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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

他人の自由を嫌う人々と新自由主義・ファシズム(2)--「音楽に政治を持ち込むな」という「政治」がなぜ活性化するか

 まず、新自由主義が一般的な人々の間での感情的、攻撃的な「政治」を作り出したことを説明します。

 新自由主義を、経済思想として把握すると間違いに陥ります。

 フーコーは、それを統治技術としてとえらえました。1970年代後半です。

 なんとすぐれた政治的・社会科学的感覚でしょう。この把握の仕方ばかりでなく、その重要性をその時点で理解していたことも並の思想家ではあり得ません。

 ただフーコーは、こうした統治技術の採用が、資本主義の何らかの危機と関連していることを述べていません。何故かというと、フーコーは方法論的に、資本主義というような概念を自らの分析に取り入れることを避けているからです。詳論は避けますが、彼なりの社会科学観、方法的一貫性に対するこだわりがあります。

 これに対し、マルクス主義的な方法に立つ者達は、新自由主義が資本主義国家におけるイデオロギーであるというふうに言いますが、漠然とした把握になっています。

 統治の「技術」として、洗練された体系になっていることを把握、分析することは後回しにします。

 その代わり、マルクス主義による把握の重要な点は、それが資本主義の何らかの危機への対応として採用されているという視角です。

 フーコーが、新自由主義を「合理的」な統治技術だとしていて、読み方によっては、あたかも難攻不落のものであるかのように描くのに対し、マルクス主義的な分析は対照的です。

 ハーベイは、『新自由主義 その歴史的展開と現在』の中で、新自由主義の実践が、破産に陥りつつあったニューヨーク市に始まり、社会主義政権をクーデターによって倒したピノチェット独裁のチリ、さらに経済的に退潮するイギリスへと拡がっていくこと、それらが労働者の闘争と権利を押さえ込む形での、危機への対応であったことを、明らかにしています。

 柄谷は、『世界史の構造』で、世界資本主義の循環性を指摘し、新自由主義は、帝国主義的な特徴が現れる時期の現時点でのイデオロギーであることを論じています。

 アメリカのヘゲモニーが後退し、各国による対立、競争が激化します。そこでの国家と資本による、自らの地歩と利害を守るための対応が、新自由主義なのです。

 私は、新自由主義の統治技術としての側面の分析は重要だと思いますが、より重要なのは、まず新自由主義国家の現実や本質の把握であり、それにはマルクス主義的接近が有効と考えます。

 極簡単に言ってしまえば、マルクス主義的分析が言うように、新自由主義とは、世界資本主義が直面する困難(危機)を、勤労者や弱者を犠牲にして切り抜けようとするものであり、そのために、より権力や金力を直接に働かせる政策や方法--つまり、弱肉強食のやり方--を指します。

 「経済的自由がすべてを解決する」というような原理主義的な体系やそれを公的分野に適用する新公共経営論は、合理的で効率的だということを自らの理論の正しさとして主張します。

 しかし、それらの「理論」は新自由主義の本質を表したものではありません。

 何故なら、それは、普遍的に適用されるのではなく、勤労者や弱者を犠牲にするためには用いられますが、権力者や資本、金持ちや強者とって不都合であれば、それらは無視され、それらの「理論」と全く逆のことが平然と実行されます。 

 1970年代の終わりから、世界的なレベルで、福祉国家は急速に新自由主義国家へと変わり、労働者が一世紀以上をかけて獲得してきた諸権利が奪われていきます。

 それは、2つの面で進行します。第1は、労働組合を弱化することを通じての賃金の切り下げ等の労働条件の悪化であり、第2は、福祉水準の切り下げです。

 それは確かに国家と資本が「強い」から可能なのですが、しかし、それは彼らがその方法をとるのは、福祉国家を破壊していく他に、自らの利益を守る方法がないと感じているからです。

 そしてまた、福祉国家の下の主要政党は、1つの場合であれ、2つの場合であれ、基本的に新自由主義を受け入れることによって自党の勢力の維持を図ります。

 こうした中で、ほとんどの勤労者は、労働組合の無力化、労働市場での経済的交渉力の無力化にさらされると同時に、国民は、福祉水準の悪化に甘んじなければならない状態となります。

 ここで、人々は無力感と閉塞感にさいなまれます。と同時に、新自由主義から派生するイデオロギーに励まされて、一部の人々は、労働者や経済的弱者に対して感情的で攻撃的な「政治」を始めて、自分の無力感を補償しようとします。

 そのようなイデオロギーとして、第1は、「消費者vs労働者」、「納税者vs公務員労働者」という対立構図が設定され、前者が「王様」であるべきとするイデオロギーがあります。

  第2は、「自己責任」のイデオロギーであり、それは、福祉制度への全面攻撃の論理です。

 「自己責任」を掲げる人は、「自己責任」でない場合を述べようとしません。どのような場合でもすべて「自己責任」という結論が先にあります。

 例えば、こどもが貧しくて高校に行くのがやっと、大学には無理、という場合、こどもに「自己責任」がないのは明らかです。

 ところが、「自己責任」論者の中には、「親の自己責任だろう」等と言い出す人がいます。

 要するに、すべての福祉制度に対する敵意を持つ人、福祉制度の中にうさんくささを嗅ぎ出す人々のイデオロギーが、「自己責任」論です。

 第1と第2の場合のいずれも、いわば下からの感情表出が重要な役割を果たしており、そうした感情がイデオロギーと結びつくことによって合理化され、政治的パワーにまで増幅されることが起きてきます。

 これらの「政治」の特徴は、感情的なエネルギーによって支えられ、得ようとするものも感情的な満足であることです。

 「自分達のパワー(所得や職の安全)が奪われたのに、あいつらのパワー(公務員労働者の所得や職の安全、生活保護者の受給)があるのは『不当』だ」

 「自分達のパワー(所得や職の安全)が奪われたのは、あいつらのパワー(公務員労働者の所得や職の安全、生活保護者の受給)が『原因』だ」

 「自分達のパワー(所得や職の安全)は、あいつらのパワー(公務員労働者の所得や職の安全、生活保護者の受給)を奪えば『回復』できる」

 実際には、このような主張が実現しても、パワーが奪われたと感じている人のパワーは回復しないのですが、今やこうした「政治」が目的とするところは、彼らが「不当」だと感じている他人のパワーを取り上げること、そういう支配力を自分達が持っていると感じること自体となっています。

 無力化した人々、無力化の不安にさいなまれている人々の感情的、攻撃的なパワーが、まだ「不当」にも無力化していない人々へ襲いかかるのです。

 この「不当」感情は、ファシズムにも共通します。次 々回にこのことを論じます。