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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

歴史のすばらしい贈り物--日本国憲法(VIII)--官僚言語の正反対にあるもの

 前回、ベアテによって女性の権利が憲法に明示されたことを書きました。

 「明示する」「宣言する」ということはとても大切なことです。

 「そんな青二才のようなことをいうな」「曖昧にするのが、大人の態度である」というような圧力が法外に強いのが日本です。

 さらに、原理原則よりも実質を取れればそれでいい、というような議論もあります。

 こんな日本で、「男女平等」が明記された憲法ができたのは、奇跡といってもいいことです。まさに歴史のすばらしい贈り物だったのです。

 同時に、贈り物をどう受け取るか、どう生かすかは、受け手の主体性の問題です。

 私は、1999年に「男女共同参画」という言葉が出てきた時、非常に違和感を覚えました。比較的最近それを調べて、それが、「男女平等」を避けるために「発明された」概念であることがわかりました。

 「男女平等」だと、不平等がすぐ問題となり、是正が必要となるのに対し、「男女共同参画」なら、一人でも女性が委員会に入っていれば、それでいいわけです--うるさいやつはこれで撃退できる、委員にうるさくないやつを入れればいいんだから。角のたたない表現にくるんだ、なんとすばらしいアイデアだろう--。

 官僚の仕事のかなりがこのような「発明」であり、それが評価される、というのは悲しい時代であり、悲しい社会です。

 占領軍のヘッドクォーターの「一官僚」の地位を一時的に得た若きベアテ氏が、「男女平等」という明晰な表現--官僚言語の正反対のもの--をプレゼントしてくれたことは、歴史の逆説というべきでしょうか。

 日本社会において、ずいぶん遅れて、「男女共同参画」が出てきました。それで少しでも前進できたのは、まさに、憲法に「男女平等」が明記されていたからです。これがなかったらどうなっていたでしょう。

 「なかったら」というこの仮定は、十分あり得たことです。他の人権条項もすべて同じです。1946年のGHQ草案以前の政府案は、基本的に明治憲法と変わらないものだったのですから。

 5月31日の東京新聞に、議員数を男女同数とすることを目指す「クオータ」法案を野党4党が提出したことが述べられています。そこで、自民党などが、「同数」ではなく、「均衡」を主張して、この法案に反対しているとされています。

 

民進の山尾志桜里政調会長は、 「政治の世界では女性が少なく、何が『均衡』かを決 定するのも男性。解釈の余地のない『同数』でなければだめだ」と自民などを批判

 

 と報じていました。

 ベアテの贈り物をどのように受け止めるのか、ということはここにも現れているのではないでしょうか。