hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

音楽・政治・バエズ・クエーカー・スピア・魔女・愛・政治

 歴史が意外なところから、すごい速さで動いています。イギリスのEU離脱について近いうちに書きます。

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 前回、音楽と政治の話をして、連想ゲーム的に思い出したことがあります。

 中学校時代に政治性、社会性を持った音楽として、フォークソングが流行りました。その中に、アメリカの歌手でジョーン・バエズという少しハスキーな声で歌う女性がいて、彼女はクエーカー教徒でした。そのことは、彼女が後で書いた自伝で知ったのですが、その自伝には、自分がレズビアンであることも記してあります。

 私は、バエズのファンではなかったのですが、クエーカー教が絶対平和主義であるということを知って、そのキリスト教派の名前が印象づけられました。

 クエーカーというと、アリス・ハーズというこの教派のアメリカ人女性が、米政府によるベトナム戦争に抗議して焼身自殺をしています。おそらく、この時に初めて、このキリスト教派の名前を知ったと思いますが、それほど意識していませんでした。

 ・・・そして今から15年前(2001年)に、たまたまエリザベス・スピア『からすが池の魔女』という本を読みました。そこには、クエーカー教徒が魔女として迫害される姿が描かれています。そして、今回「音楽と政治」というテーマを考える中で、この小説のことを思い出してもう一度読んでみました。

 すばらしいですね。ネットで見るとLoveがテーマだとあります。映画化されていないようですが、題材とストーリーいずれも映像になったらすばらしいものとなるのでは、と思います。

 掛川恭子という人の訳も素敵です。こんな一節があります。

 

ふと顔をあげたキットは、ある発見をした。マーシィはいつものように暖炉のわきにかくれるようにすわって、手もとを見る必要もないくらい無意識で綿棒を動かしていた。ちょうどそのとき、急にぱっともえあがったまきが、一瞬、マーシィの顔を明るくてらした。ふかく聞きいっているマーシィの大きな目が、本の上にかがみこんでいる若い男の顔にくぎづけになっていた。そして、その一瞬は、マーシィの心をはっきりと語った。マーシィはジョン・ホルブルークを愛している!

・・・マーシィの目のなかでもえていたほのおは、じぶんをなげだした清らかさをたたえていた。その光のもとでは、キットが知っているかぎりのいかなるものも光を失い、かすんでみえた。あんなふうにだれかを愛するのって、どんな気持ちかしら? 

 

  ロマンチックですね。

 古すぎるというかもしれません。

 実際、この話は、アメリカの独立戦争のさらに100年前のことです。

 ところが私は15年前にこれを読んだ時以上に、今回この物語に強く引き込まれました。

 ここには、Loveの話だけではなく、王権の支配への対抗、自由や権利の問題がストーリー運びを支える重要な柱として、書き込まれていて、そこには明らかに著者のメッセージがあります。

 そのメッセージが、現在の私にとって、つまり現在のファシズム状況で、より切実なものとなっていたということでしょう。

 ただここで見落としてならないのは、この作品が、登場する若い男女達のLoveの枠組みもまた、すべて社会や政治に規定されているということを、大上段からではなく、文字通り若い彼らの日常から描き出していることです。

 エリザベス・スピアは、男女平等という価値のメッセージを、歴史的な枠組みの中でせいいっぱい行動する若者達への愛しい視線と一緒に、読者に投げかけているのです。

 この物語のヒロインであるキットは、バルバドス島で、イギリス王より爵位を与った祖父のもとに育てられます。彼女は、召使の奴隷の存在を前提とする一方、教養のある祖父の愛に恵まれた心身のびのびとした「自由」な存在でもあるのです。

 ピューリタン達による魔女迫害の話も、彼らがどのように自分達の社会と国家を作り上げていったか、という問題に、「自由・独立・権利」という形で、単純に通り過ぎていくことを許さない、重要な深さを与えています。

 著者の歴史の逆説を利用した手腕に感心してしまいます。