hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

他人の自由を嫌う人々と新自由主義・ファシズム(1)--「音楽に政治を持ち込むな」という「政治」がなぜ活性化するか

 最近、フジロック・フェスティバルに関して「音楽に政治を持ち込むな」という主張が、ネットの中で叫ばれている、ということを知りました。

  

  古今東西、パーティでは、政治と宗教の話はするなと言われています。ただ私の知る限り、日本と欧米とでは意味が違います。

 日本の場合は、話をするな、というよりも、政治について関心を持ち、意見を持つこと自体、宗教を持つこと自体に対する否定的な意味があります。

 欧米では、政治的意見や宗教的信条(無神論者は無神論者としての信条)を持っているのが前提としての話です。

 欧米といっていますが、私が研究しているメキシコでも同じです。やはり、そこは欧米的な文化が共通しているのでしょう。

 ただ今日言いたいのは、そういう日本的表現の奥底にあるものに目を向ける必要性です。つまり現在、ネットでそうした声が表面に出てきているのは、むしろ、ファシズムの下において、日常レベル・身の回りレベルでの「政治」が活性化していることの現れであるということです。

 フーコーは、権力が身の回りにあるものだと言いました。

 少し横道に逸れますが、学生時代に学科によってはフーコーが「常識」というようなかなり「先進的」な学科があって、そこで「国家権力」というようなことを言うと、嘲笑の対象となりました。「古い!お前、フーコー、読んでないだろう」というわけです。

 私は、逆にフーコーの間違えは、近代国家という最重要の権力、権力の結節点としての権力の重要性・特殊性を強調しなかったことだと思います。

 彼は、権力の問題を、ミクロもマクロも方法論的に同じ方法で把握できる、というようなことを言っています。

 もっとも同時に、フーコーは、自分自身の主張のバイアスを感じていたのだろうと思います。彼の議論の中に、近代国際国家体制について、特別に論じている部分があります。これは、近代国際国家体制があって、その中に近代国家があるということ、そして、そこでの国家権力(主権)というものの重要性を述べています。

 要するに、国家権力の特殊な枢要性というものの把握がないと、近代社会の様々なレベルでの権力は、理解できないのです。

 そこで話を元に戻します。ファシズム下では、日常・身近なレベルでの「政治」が活性化します。

 何故でしょうか。

  私は以前、ファシズムの行動の特徴を次のように書きました。

 

ファシズムは、多数派を得るために、宣伝を重視します。そこでは嘘、詭弁がテクニークとして堂々と使用されます。そして通常、宣伝が功を奏して、選挙を通じて政権につきます。

 権力を一度手にすると、権力の源泉が国民にあるという民主主義の精神は全く無視し、権力という支配力を最大限に発揮します。これは、形式的には合法的です。さらに、

 ①マスコミを脅しによって手中に入れます。その肝要性をよく知っているからです。権力獲得以前からの宣伝重視の延長です。

 ②全権委任法や非常時大権法のような、さらに国家権力を最大強化する法律を制定します。

 ③国家と国家を支持するファシズム組織以外の社会組織、運動は、すべて無力化されます。意見をいっても無視されたり、あるいは弾圧されたりします。民間の会社も、ファシズムを支持すればもうかり、批判すると仕事ができなくなったりすることが露骨に行なわれます。

 ④国家の強制性、暴力性が表面化します。その点で、国家とファシズム組織の連携が支配において重要な役割を果たします。国家ができないこと(暴力や暴力的表現)を代わりにファシズム組織が行なうことで国家権力は、パワーアップします。後者は前者の庇護の下に、高揚感、解放感、パワー感を得ます。

 

  以上は、国家権力と明確に結びついたファシズム組織について述べています。まず、国家権力の問題が第一にあります。

 しかし、ファシズム下では、確かにフーコーがいうようなより身近な日常的なレベルも含めて、様々なレベル、様々な形で権力をめぐる闘争、つまり「政治」が活性化することも重要です。

 まず、ファシズム組織に参加する個人の中には、上記で述べたようなファシズム状況に便乗する中間、末端組織の小ボス達がいます。彼らは、上の権力からの身の覚えをよくするためや、個人的な快感の為に、自らの小権力を濫用するようになります。

 しかし、そうした快感を得ようとする人々は、権力の末端にいる小ボスばかりではありません。ずっと広がっていくのです。

 この快感は、他人の自由を嫌う感覚に基礎づけられています。こうした他人の自由を奪うこと、それによる権力行使、権力を持っているという快感を求める行為がおおっぴらになってきて、日常的な世界にまで広がりつつあります。

 他人の自由を奪うまでいかなくとも、言論のレベルでも他人の自由をおとしめ、「つばをはきかける」ような行為をすることによって、自分がパワーのある存在であるということを誇示したい、そうした行為による快感を得たい、という欲求が増大し、それを抑える規範が弱化しつつあります。

 それは、上に述べたファシズム的状況と関連があることは直感的にわかると思いますが、もう少し、深く考えてみたいと思います。

 次回に、新自由主義ファシズムについて考察して、身近なレベルでの民主主義的な言論の重要性を論じます。