその建前を改正することは、論理的に不可能だからである。論理的自殺、法律的に不可能である。

(D)しかし、今回は、特別の理由で許されると考える。以下に説明する。

(D-1)敗戦という事実の力で国民主権主義が採用された。これは神の政治から民の政治へという革命(「八月革命」)である。

(D-2)この革命によって、天皇制は維持されたが、天皇の権威の根拠は神意から民意に変わった。

(D-3)この革命後も、帝国憲法は維持され、効力を有したが、この根拠たる建前が国民主権主義に変わった結果、この国民主権主義に抵触する限度においては、帝国憲法の意味が変わった。

(D-4)帝国憲法は維持され、効力を有するのであるから、国民主権主義に抵触しない限度においては、帝国憲法の規定にしたがってことを運ぶのが当然である。この意味で、憲法改正も、帝国憲法第73条の改正手続きによることとなる。

(D-5)ただし、国民主権主義に反する「天皇の裁可と貴族院の議決」は、形式的にはこの73条に規定が存しているが、それは憲法としての拘束力を失っていたと見るべきである。

 

 

  私の宮澤のこの論文への批判、宮澤の行動への批判を、前回指摘した宮澤の自らの行動の正当化、という観点から行ないます。

 まず留意点として、第1に、この宮澤論文は、まだ新憲法についての国会議決前の段階で発表されたものであることが重要です。つまり、帝国憲法の改正条項に基づく新憲法の制定を、事後的に説明、正当化したのではなく、そうした手続きによる改正を事前に積極的に正当化しているのです。

 この論文は、眼前に起きつつある事態を理論的に解説し、また問題の最先端を把握、指示するものとして、非常にスマートなできあがりだと思います。

 ただ彼が最先端を把握、提示できたのは、後に述べるように、彼自身が政府内部で新憲法制定作業に関わっており、占領軍の指示等の情報について、アクセスがあったからでもあります。それは宮澤が体制内のすぐれた知的エリートであることに照応しています。

 彼はまず、新憲法の本質を(A)という形で提示しています。私はちゃんと調べたわけではないですが、当時、このように問題を整理できた日本人は、多く見積もっても数十人といったところではないでしょうか。憲法学者、その他で雑誌や新聞で論文、論評した中に、(A)のように問題を整理して公表している人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。

 しかし、彼のスマートさ、知的イニシアチブは、(A)に止まっていません。

 すでに、この時点で問題は新憲法の内容ではないと判断しています。その内容は、本質的に大きな変化で驚くべきものであるけれども、ほとんどの人々がそれを受け入れ、歓迎していることを素早く見取っています。

 そこで今何が問題かといえば、(B)、つまり改正手続きにあると考えたわけです。これも素晴らしいセンスです。政府案に文句がつけられるとすれば、ここが「弱点」であることを感じたわけです。

 そこで、彼の本来的論理、自然な論理(つまり(C))に従えば、明治憲法にある改正手続きに則ることは止め、普通に、新しく新憲法を作れば、良かったはずです。

 ところが、宮澤は何故か(D)の議論を始め、特別な理由があれば、明治憲法にある改正手続きに則ることも許される、と言い出すのです。

 当然政府内でも、それは重要な問題として議論があったはずです。

 私は、直接証拠を見つけているわけではないのですが、様々なことから、宮澤は政府内で(D)、すなわち、明治憲法にある改正手続きによる新憲法の誕生を支持したと推定しています。

 そうでなければ、まだ、案の段階にあるものについて、つまり事前に、(D)のように「特別な理由」で「許される」というような議論をわざわざ展開する必要性がないはずです。

 また、彼の「理路整然」とした議論の中で、(D-5)は、いかにも無理があります。このことは、宮澤の胸の中では、最初からはっきりしていたように思います。

 ここで少し細かいですが、気になる点として、「『天皇の裁可と貴族院の議決』は、・・・憲法としての拘束力を失っていたと見るべきである」として、「失っていた」という過去形の表現がなされていることです。

 これは、もしかしたら、『世界文化』に発表した時は、「効力を失っている」と、現在形だったものを、憲法成立後に出版したこのコメンタールの中では、過去形に変更したのかもしれません。

 しかし、いずれにせよ、彼の論理を一貫させようとするるならば、少なくとも、ただ「効力を失っている(いた)」として止めるのではなく、例えば、「従って、『天皇の裁可と貴族院の議決』は、避けなければならない(この論文を再録している現時点では、すでに行なわれてしまった『天皇の裁可と貴族院の議決』は、形式上は存在したが、過去に遡って無効のものとされなければならない)」と、付け加えるべきだったはずです。ところがそれはないまま、いきなりこの「八月革命の理論」の部分は終わってしまうのです。

 宮澤が、以上のように論理一貫性、論理的説得力を犠牲にしながら、帝国憲法の改正条項に基づく新憲法誕生を正当化しようとしたのは、何故でしょうか。

 それは、自己の行動を正当化するためには、この帝国憲法の改正条項に基づく方法を正当化する必要があったからです。

 私から見ると、この論文は、自分の行動を正当化することと、知的エリートとして論理を大切にすることとがぶつかり合ったものです。

 彼にとって、この論文は、問題を乗り越えられないことは分かっていて気になる部分、つまり(D-5)のことを書かないではいられなかったように思います。他人に指摘される前に、自分で問題をしておきたい、というエリート意識や、あるいは、(D-5)をあのような形で書くことによって、この手続きを用いることを、わずかでも正当化しておきたい、という心理が働いたのではないでしょうか。

 私から見ると、この論文は、彼にとってある意味では、(D-5)を書くためのものだったようにすら感じます。

 次回は、もう少し広い視点から宮澤の行動を議論したいと思います。